空飛ぶおたまじゃくし(3)


♬カミーユ・サン=サーンス作曲

 動物の謝肉祭

 第13曲ト長調『白鳥』



 ピアニッシモで静かに始まる伴奏は、湖面のように小さな波に光を乗せてきらめいている。

 主張することなく、あくまでも静かに。アルペジオが、一粒一粒のきらめきを投げかける。


 同じくピアニッシモで静かに始まる主旋律は、白鳥のように。

 優雅に、ゆったりと、のびやかに湖面をすべる。

 両手でアルペジオを奏でながら、一音一音、チェロのように深みのある音を乗せていく。


 たった一分で中断したリストの演奏よりも、音葉おとはの顔は生き生きと輝いていた。

 半自動セミオート機能に音を修正されたとしても、この波は、このはばたきは、音葉だけのものだ。


 約三分かけて歌い上げた音葉の『白鳥』は、はばたいたあとに残されたピアニッシッシモの光の粒も、ピアニッシッシッシモの最後の一音に至るまで、心の奥まで沁み入るような余韻を残して。


 静かに、演奏を終えた。



 * * *



 音葉は立ち上がり、ヘッドホンを外すと殊勝しゅしょうにもきちんと一礼した。卓渡たくとは惜しみない拍手を送った。


「素晴らしい! けなげでみずみずしく美しい、音葉さんにふさわしい白鳥でした!」


「あの、これで、もう……?」


「十分です。パ~~フェクトです。あなたの『命の音』、確かに回収いたしました」


 終了宣言に、音葉の表情が和らぐ。肺の奥から、大きな息がもれる。

 卓渡はおもむろに、指揮棒の先でピアノの電源スイッチ部分を指した。


「ところで、気づいてました? 実は電源、さっき切っちゃいました。今の演奏、百パーセント音葉さんの実力ですよ」


「えっ……」


「あなたは十分に立派なピアニストです。これからもどんどん上達します。手も大きくなって、リストも難なく弾けるようになるでしょう。ついでに教えて差し上げますと、さっきのリスト、手が届かない部分以外はパ~~フェクトでした。

 おじいさまのピアノを大事にすることは、とても素晴らしいと思います。おじいさまの作品を世間に伝えることも、今までよく頑張ってきましたね。でも、この一台に縛られることも、弾けない部分があるからと悲観することもありません。音楽は、あなたが真摯しんしに向き合えば、あなたにいちばんふさわしい輝きを届けてくれるものです」


 録音を終えた(らしい)黒い卵を肩に乗せ、さっそうと音楽室を後にする。

 部屋には、腰を抜かしながら苦笑する少年と、静かに客人を見送る庭師の姿が残された。



 * * *



「♬たっまごったっまごったっまごっちゃーん♬」


 リストの『荒々しき狩』に変な歌詞を乗せて歌いながら、卓渡は「夜の川波邸」に侵入しようとしていた。相変わらず燕尾服である。


 立派な門扉を押すと、普通に開いた。キィ、とわずかな音を立て、漆黒の燕尾服がするりと滑り込む。


「よかった、黒玉ちゃんに警備解除させる必要ないみたい」


 この時間、音葉が就寝していることは調査済みだ。

 指揮者走りで庭へ忍び込むと、そこに、庭師の男が立っていた。


「よかったー、いたいた」


 作業服に身を包んだ、寡黙かもくで無表情な男。

 卓渡の勤務先によって命を与えられた、音葉の祖父の遺作である機械人形オートマタ

 卓渡は人形に向かって、舞台挨拶のようにうやうやしくお辞儀をした。


「この度は、生前のご契約、誠にありがとうございました。川波かわなみ音彦おとひこ様」


 ぎこちない動きで、人形が卓渡を見る。


「私どもは、人の命の輝きを乗せた音を回収し、次なる命へと繋げます。お孫さんの音は素晴らしかった。きっと、よい命を呼び込んでくれることでしょう」


 肩の上で、黒い卵もうやうやしく頭(?)を下げている。


「通常は、機能停止した卵に新しい命を吹き込むにとどめるのですが、川波様のように、強い思いを発する魂が呼び込まれることもございます。生前の記憶まで残っているのはレア中のレアケースです。演奏や世間の評判に傷つき悩むお孫さんを、ずっとそばで見守るのは、さぞおつらかったことでしょう。

 こんな夜分にうかがったのは、大事なことを川波様にお伝えするためです。お孫さんにもお伝えしたとおり、私どもは川波様の魂は回収いたしません。が、誠に残念ながら、魂にも期限というものがございます。川波様がここにいられる日は、あとわずかだと思われます。……どうか、最後まで、お孫さんのそばで、心安らかに――」


 ふいに、手を握られて、卓渡の言葉が途切れた。

 人形は両手で卓渡の手を握り、作れる限りの精いっぱいの笑みを浮かべていた。


「……ア、リ、ガ、トウ……」



 * * *



 音は、命の結晶。

 命の数だけ、様々な音がある。


 二度と同じ音は奏されない。

 今そこにある響きだからこそ、音は、命は、かけがえのない色で光り輝く。


 空を渡るおたまじゃくしを、青年はぼうっと眺めていた。

 自分の無口な相棒バディが聞かせてくれる音は、いったいどんな音なのだろう。


 次なる「音の回収」に向けて、燕尾服と黒い卵の真っ黒コンビは、今日も人の世を渡ってゆく。


「さて、黒玉ちゃん。次の回収に行きますか!」

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