第118話 良い香りのそれと、楽しく過ごすクマちゃん達と、無臭なそれ
鋭い目つきの副会長がふらりと足を進める。
「私には分からないけど――石鹼といえば、私の可愛いクマちゃんの素敵な香りを思い出すよ」
副会長の言葉を聞いた生徒会長が若干変態のような発言をし、それを聞いていた会計の彼が、
「会長、そういう危険な発言は慎んでください」
と冷たい視線を向けた。
少々天然な生徒会長から「危険? クマちゃんの石鹼に危険はないと思うよ。――ああ、もしかして可愛い上に良い匂いだと知られたら私の可愛いクマちゃんが危険だってこと? それは確かに危険かもしれない」とどうでもいい発言が飛び出し、面倒な二人組に絡まれている会計の彼が「危険なのは会長の発言です」と律儀に返事をした。
生徒会長と会計が無益な時間を過ごしている間に、副会長は何かを見つけていた。
「何だこれ。……魔道具か? 泡だらけじゃねーか…………めっちゃ良い匂いすんな」
何故か泡にまみれている菱形の何かを発見した彼は、後方でどうでもいい話をしている彼らへ振り向き、
「会長ー、これ多分魔道具だと思うんですけど。何か分かります?」
と怠そうに声を掛けた。
◇
(浮き輪でなら泳げんのかな……)
難しい表情をしたリオは、白と水色の浮き輪に両手の肉球をのせ、美しい温泉にプカプカと浮いている可愛いクマちゃんを見つめたまま少し屈むと、自身ともこもこの間のお湯に、そっと波を起こしてみた。
――彼が起こした波が、クマちゃんを乗せた浮き輪にあたる。可愛いもこもことそれを乗せた浮き輪は、スーッと彼から遠のいていき、数メートル離れてしまったもこもこから、小さく「……クマちゃ……」と寂しそうな幼い声が聞こえた。
『……リオちゃ……』と。
胸に強い痛みを覚えたリオが急いでもこもこを追いかけ「ごめんクマちゃんもうしないから!」ともこもこを浮き輪の中から引っこ抜く。
始まったとも言えない泳ぎの訓練は、心を鬼に出来なかったリオのせいで中止された。
因みにクマちゃんは肉球ひとつ動かしていない。
悲し気にまつ毛を伏せたリオは、びしょびしょで温かいほっそりクマちゃんに「クマちゃんごめんマジごめん俺が悪かった」と頬擦りをしてさらにびしょびしょになっている。
「……何をやってるんだあいつは」
彼らのやや後方でそれを見ていたマスターの口から、ため息交じりの声が漏れる。
一声掛けてからやらないからああいうことになるのだ。
何故あいつはいつももこもこを悲しませるのか。
「――――」
彼らにもこもこ専用浮き輪を渡したお兄さんは、いつものように目を瞑っているがほんの少し眉間に皺が寄っていた。
しかし始まる前に終わったもこもこ水泳教室に彼が口を出すことは無い。
◇
湖の方で大きな癒しの力が動いたのを感じたルーク達は、魔石集めを中断しクマちゃん達のもとへ戻ろうとしていた。
同じことを考えていたらしいクライヴと合流した彼らは、展望台のある場所よりもさらに強い力を感じる場所へやってきた。――滝のような音が聞こえる。
ガサリ、と背の高い植物を雑に払い前へ進むと、太い樹々の間から強い光が見えた。
ルークを先頭に明るく開けた場所に出た彼らの前を、輝く水で出来た蝶が横切る。
魔王のような男は、突然森の中に出来た楽園で何かを見つけたらしく、動きを止めている二人を残し、天から滝のように落ちる水を魔力を纏った片手で除け、緑がかった美しい水色の中を長い脚でスタスタと歩き、どこかへ行ってしまった。
魔力で彼の周りから水を退かしているらしい。
「…………」
あまりに幻想的で美しい、キラキラと輝く水と花の楽園を目にしたウィルは、声を出せず動くことも出来なかった。
少しの間無言で景色を眺め、ゆっくりとした動きで輝く滝へ近付く。
服が濡れたことも、それが水ではなくお湯だったことにも気付かず、装飾品を着けた腕をシャラ、と持ち上げ空から落ちる水にふれ、ルークと同じようにそこを通ると、美しく輝く花や流れる水と植物のカーテン、真っ白な柱と丸みを帯びた屋根など、心惹かれる場所を調べるため、自由に生きる鳥のようにどこかへ行ってしまった。
「……これは、白いのが――」
もこもこを象徴するような真っ白と、もこもこが大好きな花や蝶をじっと見つめ、つくった者の美しい心を表すようなその景色に強く心を揺さぶられたクライヴは、この広い楽園のどこかにいるであろうクマちゃんを探すため、お湯の温度を下げるような冷気を纏い歩き出した。
◇
リオは服を着たまま湯の中に腰を下ろし、可愛いクマちゃんを抱っこしたまま、
「クマちゃん、泳ぐ練習する?」
とかすれた声で尋ね、彼の腕の中の可愛いもこもこは、幼く愛らしい声で、
「クマちゃん、クマちゃん」
と彼に返した。
『クマちゃん、泳げる』と。
「えぇ……一ミリも泳げてなかったじゃん」
目を限界まで細めたリオは、己を知らないもこもこに不審なもこもこを見るような視線を向け、クマちゃんの主張は間違っていると伝えた。
彼の腕の中で仰向けに抱っこされているもこもこが、リオのかすれた
『――泳げ――たじゃん』
に深く頷く。
「だよね。…………いや――何か違う気がする……」
何かに違和感を覚えたリオが可愛いクマちゃんのつぶらな瞳に疑いの眼差しを向けていると、背後から
「ルークか」
というマスターの声が聞こえた。
もこもこ水泳教室の方へ魔王のような男の強い魔力が近付いてきていた。
クマちゃんの大好きなルークは仕事を切り上げ戻って来たらしい。
長身で容姿端麗な黒服の男が、膝の高さまである水の中を歩いているとは思えないほど自然な足取りで、スタスタとこちらへ向かってきている。
マスターの言葉に反応したクマちゃんが幼く愛らしい声で「クマちゃ」と言う。
『るーく』という甘えた声が聞こえた。
「……ほんとだ」
リオはクマちゃんの態度の違いに若干もやもやとした何かを感じたが、自身の感情に疎い彼はそれが何かわからない。
彼は魔王のような男が彼らのもとへ到着する少しの間、ひたすら可愛いもこもこを撫で続けた。
◇
可愛いもこもこを腕の中から奪われてしまい若干不貞腐れているリオと、愛しのもこもこから大歓迎を受けている森の魔王のような男と、予定よりも早く戻ったルークに「クマちゃ~ん、クマちゃ~ん」とゴロゴロと喉を鳴らす猫のように大興奮中のクマちゃんと、彼らを見守るマスターとお兄さんと、お兄さんの後ろに浮いているゴリラちゃんのもとに、心が洗われるような美しい楽園をつくった純真なもこもこを探しに来た、佇んでいるだけで水温を下げそうな男クライヴが到着し、最後にふらふらと楽園の美しい景色を愛でていた南国の鳥のような男が辿り着いた。
「クマちゃんの作った美しくて素敵な楽園を皆で散策したいのだけれど」
エメラルドを溶かしたような水色の景色によく似合う、南国の鳥のような青髪の男は、遠回しに皆に告げた。
『ここから出る気はない』と。
「……こんだけ広けりゃ、こっから全部は見えねぇからな。白いのが作った場所に危険はないと思うが、どこに何があるかくらいは知っておいたほうがいいだろ」
彼らの上司であるマスターには笑顔を浮かべている派手な男の思考が読めたが、先程目にした水中の回廊のように、彼らの身長よりも深い場所が他にもあるかもしれないと考え彼に同意した。
キラキラと輝く水が、宙に浮かぶ大小の花から零れ落ちている。
彼らが――ザァー――と流れる滝のような音を聞きながら美しい温泉のなかを歩いていると、ルークの腕の中のもこもこが幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言い、肉球が付いたもこもこのお手々でどこかを指した。
『クマちゃん、お花ちゃん』と。
「お花ちゃんって…………デカ!!! 何あの花!」
蔦や花で飾られた繊細な作りの真っ白な建物――屋根の部分が半球の、東屋のような、柱と屋根に白や水色の美しい花や蔦が巻きついている美麗な建物――の陰にあったせいで気付かなかったが、水の上に、巨大な睡蓮のような花が咲いている。
樹が爆発しようが建物が崩壊しようが気にしない、大雑把で無神経で無表情な男ルークは、当然花がデカいくらいでは騒がない。
彼はもこもこを抱いたままスタスタとそちらへ近付き、
「何かあんのか」
と抑揚の少ない、色気のある低い声でもこもこに尋ねた。
もこもこがルークの腕を肉球でキュムッと押し、クマちゃんはここで降ります、と合図を送る。
「…………」
彼は可愛いもこもこの意向を汲み、淡く光る薄青色の巨大な睡蓮の真ん中、黄色い部分へクマちゃんをそっと降ろした。
すぐ側で見ていたリオが、
「え、それ黄色い粉つくんじゃね?」
と真っ白なもこもこが黄色いもこもこになってしまう悲しい未来を予見する。
しかし、彼らの目に黄色いもこもこが映ることはなかった。
花びらが可愛いクマちゃんをそっと包んで隠してしまったからだ。
「……クマちゃんデカい花に食われちゃったんだけど」
若干心配そうなリオの声が聞こえたせいなのか、初めからそういうものなのか――彼らの視線の先、巨大な睡蓮が光を強め、花びらが微かに動く。
うっすらと青く光る大きな花びらがゆっくりと開いて行く。
そしてその中から少しずつ見えてきた、真っ白でもこもこした謎の生き物。
その生き物は、短くてもこもこした可愛いお手々を胸元で交差し、じっとしている。
そして、花びらが開き切ったそのとき――謎のもこもこは短いお手々をバッと広げ、ピンク色の最高に可愛い肉球を彼らへ見せつけ、幼く愛らしい声で、
「クマちゃん」
と言った。
『クマちゃん』と。
「いや知ってるし! つーか他のもん出てきたらそっちのがびっくりだから!」
綺麗なお花から生まれた可愛すぎるクマちゃんに謎の憤りを感じたリオは「何? お花ちゃんから妖精ちゃんみたいな可愛いクマちゃんが生まれたよってこと?」と妙にツンツンしている。
「すげぇな」
無駄に色気のある低い声でルークがもこもこを褒めながら、長くてスラッとした筋肉質な腕を伸ばし、お花から生まれたばかりのお花の妖精クマちゃんを抱き上げ、指先で頬を擽るように撫でた。
お花ちゃんなもこもこは大好きな彼に褒められ興奮したらしく、濡れた鼻をふんふんふんふんしている。
「とても愛らしくて素敵だと思うよ。本当にお花の妖精みたいだね」
腕の装飾品をシャラシャラと鳴らし拍手をするウィルは「お花から生まれたからお花が好きなのかな」と涼し気な声で納得したように話し、優しい表情でクマちゃんを見つめている。
「――――」
クライヴは湯の中に跪き、苦し気に胸元を押さえている。お花から誕生してしまった愛らしいクマちゃんは彼には刺激が強すぎた。目に焼き付いたピンク色の肉球とお花の真ん中でポーズを決める生まれたてのもこもこの姿が彼を苦しめる。
マスターは腕を組み、可愛すぎるもこもこが誕生した瞬間に目を和ませていたが、
「……おい、大丈夫かクライヴ」
彼の横で何故か苦しみ始めたクライヴを放っておくことも出来ず、渋い顔で声をかけた。
ひざ下しか浸かっていないのに湯あたりしたのだろうか。心配した彼の耳に小さく「……おめでとう……」ともこもこの誕生を祝う声が聞こえ、片手で目頭を押さえたマスターは「あー、大丈夫そうだな」と彼の肩からスッと手をどけた。
「この花マジでなんなの? クマちゃんのための花なの?」
この大きな美しい花の用途が、もこもこがキュッと挟まったり隠れたりするためのものだと知らない金髪がそれへ近付き覗き込むと、
「あぶなっ! ムリムリムリ俺花から生まれたくないから。ほんと無理だから」
彼の頭を優しく包み込もうとする花に危険を感じ、急いで遠のく。このままでは花から金髪が誕生してしまう。
しかし後方へ逃げる瞬間、花びらと中央の黄色の陰で、何かが光った。
「あれ、今なんか見えた気がする……リーダー、あの中何かあるっぽいんだけど」
リオは振り向き、花の側でもこもこの濡れた鼻にふれ「クマちゃ」と言わせたり、もこもこしたおでこを優しくくすぐり可愛い口を開けさせたりしてクマちゃんを愛でている魔王のような男へ声を掛けた。
ルークなら花を傷つけず簡単にそれを取り出せるだろう。
フワリと風が吹き、彼が魔法を使ったのを感じた。
花の中央付近から、キラリと太陽の光を反射し、何かが出てくる。
ルークがもこもこを抱いたまま片手でそれを掴むと、気になったものの匂いを何でも嗅いでしまう猫のようなクマちゃんが、菱形のそれに小さな黒い濡れた鼻をピトっとふれさせた。
周囲に、カシャ――という音が響いた。
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