第168話 実はクマちゃんも、なクマちゃんと、倒された誰か。「……もー、マジ――」
お上品に喉を潤し、ふわふわの布でふわふわと口元を拭いてもらったクマちゃんは考えていた。
ルーク達はまた、クマちゃんを置いてお仕事に行ってしまうのだろうか。
とても寂しい。
クマちゃんも一緒に行きたい。
しかし『クマちゃんも連れて行ってください』とお願いしても、『危ないからクマちゃんは駄目!』と言われてしまうだろう。
うむ。彼らにクマちゃんの素晴らしい戦闘技術を見せる必要がある。
大型モンスターという生き物に会ったことはないが、クマちゃんの最速肉球パンチを見れば、あまりの恐ろしさに相手はすぐに『ごめんなさい』と言うはずだ。
でも本当に当ててしまうと大型モンスターちゃんは大怪我をして『いたいよー』と泣いてしまうかもしれないから、空中でシュッ、シュッ、と肉球パンチの素振りをするだけでいいだろう。
彼らが森の様子について話し合いながら愛らしいもこもこを眺めていると、もこもこが幼く愛らしい、ややキリッとしているような気がしないでもない声で「クマちゃん、クマちゃん――」と言った。
『クマちゃん、戦うちゃん――』と。
皆には言っていませんでしたが、実はクマちゃんも戦えるのです、という意味だ。
「絶対無理なやつ」
脳に口が付いている男は、深く考える前に答えた。
ルークの腕の中のもこもこがかすれた声の男へ顔を向け、〈きらいなにおいを嗅いだ時の猫の顔〉をしている。
目と口を大きく開いたまま、もこもこした口元をもふっと膨らませているクマちゃんは愛らしいが、リオは傷付いた。
「ごめんクマちゃん、言い方良くなかったかも……謝るからその顔やめて」
彼はすぐに謝罪した。
癒しの力しかもたない赤ちゃんクマちゃんは戦えない。動きも非常にのんびりとしていて遅いのだから、魔法を使おうと杖を探している間に『クマちゃ』されてしまうだろう。
だがそんなことを言ってもこもこに嫌われたくはない。
リオはもこもこが傷つかない上手い言い方はないかと考え、そもそも説明が苦手なことを思い出した。
それに、もし戦えたとしても過保護なルークが愛しのもこもこを連れて行くわけがないのだ。
もこもこの頭に少しハゲが出来ただけで、一日中その部分を撫で続け、無表情のまま悲し気な雰囲気を漂わせる男が、己の命よりも大切にしている可愛いクマちゃんを大型モンスターがうようよいる場所に連れ出すだろうか。
――答えは否である。
しかしもこもこに『あなたは赤ちゃんだから戦闘には連れて行けませんよ』と言っても、首を傾げたまま『クマちゃ』と返されるだろう。クマちゃんは大人のクマちゃんですよ、と。
彼が考え事をしている間に、もこもこはリオのほうを見ながら愛らしい猫のようなお手々で空中を引っかき始めた。
一生懸命もこもこした両手を交互に動かしながら「クマちゃ!……クマちゃ!」と言っている。
「何クマちゃん。その猫かきみたい動き。……可愛くて捕まえたくなるんだけど」
可愛すぎる。見ているとなんだかソワソワして、もこもこした白いお手々をキュッとしたくなる。
「うーん。とても愛らしいね。魅了の魔法ではないようだけれど……もしかして、戦っているつもりなのかな?」
ウィルはもこもこのお手々が空気を引っかく様をじっと見つめ、魔力の流れを読もうとした。
ものすごく愛らしい。魅了されてしまいそうだ。しかし、怪しい魔法のたぐいではないらしい。
敵を殴る真似をしているのかもしれないが、あのフワフワのお手々に当たっても気持ちが良いだけだろう。
――当たりにいってもいいだろうか。
もこもこの哺乳瓶タイムが終わり、満身創痍の暗殺者のように胸元の服をきつく握りしめていたクライヴは、クマちゃんにとどめを刺された。
ピンク色の肉球とそれを囲うふわふわの毛。羽虫すら倒せないであろう、勢いのないお手々。
もこもこした愛らしいお口から出る愛らしい「クマちゃ!」は、攻撃時の掛け声なのかもしれない。
風のない室内で上下に動く肉球に合わせ、真っ白なお手々を覆う柔らかな被毛が、微かにふわりと揺れる。
「――く――う――」
何も倒せないはずのクマちゃんの肉球パンチは、見せるだけで氷の紳士を倒してしまった。
赤いソファに座ったままがくり、と下を向いた男に、マスターが残念なものを見る眼差しを向けている。
リオは愛らしいもこもこの可愛らしい猫かきパンチを獲物を狙うような目でキラリ、と愛でつつ考えていた。
何かもこもこの気を逸らす方法はないだろうか。このまま『クマちゃん、駄目!』と言い続けると、可愛いもこもこがキュオーと泣き出してしまう。
「……あ、クマちゃん何か作りたいんじゃなかったっけ。すげー忙しいって言ってたじゃん」
お花畑で散歩中に聞いた話を思い出したリオは、もこもこに『あなたは、とても大事なことを忘れています』と伝えた。
もこもこがハッと、肉球を止め「クマちゃ……」と言った。
『おかち……』と。
「お返しは? いいの?」
リオは両手の肉球をお顔の前で上げたまま止まっている愛らしいもこもこに、『皆がクマちゃんからのお返しを楽しみに待っていますよ』という雰囲気を漂わせ『いいの?』と尋ねた。
もこもこの可愛いピンク色の肉球が、徐々に下がって来た。葛藤しているらしい。
クマちゃんは両手の肉球にキュッ、と力を入れ、考えた。
そうだ。クマちゃんは皆にふわふわで丸いお菓子を作るのだった。
この場所でも作れるだろうか。お兄ちゃんから材料を買えばできるかもしれない。
しかし、街の人たちは森の奥にはいない。ここで美味しいお菓子を作っても、すぐには渡せないだろう。
クマちゃんとリオちゃんはルーク達と離れ、湖へ戻らなければならないのだろうか。
真剣に考えていたクマちゃんは、ハッと思いついた。
うむ。天才的な閃きである。
皆が見守る中、両手の肉球を下ろし深く頷いたクマちゃんは、幼く愛らしい声で「クマちゃ」と言い、魔王のような男を見上げた。
もこもこは鞄をごそごそ漁ると杖を取り出し、小さな黒い湿った鼻の上にキュッと皺を寄せ、もこもこを抱えたルークと共にどこかへ消えてしまった。
「え、なに、クマちゃん達どこ行ったの」
ぼーっともこもこの湿った鼻を見ていたリオは、突然この場からいなくなった彼らに驚き、かすれた声でウィル達に尋ねた。
「リーダーが一緒だから問題はないと思うけれど……お兄さんはクマちゃんがどこへ行ったか知っている?」
ウィルは眠っているように静かなお兄さんに尋ねた。
しかし望む答えは返らず、「――危険はない」と頭に響く低音の美声でお告げのようなことを言われるだけだ。
人と違う生き物には時間がゆっくりと流れているのだろう。
ではいつ頃帰ってくるのか、と質問しようとしたが、すぐに諦めた。
彼らに会えるのが数時間後だとしても『――すぐに戻る』と言いそうだ。
「――あそこの床、何か光ってんだけど」
リオが魔法陣のような場所を指さす。
「昇降用の台に描かれている模様に似ている気がするね。このお家には二階があるのかな」
南国の鳥のような男がソファから立ち上がり、そちらへ近付いた。
装飾品がシャラ、と綺麗な音を立てる。
「あー、確かに」
相槌を打ったリオも彼に続いた。
「……まぁ、いつ戻ってくるかも分らんしな。白いのに危険な物が無いか、確かめておいたほうがいいだろ」
マスターは気絶中の暗殺者のような男の肩をぽん、と叩き「行くぞ」と声を掛けると二人のあとを追った。
◇
魔法陣の上に乗るだけで別の部屋――おそらく二階――に飛ばされたようだ。
真っ白な壁と、ガラスの下に植物が飾られているような床。葉の隙間を覗くと、彼らが先程まで居た部屋が見える。
やはり、飛ばされた場所は二階だったらしい。
「ドア多すぎじゃね?」
アイビーのような蔓植物と、ハートのような形が連なった葉、イチゴのランプで飾られた白い壁に、木製のドアがたくさん並んでいる。
イチゴ屋根の家にあるドアは、正面から見て一つだけだったはずだ。
もこもこ物件は不思議がいっぱいである。
リオはコツ、と音を立てガラスの上を歩いた。
壁に並ぶもののひとつへ手を伸ばし、指先がふれる。
スゥ、と静かに開いた木製のドア。
向こう側に見える、そっくりな部屋。
白い壁、蔦、イチゴのランプ。
ドア枠から半分だけ見えている白いもこもこ。
「――うわっ!!! 何やってんのクマちゃん!」
かすれた声で叫ぶリオ。
赤い頭巾を被ったもこもこは、つぶらな瞳と黒いお鼻を半分覗かせ、「クマちゃん――」と言葉を紡ぐ。
開けてしまったのですね――、という意味のようだ。
「……もー、マジびびったんだけど。クマちゃんドアの側いたら危ないでしょ」
格好よく登場した格好いいクマちゃんに『クマちゃん、駄目!』という細かいかすれ男。
「おや、ドアの向こうにとても可愛らしい子がいるね。リーダーと一緒ではないの?」
楽し気に笑ったウィルが微かに首を傾げ、愛らしいもこもこに尋ねる。
しかし返事を聞く前にもこもこの体が持ち上げられ、美しい銀髪の男が腕の中へもこもこ頭巾をおさめた。
彼も同じ部屋の中にいたらしい。
もこもこは半分しか見えなくても愛らしい。クライヴは静かに頷き「なるほど――」と長いまつ毛を伏せた。
愛らし過ぎて何でも願いを叶えたくなるが、やはり戦闘には参加させられない。
モンスターはもこもこに魅了され、魅力的すぎるもこもこを攫おうとするだろう。
『クマちゃ……!』と悲鳴を上げるもこもこを想像してしまった男。
時間差で悩む彼を見た金髪の口から「え、いま何に切れてんの? 怖いし寒いんだけど……」と震え気味のかすれた苦情が漏れた。
「おいルーク。そっちの部屋はどこにあるんだ?」
マスターは腕を組み「もしかして、湖か?」と渋い声で尋ねた。
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