そして怪談ははじまる

 もしも過去をやり直せるとしたら、と考えてしまうことがある。

 考えたところで、やり直せるわけではないと知りながら。僕は超能力者でもなければ時間旅行者でもない。未来人でもなければ宇宙人でもない。無駄な思考と分かりつつ、それでも考えてしまうのは、僕が感情を持つ人間であり、強い後悔を持っているからだろう。


 いまもっともやり直したい過去があるとすれば、それは今朝のことだ。朝里と喧嘩にならないようにうまく立ち回っていれば、というのは、思ってしまう。あれだけ長く付き合った女性との関係が、たった一回の喧嘩で終わってしまうなんて、あまりにも悲しすぎる。


 でもその直近にして最大の後悔を除けば、やはり高校三年の時のことだ。僕と神原の仲は、まだ良好だった。そして僕が朝里と出会った頃でもある。出会った頃は、恋人同士になって、一緒に暮らす未来なんて想像さえしていなかった。


 僕たちふたりは恋をしていた。朝里、というひとりの女性に。神原がおのれの想いを実際に口にしたことはなかったが、彼の様子を見れば、容易に想像できた。結果として、僕は朝里と結ばれ、そして友人をうしなった。卒業以降、彼と顔を合わせることはなかった。久し振りに見た彼の姿は、むかしとあまり変わっていない。


「よっ、久し振り。元気にしてたか」

 と、神原はむかしのわだかまりなんてなかったかのような笑顔を浮かべていた。


「あぁ、うん……」

 これが神原とふたりきりの会話だったなら、もうすこしはっきりした受け答えもできたかもしれない。ただ彼の周囲を見回すと、知らない顔が並んでいる。その圧迫感が、僕から軽快な口調を奪った。


「そんなに緊張するなよ。知らない仲じゃないんだから」

 お前はそうかもしれないけれど、他のひとたちは、知らない仲なんだから、と言いたい気持ちをぐっとこらえる。厳密に言えば、相瀬さんは違うけれど、さっき知ったばかりの仲を、知った仲、と表現するわけにもいかない。


 ふと僕は相瀬さんに目を向けた。目が合った相瀬さんが、ほほ笑む。

「はじめまして」


「えっ」

「ん。私たち、どこかで会いましたか?」


 意味ありげな表情を浮かべて、相瀬さんが言った。僕たちが顔見知りという事実を隠そうとしているみたいだ。理由は分からない。もしかしてこの中に、彼女の恋人でもいるのだろうか。気になるけれど、いきなり場を乱すわけにはいかない。ふたりきりになれるタイミングがあれば聞いてみよう。


 彼女のことが気になって仕方ない。朝里の不在を、僕は急いで埋めたい、と思っているのかもしれない。


「はじめまして」

 と、僕も言葉を返し、すこし沈黙が流れる。


「もしかして、相瀬さんに見惚れてる?」

 そう言ったのは、白いシャツにジーンズを履いた中性的な雰囲気の女性だった。このひとも相瀬さんに負けないくらい、綺麗なひとだ。年齢は僕よりすこし上、二十代後半くらいだろうか。相瀬さんには近寄りがたい雰囲気があるが、このひとは初対面から分かる話しやすさのようなものを感じた。


「あ、いえ、そんなわけでは……」

「私、新倉にいくら、って言うんだ」

 白シャツの女性、新倉さんが、座ったばかりの僕の近くに来て、楽しげに言う。吐息のかかりそうなほど近い距離に、どきり、としてしまう。


「佐藤さん、って物書きの方なんですよ、ね」

 僕のことを、みんな〈佐藤蓮〉として共有しているみたいだ。神原からはどこまで聞いているのだろう。本名まではわざわざ伝えていない気がする。


「まだそう名乗っていいようなレベルか分かりませんが……」

「物書き、って観察眼が鋭いイメージがあるんですけど。趣味は人間観察、みたいな」

「ひとそれぞれだとは思いますけど、まぁそういう方は多いかもしれませんね。僕はそんなに得意なほうではないですね」


 近くに綺麗な女性がいる、という緊張でうまく舌が回らない。すこし離れて欲しい、とも思ったが、どんどん新倉さんの距離は近くなってくる。


「じゃあ、私は、どう見えますか?」

「綺麗なひとだ、と思います……」

 気恥ずかしくなりつつも、僕は率直な感情を伝える。相瀬さんの表情が気になる。僕に好意があってもなくても、さっき口説いてきたばかりの男が、他の女性にどきどきしている姿は、あまり嬉しくないだろう。だけど相瀬さんは、笑っていた。残念だ。


「おいおい、困っているじゃないか。可哀想に」

 そう言ったのは、体格の大きい短髪の男だ。目つきは鋭く、すこし怖い。街中で出会ったなら、思わず眼を逸らしてしまいそうな雰囲気がある。学生時代、体育教師に、熊のような外見の、熊田先生というひとがいたけれど、その先生に似てる。口より先に手が出るタイプで、むかしからこういう威圧的な雰囲気のひとは苦手だ、と嫌な記憶がよみがえってくる。


 この男性の性格は何も知らないのに、僕はすでに苦手意識を持っている。


「いやぁ、つい聞きたくなっちゃうんですよね。……ごめんね。実は私、男なんだ」口調がフランクになった。「身も心も。嫌な性格だと思うけど、どうしても気になるんです。相手が自分をどう見てるのか」

「すみません」


 僕が謝ると、彼女……いや、彼が首を傾げる。

「なんで謝るの?」

「性別を間違えられたら、誰だって嫌な気持ちになりますよね」


「私は気にしないですよ。それに騙すみたいな言い方をした私が悪いんですから。そりゃあ確かに嫌な感情を抱くひともいるかもしれないから一般論にするつもりはないけど、すくなくとも私に関しては何も気にしませんよ。だから佐藤さんも気にしなくていいです。逆にあんまり気にされたら、そのほうが嫌な気持ちになるかもしれませんね。……さて私の自己紹介は終わり。えぇと、次は」


「まったく性格が悪い」

 と言葉を引き継いだのは、先ほどの威圧感のある大男だ。外見で判断する限り、おそらくこの中で、一番年上で、四十代後半くらいだろうか。腕まくりで剥き出しになった腕は、筋肉質だ。


「ふふ、まぁいいじゃないですか。じゃあ次は、小野寺おのでらさんの番ですね」

 親しそうに話すふたりを見ながら、僕は神原からのメッセージを思い出していた。SNSを通じて知り合ったひとたち、ということだけれど、彼らは今回はじめて会ったわけではなく、すでに何度か実際に顔を合わせているメンツなのだろうか。年齢も性別もばらばらだが、親密な雰囲気がある。


「そうだな。……まぁ俺の名前はいま新倉くんが言ってしまったから、これ以上語ることなんて、あんまりないんだが」

 小野寺さんが自身の短髪をぼりぼりと掻く。饒舌に話をするタイプには見えない。小野寺さんだけに関した話ではないけれど、誰がどんな職業なのかも、まだ分かっていない。外見のイメージから想像するなら、力仕事をしている人間だろうか。


「えぇ。もうちょっと何か言いましょうよ」

 新倉さんがそう言って小野寺さんの肩を叩く。新倉さんの気安い態度に怒った様子もない。しかし本当に綺麗だなぁ、と、にこにこ笑う新倉さんを見ながら、改めて思う。彼が、男性であろうと女性であろうと、僕のその感情はあまり変わらなかった。


「佐藤くんは、惚れっぽいひとなんですね。……はい、お茶。ごめん、すぐに出せば良かったね」

 そんな言葉とともに、相瀬さんが、僕の前にお茶の入ったコップを置き、そしてちょうど空いていた僕の右隣に座る。ひとつのテーブルに新倉さん、僕、相瀬さんの順で横並びになっていて、テーブルを挟んで僕の正面に神原、彼の両隣に、小野寺さんと、まだ自己紹介を終えていない少年がいる。


「そんなわけじゃ……、あ、ありがとうございます」

「じゃあ、次は私の番かな。相瀬、って言います。まぁ、ついさっき、新倉さんが私の名前を言ってたから、もう分かってるか」


 いえ、それよりも前から知っていました、という言葉をぐっとのみ込む。隠そうとする彼女の真意は分からないが、場の空気を乱したくはない。


「相瀬さんは、占い師をしてて、その筋じゃ結構有名なひとなんです。占い、というか、私は超能力でもあるんじゃないか、ってすこし疑ってるんですけど」

「新倉さん、勝手にひとの個人情報をしゃべらないでください」

 子どもを叱るように、相瀬さんが言った。


「秘密にしてください、って言われたら、私だって黙ってますけど、何も言われてないですもん」


「そんな子どもみたいな態度を」と相瀬さんが苦笑いを浮かべる。そして僕に向き直って、言った。「まぁ、いま新倉さんが言った通り、私は占い師をしています。新倉さんは有名、って言いましたけど、ただの田舎のどこにでもいる占い師ですよ」

 相瀬さんが僕に名刺を差し出す。さっき会ったタイミングで渡してくれれば良かったのに、と思う。彼女のいるお店の名前と、『相瀬縁』という名前が記されている。本当の名前かどうかは判断が付かない。もしかすれば仕事用に使っている芸名のようなものかもしれない。


 ただその名刺を見た瞬間、真っ先に目がいったのは、お店の名前でも、彼女の名前でもなく、端に手書きでちいさく添えられた文字だった。


 電話番号と、

『この番号で、スマホからメッセージください』

 と書かれていた。


 見た瞬間、条件反射的に僕は、指でその部分を隠した。怪しい態度を取ってしまったかな、と周りを見たけれど、誰も不審に思っているような素振りはなく、ほっとする。


 さっきコップを取りに台所に行っていたから、その時に書き添えたのだろうか。

「どうしたんですか? 佐藤さん?」

 と相瀬さんの表情が、意味ありげに見える。


 どういうつもりだろう。


 僕はトイレを貸してください、と洋式便器がひとつの小さな個室に入り、電話番号からショートメッセージを送る。


『どういうつもり?』


 リビングに戻ると、新倉さんが言った。

「よし、神原さんと佐藤さんは元々知り合いだし、私たちはもうすでにお互いを知ってるから。あとはじゃあ、夢宮ゆめみやくんだけ、かな」

「は、はい」


 夢宮くん、と新倉さんに呼ばれて、その少年は明らかに緊張したような表情を浮かべていた。小柄な男の子だ。たぶん年齢は中学生くらいだろうか。すこし自信の無さそうな目は普段からのものなのか。いや、この場の雰囲気のせいかもしれない。大人の中にひとり混じる、という状況は、彼くらいの年齢にとっては強い緊張があるはずだ。というか僕だって、かなり緊張しているのだから。


「そんなに緊張しなくてもいいだろ」

 と夢宮くんを見て、小野寺さんが笑う。


「ご、ごめんなさい」と言って、彼が僕を見る。「ゆ、夢宮、って言います」

「うん。よろしく、中学生?」

 と聞くと、彼が頷く。


「はい」

 顔だけなら、小学生か中学生か判断に迷うところだけれど、夢宮くんの着ているブレザーには見覚えがあって、僕の通っていた中学校で使用している制服だ。僕の通っていた頃と、制服はいまだに変わっていない。


「きみは地元の子?」

「はい。住んでいるところも、ここのすぐ近くです」

 遠くから来ているなら、親御さんも心配するだろう、と思ったけれど、それなら中学生ひとりで来ていても、おかしな話ではない。


「夢宮くんだけは、元々リアルでの知り合いだったんだ。俺のいま住んでるところの近所の子で、さ。俺やお前みたいに、怖い話が大好きなんだ。もしかしたら俺やお前以上の存在になるかもしれないぞ」


 そう言って、神原が笑みを浮かべる。


「みなさんも、ここのひとなんですか?」

 僕は全員の顔を見回した。


「いや……、俺は違う。俺は名古屋の人間だよ」と小野寺さんが答えた。「あとは……確か新倉くんも、こっちじゃな……かったよな」


 途中で自分の言葉が合っているのか心配になったのか、小野寺さんが新倉さんの顔を見た。にこり、と新倉さんが笑って、うなずく。新倉さんの表情は柔らかいはずなのに、すこし怖さがある。優しそうなタイプが怒ると一番怖い、と思わせてきそうな雰囲気のひとだ。


「私は関西の人間ですよ。あとは内緒です」

「そのわりには、訛りがないよな。関西弁」

「そうなんですよね。むかしから、訛りがなくて、しかもこういう見た目だから、余計、周りから良いふうに思われなかったですね……まぁ、こんな話はやめましょう。あと私の個人的な情報は隠しておかないと、話す時に、面白さが半減するじゃないですか」

 と新倉さんが意味深なことを言った。


「ふぅん、じゃあ新倉さんが最初に話す?」

 と相瀬さんが言った。


「あぁ、いや俺から話してもいいかな。ほら、俺の話なら鈴木くんもすでに知っているから」

「鈴木さん、って表札の?」

『鈴木』という表札については忘れていたわけではないけれど、ちょうどよく聞くタイミングがなかった。こうやって、小野寺さんが名前を出してくれて、ほっとする。


「そう言えば、遅いな」と神原が言った。「急用ができたから、って連絡があって。時間までに戻れるかどうか分からない、なんて言ってたけど、でも終わりまでには間に合うかな、とは考えてるんだけど」


 どんな人物かまったく想像はつかないけれど、不用心だな、とは思った。彼らの関係の程度は分からない。ただそこまで深い仲という感じもしない。なのに、自宅を他のひとたちに任せる、というのは。これだけの数の目があれば、ひとりが悪さをすることはできない、と思っているのだろうか。全員が共犯者だったら、どうするつもりなのだろう。


「どうしたのかな、鈴木くん? ナンパでもしているのかな」と冗談めかして新倉さんが言った。「まさに軽薄、って感じだから」

「急用で、ナンパ、って」と相瀬さんが笑う。

「どうかな……」小野寺さんがひとつ息を挟む。「もしかしたら、ひとでも殺してるんじゃないか」


 その言葉を聞いた時、ひんやり、と場の温度が下がったような気がした。もちろんエアコンの効きとか、そんな話ではない。


「殺して、って……」

 僕のつぶやくような言葉に、小野寺さんがちいさく笑う。


「……冗談だよ。真面目に受け取らないでくれ。あぁそれと話す順番の話だけど、以前にもこの中の何人かで一緒に集まったことがあって、えぇとあの時は、俺と相瀬さん、神原くん、鈴木くんだっけ。そう、そのメンバーに話していて、俺の話はもう鈴木くんも知っているから、ちょうどいいだろう。相瀬さんと神原くんの話は、俺よりあとのほうが流れ的にも良さそうだ」


「あれ、別に私、同じ話するなんて言ってませんよ」

 相瀬さんが言った。言葉のわりに、抗議の意思は感じられない。


「でもあの話だろ」

「まぁ、そうですね」

「じゃあ、まぁ俺で良いだろう。神原くんも大丈夫だろ」

「はい、もちろん大丈夫ですよ」

 そして小野寺さんが、ひとつ息をはく。


 同じタイミングだった。夏のすこし強く吹いた夜気が窓を叩いた。もうすぐ恐怖を語り明かす夜がはじまる、と合図を告げるように。


 だけど、それだけではない気がした。

 すこしだけ僕はこの集まりに違和感を覚えている。

 ただその正体は分からなくて、もしかしたら僕の勘違いでしかないのかもしれない。

 いまの段階で、あれこれと考えるのはやめておこう。


 誰かが部屋の明かりを消し、蝋燭がわりなのかは分からないが、テーブルの真ん中にライトが置かれ、その光がぼんやりと五つの顔を浮かび上がらせる。


 体格の大きい、おそらく最年長の男性、小野寺さん。

 男性か女性かひと目では判断の付かない、口数の多い男性、新倉さん。

 僕とはすでに会っているのに初対面の振りをする、占い師の女性、相瀬さん。

 地元の中学生で、神原と元々知り合いの中学生、夢宮くん。

 そして高校時代からの同級生、神原。


 そしてひとりの男が語りはじめる。

 僕を見ながら。他にもひとはいるのに、まるで僕にだけ話すかのように。

 萌した違和感を無理やり外に追い出し、僕は彼の語りに、耳を、恐怖を求める心を傾ける。

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