注文の多い故郷

絵子

注文の多い故郷

 陽の光に照らされてきらきらと輝く海に、どおんと花火の打ち上がる音が聞こえる。彼は思わず目を細める。ふと、幼い頃の記憶が蘇る。ベランダから見える瀬戸内海。夏の夜は家の窓から海に咲く花火を見ることができた。母とともに暗い空を指差しながら、赤や黄色にきらめく花火を夢中で眺めていた。


 来た道を振り返ると、眼下に民家がひしめきあい、ノスタルジックな風景が広がっていた。ちょっと前には映画の舞台にもなったそうだが、今では人っ子一人見あたらず、すっかり寂れた雰囲気がある。遠くに見える瀬戸内海は子どもの頃に記憶していたよりもずっと青々としていて、彼はなんだかもったいない気持ちがした。


 夜は冷え込むと聞いてジャケットを羽織ってきたが、背中にはじんわりと汗をかき始めていた。随分と歩いた気がする。腰も痛いし、足も張る。こんなことなら、ロープウェイに乗ればよかったと後悔した。現地を歩いて取材をするというルポライターの意地が、彼が乗り物に乗るという選択を打ち消した。


 「山猫軒」の話が舞い込んできたのは、つい先日の出来事だった。広島県尾道市に突如現れた「山猫軒」というレストランを取材してほしい。某有名オカルト雑誌を発行している会社からの直々の依頼だった。


「宮沢賢治なのに、広島か・・・」


 どうせファンが物語に感化されて、それをモチーフにしたレストランでも造ったのだろう。彼は高を括っていた。


 くしくも、広島は彼の故郷だった。生まれてから小学生までの多感な時期をこの地で過ごした。小学6年生の時に、父親の仕事の関係で東京に引っ越すことになったのだが、今でもその頃のことは鮮明に覚えている。山の上にある小学校まで30分かけて通ったこと。道中に咲くツツジをちゅーちゅーと吸いながら、これは甘い、これはまずい、と友だちと笑い合ったこと。日が暮れるまで、近所のちびっ子たちと鬼ごっこをして公園で遊んだこと。大きくて白い可愛らしい犬を家で飼っていたこと。いわゆる、広島は彼にとってのイーハトーブなのかもしれない。


 過去に思いを馳せながらもひたすら歩いていたら、いつの間にか木がかさかさと覆い茂った道に入っていた。さっきまでの明るさは嘘のようで、樹木の下が陰になっていて辺りはとても薄暗い。それでもめげずに、人がやっと一人通れるくらいの細道をずいずいと進む。山の中は静かで、鳥の鳴き声さえ聞こえない。


 かなり歩いた。それはだいぶの山奥だった。よもや道に迷ってしまったかと、いささか不安になった。汗はすっかり乾いていて、ほんのり肌寒い。なんだか腹も空いてきた。


「そろそろ戻ろうか」


 ところがどうも困ったことは、すっかり道の途切れた森の中に迷い込んでしまって、どっちへ行けば戻れるのか、いっこうに見当がつかなくなっていた。風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴っていた。

 どうもおかしい。彼は狐につままれた気持ちで首をかしげた。一人の男は、ざわざわ鳴るすすきの中で思案した。


 その時ふと後ろを見ると、立派な一軒の西洋造りの家があった。

 そして玄関には


  RESTAURANT

  西洋料理店

  WILDCAT HOUSE

  山猫軒


という札が出ていた。


「ついに見つけた!」


 彼は玄関の前に立った。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なもんだった。そして硝子の開き戸がたって、そこに金文字でこう書いてあった。


「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」


彼はそこで、ひどく喜んで言った。


「本当に物語のとおりじゃないか!」


 手持ちのカメラで写真を撮る。どうもピントが合わないが、駄目元でパシャパシャッと数枚をフィルムにおさめた。

 彼は戸を押して、中に入った。そこはすぐ廊下になっていた。その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていた。


「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」


 あいにく、彼は肥ってもいなければ、三十歳そこそこ、胸を張って若いとも言いきれない。

 ずんずん廊下を進んでいくと、今度は水色のペンキ塗りの戸があった。上に黄色な字でこう書いてある。


「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」


 彼は扉を開けると、その裏側を見た。


「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえてください」


 案の定、また扉が一つある。そのわきに鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあった。


扉には赤い字で、


「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落としてください」

と書いてあった。彼は素直に髪をブラシでとかして、靴の泥を落とした。ブラシを板の上に置くと、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきた。なんとも趣向を凝らした演出である。


 また黒い扉があった。


「どうか帽子と外套と靴をおとりください」


 帽子はかぶっていなかったが、一応ジャケットは釘にかけておいた。靴をぬいでぺたぺた歩いて扉の中に入った。

扉の裏側には、


「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」


と書いてあった。扉のすぐ横には黒塗りの立派な金庫も、ちゃんと口を開けて置いてあった。鍵まで添えてあったが、彼はこれには言うことを聞かず、財布もカメラも、こだわりで常に持っている万年筆も、一切預けることはしなかった。


 少し行くとまた扉があって、戸の前には金ピカの香水の瓶が置いてあった。


「料理はもうすぐできます。

 十五分とお待たせはいたしません。

 すぐたべられます。

 早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてください」


 ついにクリームを顔や手足に塗ることはなかったが、香水をまず手の甲に振りかけて匂いを嗅いだ。香水はほのかにレモンの香りがした。


 彼は扉を開けて中に入った。扉の裏側には、大きな字でこう書いてあった。


「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。

  もうこれだけです。どうか、旅のお土産に壺の中の藻塩をお楽しみください」


 なるほど立派な青い瀬戸の塩壺が置いてあるが、これはいったいどういうわけか。ご丁寧に小さな巾着袋も添えてある。

 そして、奥の方にはまだ一枚扉があって、大きな鍵穴が二つつき、銀色のホークとナイフの形が切り出してあって、


「いや、わざわざご苦労です。

 大変結構にできました。

 さあさあおなかにお入りください」


と書いてあった。

 彼は内心ドギマギしながら、鍵穴を覗いた。中には白いテーブルクロスのかかった円卓がどんと置かれていて、大きな猫が二匹、向かい合わせに座っていた。円卓の中央には蝋燭が灯されていて、火がゆらゆらと揺れている。


「だめだよ。全然お客が来ないよ」


「あたりまえさ。親分の書きようがまずいんだ。これじゃ、自分が食べられちゃうと思って人が寄りつかないんだ」


「みんながみんな物語の山猫みたいに、人間を食べるわけじゃないのになあ。僕らみたいに、魚や野菜が好きな猫だっているんだぜ」


「そんなことは、人間の知ったことじゃないよ。ああ、昔みたいに可愛がってくれる人間はいないかなあ。最近はめっきり人も減って、殺処分されちまった仲間もいるそうだ」


 二匹の猫は力なくひげをだらんと垂れ下げている。顔をくしゃくしゃにして泣いているようにも見えた。


「こうなったら呼ぼうか、呼ぼう。お客さん方、いらっしゃい。新鮮な魚を用意していますよ。旬のイワシはいかがですか」


「へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それとも生牡蠣はお嫌いですか。そんなら火を起こしてフライにしてあげましょうか。さあ、いらっしゃい」


 彼がいるのを知ってか知らずか、二匹は口々に誘い文句を唱えている。彼はなんだか二匹の猫が不憫に思われて、ドアノブに手をかけた。


 その時、いきなり「わん」という声がして、彼は思わずドアノブから手を離した。彼はそれが幼き頃に実家で飼っていたあの白い大きな犬の鳴き声のように聞こえた。

 室はけむりのように消え、彼は草の中に立っていた。見ると、上着や靴は、あっちの枝にぶら下がったり、こっちの根元に転がったりしている。風がどうとふいてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴った。二匹の猫も白い犬の姿も見ることはなかった。彼は不思議な心持ちで、細道をくだって帰路についた。


 尾道での奇妙な体験は、東京に帰った後も彼の心から離れることはなかった。尾道の細い坂道が「猫の細道」として、人々に知られるようになるのはもう少し先の話である。

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