第126話 緊張しすぎなクマちゃんと彼ら

 横になったままの会計の目に飛び込んできたのは、この世で一番愛らしい猫――ではなく世界一可愛い赤ちゃんクマちゃんだった。

 ふわふわの被毛からフワリといい香りがする。

 最近、否、つい先程もこの香りを嗅いだような――しかし今の彼はそのことについて考える余裕がない。

 自身の顔の横、というよりも顔の上に覆いかぶさる超美クマちゃんが彼の顔を肉球でぷにぷにと触っているからだ。

 ――これが、これが夢にまで見た肉球の感触!

 頬や額をぷにぷにとふわふわが同時に撫で、彼は慌てて目を閉じた。

 会計は息を止め、この世の幸せのすべてを受け止めている。

 ――動いてしまったら、この幸福が逃げてしまうかもしれない。


「いやクマちゃん乗り過ぎ乗り過ぎ」


 かすれているのに良く通る綺麗な声の誰かが美クマちゃんを止めようとしているが、放っておいて欲しい。

 自分はこのままでいいのだ。


「うーん。魔力に乱れはないし、怪我もしていないようだけれど――」


 シャラ、という繊細な楽器のような音と、透明感のある美しい声が彼の状態を分析しているようだが、自分は怪我のせいで動けないのではない。

 魔法学園の生徒が少し転んだ程度で怪我をすることなどないが、今は本当にそれどころではないのだ。

 彼が自身の顔に覆いかぶさるふわふわで良い香りの被毛と肉球を一心に受け止めていると、美クマちゃんは移動してしまったらしく、瞼の裏側が明るくなってしまった。


「何か泣きそうな顔してんだけどクマちゃん何かした?」


 かすれた声の誰かが美クマちゃんを冤罪にかけようとしている。

 やめてくれ、美クマちゃんは悪くない。悪いのは愛らしく純粋な美クマちゃんを騙し、もこもこを堪能しようとしている、肉球の誘惑に負けた自分――。

 彼が自身の心の軟弱さを嘆いていると、耳にピチョッと濡れた何かともしょもしょした何かを感じ、同時に幼く愛らしい、


「クマちゃん、クマちゃん」


という声が吹き込まれた。


『クマちゃん、おきる?』と。


 ビクッと全身が揺れた会計の目がカッ! と開いた。



 クマちゃんが廊下に倒れている男子生徒を肉球で優しく介抱し、大丈夫ですか? 起きられますか? と耳元でそっと声を掛けると男子生徒の目がパッと開き、意識を取り戻した。


「いやクマちゃんそれめっちゃビビるから止めた方がいいやつ」


 風のささやきも『クマちゃんそれめっちゃいい――』と言っている気がする。素敵な介抱だね、ということだろう。

 起き上がろうとする彼を急いで止める。「くっ! 肉球……!」彼は苦し気に呻いている。大変だ!

 もう一度肉球でキュッ、とおでこを押さえると、彼は起き上がるのをやめたようだ。

 うむ。寝ていた方がいい。


「いやクマちゃん何か頷いてるけど呻いてるのクマちゃんのせいだから」


 風も頷いている気がする。やはり、このまま様子をみたほうがいいらしい。

 触診もしてみよう。

 やり方がよくわからないが、とりあえず両手の肉球でそっと上と下のまぶたを押さえ、パカパカしてみる。「クマちゃん! それ危ないから駄目!」「あぁぁ肉球が……肉球が……」

 うむ。よくわからない。

 熱も測った方がほうがいいだろうかと考えていると、クマちゃんの敏感なお鼻がピクッと反応した。

 むむむ。とても気になる匂いがする。

 気になる――気になる――。



 会計は美クマちゃんの誘惑に抗う事が出来なかった。

 この世にこれ以上の幸せがあるだろうか。

 倒れている自分を心配し、優しく声をかけてくれる愛らしいもこもこ。

 自分の顔をふにふにふわふわと押す肉球。

 別の意味で正気を失いそうになっている彼に、更なる試練が襲い掛かって来た。

 美クマちゃんがふんふんふんふんと小さな鼻を鳴らしながら彼の頬に寄って来たのだ。

 会計は瞬きひとつせず完全に静止し、愛らしいもこもこが近付いてくるのを待つ。 

 ふんふんふんふんと頬に掛かる小さな息に心臓がバクバクバクバクととんでもない音を立て出し、更にそこへピチョッと濡れた何かが触れ、それが美クマちゃんの小さなお鼻だと気付いた瞬間、彼は奇声を上げそうになった。


「クマちゃん近すぎ近すぎ。つーかもうくっついてね?」


 かすれた声の誰かが、美クマちゃんの行動を制止しようとしている。

 ――親切な人だ。

 しかし、気位が高く、絶対に彼に撫でさせない実家の猫しか知らない会計は、生まれて初めて人懐っこくて愛らしいもこもこと触れ合い、幸せの絶頂を更新している最中だった。

 ――親切な彼には申し訳ないが、今は放っておいて欲しい。

 自分はこのままでいいのだ。ずっとこのピチョッと濡れたお鼻とくっついていたい。

 彼の頬にピチョッとくっついている美クマちゃんが、もこもこの口を動かし幼く愛らしい声で「クマちゃん――クマちゃん――」と呟いている。

 この愛らしい生き物は自分の頬の何かが気になるらしい。

 彼は心の底から思った。


 ――気になる頬でよかった。たとえずっとアップルパイが付いていたのだとしても、後悔はない。


 

「気になるって何が? 顔? クマちゃんマジで近すぎ」 


 横になっている会計よりも会計の顔に鼻をくっつけたままクマちゃクマちゃと呟いているもこもこが気になるリオは、丸くて可愛いもこもこの後頭部から、もこもこが気になりそうな部分にチラリ視線を移し「つーかその目ヤバくね? めっちゃ充血してんだけど」と言う。


 その言葉を聞いたもこもこが、ハッとしたように彼から鼻を離し「あ……鼻が……」会計が小さく何かを呟く。

 床の彼から少し離れたクマちゃんが、お腹の前に下げた、耳だけ黒いクマの鞄をごそごそと漁った。

 クマちゃんはもこもこしたお手々で目的のものをいくつか取り出すと、半球のガラスの器に水を注ぎ、もこもこの手で掴んだ謎の枝へ湿った鼻をくっつけた。


「何かあの枝めっちゃ見覚え有る気するんだけど」


 目を限界まで細め、急に何かを作り出したもこもこを怪しむリオ。


「うーん。君たちの部屋で見たのではない?」

 

 装飾品をシャラ、と鳴らし腕を組んだウィルがリオの疑問に答える。

 あの木をじっくりと見たことはないが、クマちゃんの好きな香りなのだろうか。


「…………」


 この学園の人間にもこもこの父兄と思われているルークは、クマちゃんが取り出した枝よりも愛らしい動きの方が気になっている。

 今のもこもこは枝に付いている葉の香りが気になっているようだ。

 もこもこは肉球の付いた両手でキュッと枝を握り、小さな黒い湿った鼻を葉にピタリとくっつけ、ふんふんふんふんと香りを確かめ、深く頷いている。

 

 目の充血以外元気な会計は、人懐っこく心優しいもこもこを間近で観察する機会を逃したくない――と強く思っていた。

 もこもこの猫のようなお手々や、丸くてふわふわの手入れの行き届いた尻尾、短くて可愛い猫たんのような足、映像では被っていなかったもこもこの白黒帽子と、お揃いの小さな斜め掛けの鞄、ふんふんしている湿ったお鼻、キラキラとしたつぶらなお目目、寝ている猫が舌を鳴らす時のようにチャ、チャと時々動いている口元、そしてまたお手々、と――じっくりと、しつこく、とにかくしつこく、もこもこがそれに気が付いたら『クマちゃん!』と言いそうなほど、真っ赤になった色々危険な目で網膜に焼き付けている。


 念入りにふんふんと確認した葉を肉球が付いたもこもこのお手々でプチ、プチ、とちぎり、水の入ったガラスの器に入れたクマちゃんを見て、リオが口を挟む。


「クマちゃんそれ何作ってんの? 飲み物? お茶?」


 ここは廊下だが、綿毛の花畑がある。クマちゃんが急にお茶会を開きたくなってもおかしくはない。

 リオは無理やり自分を納得させた。

 当然、お茶らしきものを作るのに集中しているクマちゃんの返事はない。



 眼科医クマちゃんは目が痛いらしい彼を治療するため、お目目のお薬を作りながら考えていた。

 うむ。この素敵な水に魔力をこめれば完成である。

 綺麗なガラスの器の中身へ真っ白な杖で魔力を注ぎ、スプーンを取り出す。

 うむ。手が器用なクマちゃんが直接入れてあげるのがいいだろう。



 リオはまだ煮出されていないお茶と、スプーンを取り出したもこもこをじっと観察していた。

 何故か嫌な予感がする。

 もこもこはスプーンに葉っぱ汁を掬い、肉球が付いたもこもこの手をぶるぶると震えさせ、横たわった彼の顔へ近付いて行く。

 ――彼に飲ませたいのだろう。

 仰向けのまま飲むと『ガハッ』となりそうだが、スプーン一杯であればどうにかなるだろう。

 しかし安心しかけたリオは、もこもこの怪しい動きを察知した。


「クマちゃん何する気? そこ口じゃないよね」


 もこもこの手の位置がおかしい。顎よりもデコに近い。

 白いもこもこは幼く愛らしい声で「クマちゃ……クマちゃ……」と呟きながら、ぶるぶると震える手でぶるぶるぶるぶると一生懸命スプーンを移動させている。

 愛らしいもこもこの緊張が、見ているだけで伝わってくる。


 小さな声は『クマちゃ……頑張って……』と言っている。


 ゴールに近付いた眼科医。

 気が緩んだのか、充血した目を中心としたあちこちに葉っぱ汁が零れてしまった。

 ――愛らしいもこもこのもこもこした口元から「クマちゃ!」という可愛い悲鳴が漏れる。

 少し離れた場所から「くそっ……少し零れちまったか……! 頑張れ……! あと少しだ……!」と真剣過ぎる副会長の熱の入った応援が聞こえてくる。

 

 この馬鹿共を止めるべきだと思うが、あまり関わりたくない。

 リオは白い獣の危険な行為を止めない床の男を見て、彼の覚悟を悟った。


「まじでこの学園変な奴しかいないんだけど」


 自分なら瞬時に飛び起き獣を捕獲するだろう。


 ぶるぶるしすぎてほとんど残っていない汁が入ったスプーンを、眼科医のもこもこした手がぶるぶると傾ける。

 ――床の男は最後まで動かなかった。


 リオはすべてを見届け、かすれた声で


「えぇ……」


と言った。


 真っ白な獣と存分に戯れた彼は、先程まで転倒し横になっていたとは思えないほど素早く立ち上がった。

 全力疾走したように呼吸が荒いが、癒しのもこもこ根性試しは効いたようだ。

 ――充血が綺麗に治っている。

 深紅の絨毯が敷かれた綿毛の花道に、副会長の熱い拍手が響く。彼は天才眼科医の奇跡の治療ともこもこのすべてに感動していた。

 大きな拍手が響く中、会計が消え入りそうな声で「ありがとう、美クマちゃん……」と呟く。


「…………」


 仮病を使う困った人間をも癒すもこもこの優しさに胸を打たれたクライヴは、静かに頷くと医療器具の片付けを手伝い、エスコートするように丁寧に、クマちゃんをもこもこ袋へ戻した。

 クライヴのお手伝いが嬉しかったらしいもこもこは、袋の中からそっと肉球を差し出し、上品な仕草で彼と握手をしている。

 純白のもこもこを愛する氷の紳士は再び静かに頷き、肉球の感触を手袋越しに確かめながら、もこもこと心を通じ合わせた。



 深紅のシーツに横になっていた会計ともこもこ天使の心温まる交流を静かに、時に熱く見守っていた副会長が口を開く。


「可愛いだけじゃねぇ……心まで天使なんだな……」


 会計の目の充血に気が付いたクマちゃんの行動は、まるで森の中で怪我をした動物に遭遇してしまった天使のようだった。

 一生懸命怪我人を治療するクマちゃんからは『おめめ、いたい? 大丈夫?』という優しい気持ちと、物を掴みにくいもこもこしたお手々で、精一杯出来ることをしようという健気さが伝わってきた。

 もこもこ天使の奮闘を思い返すだけで、涙がぶわっ!!! と込み上げてくる。

 副会長は野性的な目元に滲んだ涙を腕で乱暴に拭い、

 

(――馬鹿だな……お前がそんなに可愛かったら、あいつの目はまたカッサカサに乾いちまうぜ……) 


気障なような、そうでもないようなことを考えていた。 


 

 氷の紳士と上品な仕草で握手をしていたクマちゃんは、ハッと思い出した。

 ――石鹼。

 先程気になった香りの正体は、ルークがクマちゃんをアワアワもこもこと洗う時に使う、クマちゃんの石鹼の香りである。

 ――うむ。とてもすっきりした。

 すっきりするこれを皆にも教えてあげなければ。


 クマちゃんはこちらを見ているルーク達に、先程倒れていた彼はクマちゃんと同じ石鹼を使っているみたいですよ、と教えてあげた。



 クライヴが抱えているもこもこ袋から顔をだしているクマちゃんが、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。


『石鹼、石鹼』と。


「石鹼? どしたのクマちゃん。お風呂入りたくなった?」


 石鹼を連呼するもこもこを不思議に思ったリオが、かすれた声で聞き返す。

 綺麗好きのクマちゃんはお出掛けしたり何かを作ったりするとお風呂に入りたがる。

 今の『石鹼』もそういう意味だろうか。


「うーん。石鹼……。先程クマちゃんは彼の頬が気になると言っていなかった?」


 もこもこの気持ちを察するのが上手いウィルがもこもこに尋ねる。

 興奮しているらしいクマちゃんは小さな黒い湿った鼻をふんふんさせつつ「クマちゃん、クマちゃん」と愛らしい声で続きを話してくれる。


『クマちゃんの、同じの』と。


「へー。クマちゃんと同じ石鹼で顔洗ってんだー…………え、マジで? ここにも同じのあんの?」


 やっともこもこの言いたいことが分かったリオが(こいつらが使ってる石鹼の情報とかどうでもよすぎるんだけど)と思いつつ適当に相槌を打ち――『どうでもいい』という言葉が口から飛び出す直前に、どうでもいい話ではないことに気が付いた。

 余計なことを聞いてお兄さんが連れてきてくれなくなったら困ると思い、この場所について詳しく尋ねていないが、森の街でしか販売されていないはずの高級石鹼をこの学園の生徒が使っているのは、さすがにおかしくないだろうか。


 ルークがクマちゃんの為に買ってきたお肌に優しい高級石鹼。森の街の限定商品。それを使っている、誰も存在を知らない巨大な城のような学園に通う生徒。

 ――まさか、森の街のお肌に優しい高級石鹼の製造方法が、謎の魔法使いに盗まれたのでは。


「石鹼……?」


 呼吸を整え普段の冷静な仮面を被り直した会計が呟く。

 天才眼科医が施した血圧の上がりそうな治療により、多少瞬きをしなくても乾燥しない奇跡の目を手に入れてしまった彼は、再びじっとりとしつこく、潤った瞳に美クマちゃんを焼き付けていたのだが『石鹼』という言葉を聞き思い出した。

 ピンク色の肉球が握るスプーンと、そのあとの衝撃的な出来事のせいで忘れていたが、美クマちゃんが彼の顔に半分乗っていた、幸せだったあのとき、ふんわりと香った優しい香り。

 その時も思ったのだ。つい先程も嗅いだ香りだと。


「副会長。もしかしてそれってあの魔――」


 側に立っていた彼に魔道具についていた泡の話をしようとした会計の口を、話題の石鹼の香りの手がスッと塞ぐ。

 ――良い香りだが、ごつごつしていて全く嬉しくない。

 口を塞がれた会計が、犯人を嫌そうに見る。


「あぁー、その石鹼っつーか泡なら、裏の森に落ちてたやつっすね」


 会計が言いそうなことが予想できた副会長が、彼の口を塞いだまま話題を逸らす。

 愛らし過ぎるもこもこに気を取られ、周囲にいるもこもこの保護者らしき彼らをきちんと見ていなかったが、スッと視線を動かし美しい四人を確認した副会長はなるほど、と頷いた。

 この四人はもこもこ天使を守護する人外の猛者達だろう。整い過ぎた美貌もそうだが、髪の輝きからして人とは違う。

 少し観察しただけで判った。

 彼らは、人間ではない。

 ――もこもこ天使の映像が送られてくる魔道具の存在を知られてしまえば、守護神のような彼らに奪われるか、それを所持していた副会長ごと消されるに違いない。


「裏の森? ……その場所にあったのは――泡だけ?」


 森と聞き、学園の全体図を思い出したウィルが、優し気だが含みを持たせた言い方で副会長へ尋ねる。

 動く絵本で見たそれは、山の中、周囲が森で囲まれていなかっただろうか。

 山頂の古城を思い浮かべたウィルは『裏の森』という言い方に、少々引っかかりを感じた。

 しかし、それより気になるのはその森に落ちていたという泡だ。

〝森〟〝泡〟と聞いて連想されるのは当然愛らしいもこもこである。

 危険な森の中、彼のお気に入りの湖に美しい温泉を作ったクマちゃん。

 皆で一緒にお風呂に入るのが大好きな、愛らしいもこもこ。

 そして、森で発見された洞窟と、綺麗なものが好きなウィルのために〝穢れた〟洞窟を泡で綺麗にしようとしてくれた心優しいクマちゃんの、愛らしく健気な後ろ姿。 


「――泡以外に、何か、あるんすか?」


 王都の若者に人気の、美形探偵モノの本に出てくる取調べシーンのような、緊迫した空気を漂わせる副会長。

 力の入った彼の手に口を塞がれている会計が、眉間に皺を寄せ迷惑そうな顔をしている。


「――どう……いや、何もなかったのなら、僕の言ったことは気にしなくてもいいよ。……でも、泡のある場所には近付かないほうがいいかもしれないね」


 美形探偵モノの本で主役を務められそうな美貌を持つウィルが、学園生Fに警告する主人公のようなことを言う。

 彼が自分の言葉を否定しゆるりと首を振ると、耳元の装飾品がそれに合わせて微かに揺れた。

『洞窟』について尋ねようかと思ったが、止めておこう。

 魔法使いとしての彼らの能力は分からないが、まだ学生である彼らがその場所に興味を持ってしまったら大変だ。


「――まどう……分かりました。泡には気を付けます」


『魔道具』と言いかけ、スッと口を閉じた学園生Fは、真面目な面持ちで美形探偵に言葉を返す。

 ――危ない。誘導尋問に引っかかるところだった。

 この守護者は南国の派手な神鳥のように美しいが、穏やかそうな口調で鋭い爪を突き立ててくる。

 非常に危険だ。

 学園生Fに口を塞がれていた会計が、掴んだそれをぐぐぐと動かし、無駄に良い香りの手を退かした。



 彼らがそれぞれ別の理由で緊張感を漂わせながら良い香りの泡について話していると、クライヴに抱えられたままルークとお手々を繋ぎ「クマちゃん、クマちゃん」とお話ししていたもこもこが、ハッとしたように、もこもこした口元へ肉球が付いたもこもこの両手を当てた。


「どしたのクマちゃん。お腹すいた?」


 昼に食べたもこもこの食事を思い返し、いつも通り食べていたはずだが足りなかったのだろうかと考えたリオが、愛らしい格好で動きを止めているもこもこにかすれた声で尋ねる。

 泡のことは気になるが、赤ちゃんクマちゃんが空腹ならばそちらのほうが重要だ。


 廊下に響く「クマちゃん、クマちゃん」という幼く愛らしい声。


『クマちゃん、お手紙』と言っているようだ。


「あー。めちゃくちゃ忘れてた。手紙受け取りに来たんだった」


 もこもこが言い出すまで本気で忘れていたリオが納得したように頷いた。

 そういえば、可愛い赤ちゃんクマちゃんを監禁しようと目論むあの変態生徒会長は何処へ行ったのだろうか。


「は? 手紙ってもしかして……会長がそこに置いといたっつー手紙と花束を探しに行ったんですけど、天――クマちゃんが花畑から持って行ったんじゃないんすか?」


 南国の神鳥のような男と緊迫感のあるやり取りをしていた副会長が、愛らしいもこもこ天使の声に反応し、輝く金髪の守護者に尋ねる。

 まさか、会長の言うように本当に落とし物として職員室へ届けられたのだろうか。


「いや俺らさっき来たばっかなんだけど……何? クマちゃん宛の手紙盗んだ奴いんの?」


 普段は明るく陽気なお兄さんという風な、ややチャラい雰囲気のリオだが、笑顔を消し、静かに相手を見据え答えを待つ彼は、全く陽気には見えない。

 獲物の前で無感情に急所を見つめる野生動物のような、危険な雰囲気を漂わせている。


「犯人俺じゃないんで首見んの一旦止めてもらっていいすか」


 陽気でなくなってしまった金髪のお兄さんが見ている場所に反応した副会長が、丁寧にお願いをする。

 彼には判った。おそらくこの金髪の守護者はとんでもない闇を隠し持っている。非常に危険だ。


「……会長が戻って来たみたいですね。――手ぶらですが」


 副会長の首が心配な会計が、廊下の離れた場所に見えた、項垂れている長身の白金髪を見て話題を逸らし、ついでに余計なことを言った。

 当然悪気はない。


「うーん。……気になることは多いけれど、そろそろ君たちも授業が始まるのではない?」


 ウィルもリオと同じ気持ちだが、犯人をどうにかするなら赤ちゃんクマちゃんの見ていないところでやる必要がある。

 犯人はこの二人ではないだろう。

 リオが副会長の首を見ていたのは、獲物のことを考えている時の彼の癖のようなものだ。

 ――学園の様子が見られるあの魔道具で犯人捜しをするのであれば、酒場へ戻ってからでも出来るのではないだろうか。

 赤ちゃんクマちゃん宛の手紙を盗むなど許されることではないが、愛らしいもこもこはお出掛けを楽しみにしていた。

 犯人捜しで時間が潰れてしまったら赤ちゃんクマちゃんが悲しみのあまり『キュオー』と鳴き出してしまうかもしれない。


 早く酒場へ戻りたいが、泡が落ちていたという〝裏の森〟の確認もしたほうがいいだろうか。 

 ウィルがルークへ視線で尋ねると、魔王のような彼は切れ長で美しい森の色の瞳で、静かに見返してきた。


 すぐに逸らされたそれは『少しならいい』ということだろう。

 彼も早く愛しのもこもことお出掛けしたいようだ。


「えー、もしかして仕事すんの?」


 ウィルとルークのやり取りに気付いたリオが、面倒臭いという感情を隠さず尋ねる。

『仕事』という恐ろしい言葉を聞いてしまったもこもこが、むしゃくしゃした獣のような顔で肉球を齧っている。


「仕事じゃねぇ。散歩だ」


 低く色気のある声が、もこもこの高性能な耳に優しい言葉を響かせる。

 袋から顔を出している白い獣は、いつも通りの愛らしいつぶらな瞳に戻り、ルークの長い指がもこもこの頬を擽る。

 大好きな彼に撫でられて嬉しいらしいクマちゃんが、彼の指に可愛いおでこをぐいぐいとこすりつけた。


「…………」


 もこもこ袋の持ち主であるクライヴが、思ったことを何でも言ってしまう金髪へ無言で鋭い氷をぶつけた。

 素手で氷を掴んだ金髪は「――それ尖り過ぎだから!」と氷職人にかすれた苦情をぶつけた。


「うーん。そうだね……少しだけ散歩をして、美しくなければすぐに戻ればいいのではない?」


 副会長達がその場所を『陰気な森』と言っていることを知らないウィルが、適用すれば一目見ただけで帰る羽目になるであろうルールを作る。

 美しいものが大好きな男は、クライヴが抱える袋から顔を出しお手々の先をくわえている、美しいものよりも大好きになってしまった愛らしいもこもこをそっと撫で、


「その森にも素敵な湖があるといいね」


涼やかな声で『陰気な森』に無理難題を吹っかけた。

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