第130話 潤いのあるクマちゃんの潤い計画

 学園の裏の森、結界内。

 

「めっちゃ枯れちゃってんじゃん!」


 思ったことがすぐに口から出る男の口から、思ったことが出てきてしまった。

 可愛いもこもこの頬を優しくつつき、クマちゃんが「クマちゃん」と言ったり「クマちゃ」と言ったりするのを楽しんでいたリオが、晴れてきた靄に気が付き顔を上げると、周囲にあるのはほとんどが枯れ木だった。

 リオの大きなかすれ声に驚き、幼く愛らしい声で「クマちゃ!」と言っていたもこもこも、肉球が付いたもこもこの両手でもふもふの口元を押さえ、まるで大きな衝撃を受けてしまったもこもこのように震えている。


「――あまり緑の香りがしないと思っていたけれど、葉が残っているものでも、クマちゃん達が癒しの魔法を掛けた樹以外は、色もくすんでしまっているね」


 美しい景色を愛するウィルは、結界内の悲惨な光景を悲し気な表情で眺めている。


「……ひでぇな」


 マスターは自身の顎髭をさわりながら静かに呟いた。

 いきなりおかしな場所に連れてこられた彼は、気になる事があってももこもこの庇護者らしき〝お兄さん〟に質問したりはしなかった。

 それは森の街の人間になんとなく身に付いている常識のようなもので、彼らは人外の――出会うことなど稀だが――自然界に住む精霊のようなものや、神の眷属のようなものに対してあれこれ質問したり、人間には理解できない奇妙な行動に指図したりしない。

 特別な信仰心があるわけではなく、それは彼らにとっては自然なことだった。



 素敵な森しか知らない赤ちゃんクマちゃんは、枯れ木だらけの悲惨な森に、大きな衝撃を受けていた。

 大変だ!

 この森はカサカサしている!


 一度心を落ち着けるため、肉球をペロペロしながら考える。

 こんなにカサカサしていたら、クマちゃんの〈甘くておいしい牛乳・改〉だけでは元気になれないのではないだろうか。

 うむ。カサカサは、一度しっとりさせる必要がある。

 肉球がしっとりしたクマちゃんは、ハッとした。

 しっとりと言えば、お兄ちゃんから買った商品の中にジョウロがあったような――。

 しかしジョウロで水を撒く前に、水を汲む場所があったほうがいいのでは――。

 水がたくさんある場所――。


 一生懸命考え事をしているクマちゃんは、ふんふんと鼻を鳴らしながら、ふと気付いてしまった。


 大変だ。


 作業を始める前にやらなければならないことが出来てしまった。

 このままでは可愛いクマちゃんが大変なことになってしまう。

 

 緊急事態なクマちゃんは、ルークにこっそりと伝えることにした。


 クマちゃんの体から土埃の匂いがしますよ、と。



 枯れた森と謎の霧について話していた彼らの耳に、もこもこの幼く愛らしい「……クマちゃ……、……クマちゃ……」という微かな声が聞こえてきた。

  

『……つちぼこ……、……くちゃ……ん……』と。


 微かに聞き取れたもこもこの『つちぼこくちゃん』の意味が分かった者は一人だけだ。  


「…………」


 無言で立ち上がったルークが「え、何リーダー。つーか魔力ピリピリしてて怖いんだけど」ともこもこを懐に隠そうとするリオから愛らしいクマちゃんを奪う。

 普段の感情を悟らせない彼とは違い、微かに張り詰めた空気を感じる。

 彼はもこもこを抱いたままスタスタとテーブルを離れ――先程もこもことリオが元気にした――花の蕾が見える樹の影へ行ってしまった。


「なになになに! 何か怖いんだけど! もしかして何か爆発したりすんの?!」


 魔王のような男のピリピリした魔力に危険な何かを感じ取ったリオが、かすれた声で騒ぎ出す。

 もしも魔力を溜め込みすぎたデッキブラシが爆発するのであれば、今すぐに結界から出たい。

 酒場からパクった椅子に座ったまま吹き飛ぶのは御免である。

 

「たとえ世界が滅亡しそうになっても、彼が感情を乱すことなんてないと思うのだけれど……。でも、一昨日の夜、クマちゃんを置いて出掛けた時は少し不機嫌だったかもしれないね」


 吞気な南国の鳥が涼やかな声で囀った。

 先日の不機嫌なルークを知っている彼は、彼の表情が変わった理由が『つちぼこくちゃん』のせいだと解っていた。

 そしておそらく『つちぼこくちゃん』は深刻な問題ではない。


「――――」


 冬の支配者のような男が、険し過ぎる表情で彼らの隠れているであろう樹を睨みつけている。

 視線だけで樹を凍らせ、砕いてしまいそうな目つきだ。



 緊急事態なクマちゃんと、クマちゃんを愛し、被毛のお手入れやおしゃれにも人一倍気を使っているルークは、真剣な表情で話し合っていた。

 大好きな彼の腕に抱かれた『つちぼこくちゃん』なもこもこが、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん……」と言う。


『クマちゃん、お風呂ちゃ……』と。


「ここに作んのか」


 彼はもこもこがどんなにホコリだらけになっても変わらぬ愛を貫くが、愛しのもこもこが『……クマちゃ……、……クマちゃ……』と汚れた体を気にしているのを放っておくことなどしない。

 世界一愛らしく、おしゃれにも敏感な赤ちゃんクマちゃんは、当然今まで一人でお風呂に入ったことがない。

 ルークは愛らしいもこもこが良い香りの泡に包まれ、幸せそうにしている姿を思い浮かべた。

 ――もこもこが恥ずかしそうに『……クマちゃ……』と言う前に、彼が気付いてやるべきだった。

 腕の中のもこもこが不安げにもこもこの手の先をくわえ、彼を見上げている。

 もこもこが元気にした樹に背を預け寄りかかっているルークは、大事なもこもこを安心させるため、いつものように優しく頬を擽る。

 そして周囲に彼の魔力を広げると、もこもこが気に入りそうな大きさの石を魔法で集め始めた。



「つーかリーダー遅くね?」


 膝の上から可愛いもこもこを奪われ、不貞腐れたような表情で頬杖を突いていたリオが、かすれた声で尋ねる。

 すぐに戻ってくると思っていた彼らが、何故か戻ってこない。


「うーん。確かに、少し遅いような気もするね。……心配するようなことは無いはずだけれど」


 結界を壊すと周りの森も枯れるのか――という、愛らしいもこもこが側に居る時にはしない、やや物騒な話をしていたウィルが、彼らがいる樹の方へチラリと視線を向け、涼やかな声でリオに答えた。

 彼は「気になるのなら迎えに行っても良いのではない?」と言葉を続け、優雅な仕草で席を立つ。

 身に纏う装飾品がシャラ、と美しい――枯れた森に不似合いな音を奏でた。

 ウィルは少しの間元気になった樹を眺めると、煌めく青い髪を風で揺らし、そのままシャラシャラとクマちゃん達の居る方へ消えてしまった。


「あれ、なんか今風吹いてた?」


 置いて行かれたリオもクマちゃん達を迎えに行こうと立ち上がり、ふとそれに気付いたように呟く。


「ルークが白いのと何かやってるみたいだな…………それじゃ、俺たちも行くか」


 有害なのは謎の霧か、それともこの場所か――と、クライヴと話していたマスターも、ルークの起こした風に気が付き席を立った。



 ウィルの後を追ったリオ達がクマちゃん達を迎えに行くと、そこには、ここにあるはずのないものが出来ていた。


「いやいやいやいやいや、さすがにヨソの森に勝手に温泉作ったらダメでしょ!!」


 リオは思わず『クマちゃん、ダメ!』と、高い花瓶にそっと肉球をかけている猫を叱る時のような声を出してしまった。

 持ち主の居ない深い森ならまだしも、学園のすぐ裏。その上此処は結界で囲われてる場所だ。

 普通に考えて『クマちゃん、ダメ!』である。

 しかし、ルークの腕の中のもこもこは、お花のシャワーとタイル以外は完成してしまっているお風呂に入るわけでもなく、一心不乱に肉球をペロペロしている。

 ――まさか、この直径六~七メートルくらい有りそうな露天風呂が、小さくて気に入らないのだろうか。

 もこもこの不思議な力で天然の広場のようになってしまった拓けた場所は、直径で十メートル以上はあると思うが。


 リオは緑の少ない寂しい色合いの場所に出来てしまった天然ではないもこもこ広場ともこもこ露天風呂の、中身の寄ったゆで卵のような配置をぼーっと眺めながら、


「えぇ……」

 

と肯定的ではない声を出した。



 土埃の香りを漂わせてしまっているクマちゃんは、ルークの手を借り露天風呂を作ったところで、ハッと気が付いてしまった。

 大変だ!

 樹がカサカサだ!


 せっかく皆と入れる露天風呂が完成したのに、これでは全く美しくない。

 素敵な露天風呂というのは景色も大事なはずである。

 クマちゃんは肉球をペロペロしながら考え、ハッと気が付く。

 そういえばクマちゃんは、ジョウロで水を撒こうとしていたのだった。

 うむ。丁度目の前に大きな水汲み場がある。

 この温泉を栄養たっぷりにしてカサカサの森に撒けば、しっとりと潤いのある素敵な森に出来るのではないだろうか。

 

 

 一心不乱に肉球をペロペロしていたクマちゃんが、ピタリと動きを止めた。

 深く頷いたもこもこがルークの腕を肉球でキュムッと押し、彼は枯れ木が撤去され平らになった土の上にもこもこをそっと降ろす。


「どしたのクマちゃん。お風呂入るの?」


 急に行動を開始したもこもこに視線を移したリオが、もこもこした手でお腹の鞄をごそごそしているクマちゃんに、かすれた声で尋ねた。

 耳だけ黒いパンダ風の帽子を被ったもこもこは、鞄から輝く牛乳瓶を取り出し、露天風呂へ近付いて行く。


「何かめっちゃ嫌な予感するんだけど」


 リオは何かを察知し、猫のような両手で牛乳瓶を持ちヨチヨチと歩いている可愛すぎるもこもこへ、不審なもこもこを見るような目を向けた。

 しかし彼が止める間も無く、頭の大きな可愛いもこもこは何もない場所で「クマちゃ!」と躓き、輝く瓶は露天風呂の中へ――ボチャ――と落ちた。

 そして当然、絶対に赤ちゃんクマちゃんを転ばせたりしない魔王のような男と、もこもこを大事にしているようだが無表情で分かりにくい高貴でやや空気の読めない不思議で美しいお兄さんの何らかの力で守られたクマちゃんは、転ぶことなく無事である。


 無事では無かった牛乳瓶が落ちた場所では、キラキラ、キラキラと湯が煌めき、どんどん乳白色が広がっている。

 躓く前のもこもこが何かを念じていたのか、青みがかっていたはずのそれは、まるで牛乳にイチゴシロップを垂らしたような淡い色へ変わっていった。


 土の茶色と微かな緑、枯れかけた樹に囲まれた陰気な空間に、ピンク色に輝く可愛らしい露天風呂が誕生してしまった。


「めっちゃ罠っぽい」


 考える前に口が動く男のそれが開き、いつものように余計なことを言った。

 枯れた森の中にぽつんとある、光り輝くピンク色の温泉。

 絶対に怪しいそれの前で服をバッと脱ぎ捨てるには、相当の勇気を必要とするだろう。

 疑いも抱かず『クマちゃ』とリボンを解いてしまうのは、白くてもこもこした生き物くらいだ。


 

 可愛い桃色もこもこ温泉を警戒するリオの言葉は、忙しいクマちゃんのもこもこの耳には全く届いていなかった。

 帽子が若干ずれているもこもこは、首元で結ばれた帽子のリボンを肉球でキュッと押さえると、まるで躓いたのも計画の内とでもいうように、ゆっくりと深く、頷いていた。

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