第116話 優雅なクマちゃんの美しい朝
二人と一匹の朝は今日も暗闇から始まる――。
秘境に在る洞窟のような暗い部屋。人工の明かりの無い自然のままの壁際には、土と水がなくとも瑞々しい不思議な木が、今日も元気に倒れたまま生い茂っている。
深い森に護られた聖域のように、濃い緑の香りと澄んだ空気の満ちる神秘的な空間。うなされる誰かのかすれ声。
頑丈そうな板張りの天井で、赤ちゃんの喜びそうなオルゴールの愛らしい音が、金髪の眠りを優しく見守るように、または妨げるように、六つ重なり鳴り響ていた。
真っ白なもこもこ、可愛いクマちゃんが、閉ざしていたつぶらな瞳をパチッと開く。
妙に起きるのが早いクマちゃんの目覚めに気付いたらしい彼が、指の長い大きな手でもこもこの体を優しく撫でる。
素敵な彼の指に濡れた鼻をくっつけ、はむはむとくわえ、存分におはようの挨拶をした礼儀正しいもこもこは、横に置かれた足置きを階段代わりにもこもことベッドから下り、同じ方法で反対側の金髪の眠る場所へ、ヨチヨチもこもこと侵入する。
手の甲で目元を隠し死んだように眠っている、仰向けの金髪の横へたどり着いたクマちゃんは、深く考察する。
クマちゃんが起きたのだから彼も起きる時間のはずなのに、まだぐっすり寝ているということは――寝坊。
しっかりしていないリオが寝坊しているということは、しっかり者のクマちゃんが起こしてあげる必要がある。
うむ。昨日のようにそっと起こすのがいいだろう。
彼の耳元へ近付き、リオちゃん、もう起きる時間ではないですか?
と優しく声を掛け――ようと思ったところで、可愛いクマちゃんの小さな黒い湿った鼻を、癖のある金色の髪がもしょっと擽った。
ぐっすりと眠っていたリオの耳の真横で突然、プシッ!!! ――と大きな音が鳴り、水しぶきが飛ぶ。
「何?!!! 今の音! ――何か顔濡れてんだけど!!!」
鼓膜を突き刺す破裂音と謎の水しぶきに跳ね起きる金髪。
すぐに振り向き、破裂した何かを確認する。
白いシーツ。うごめく白。考察する金髪。
枕の位置、おかしな破裂音、謎の水しぶき、肉球で顔を洗う猫、もといクマ。
――くしゃみ。
犯人はクマちゃん。
朝から冴えているリオには解った。
寝ていた彼はあの濡れた鼻から出てきたあれこれを顔に浴びせられたのだ。
「クマちゃん今俺に鼻水かけたでしょ!」
目を細めたリオが、何故か自身の枕元で顔を洗う容疑者を厳しく追及するが、現在忙しいらしいクマちゃんは答えない。
一生懸命肉球を動かしもこもこした顔をこすっている。
「もー…………おはよークマちゃん」
寝ていたところを鼓膜直撃のくしゃみと鼻水の雨で起こされたもこもこ被害者リオは、深いため息を吐きつつ、もこもこした犯人をそっと抱き上げ、朝の挨拶をした。
まだ鼻のかゆいらしいクマちゃんに「そんなにこすったら傷ついちゃうよ」と優しく肉球をどかし可愛い顔を覗き込む。
つぶらな瞳から零れている涙と垂れている鼻水を拭いてあげようとした彼が、枕元に置かれた革製の道具入れへ手を伸ばすと、
「――使え」
朝から無駄に色気の強い低音の美声が聞こえ、ふわふわとした布が飛んで来た。
可愛いクマちゃんの繊細なお肌を傷つけることは許されないらしい。
もこもこに過保護な飼い主は、リオが適当な布でクマちゃんの顔を拭こうとしたことを察知したのだろう。
リオの頭に一瞬、自分がクマちゃんに鼻水をかけられていた時も彼は起きていたのでは――という良くない考えが過ったが、いや、そうであれば自分にも布をくれたはずだ、と己の考えを否定した。
すぐに人を疑うのは自分の悪い癖だ。――反省しなくては。
もこもこのせいで主に頭部がしっとりしている彼は、腕の中の可愛いもこもこの顔を高級素材のふわふわの布でそっと拭い「まだかゆい?」と寝起きのせいでいつもよりもやや低い、かすれた声でクマちゃんに尋ねる。
無事痒みの治まったらしいもこもこは、顔を綺麗にしてくれたリオに感謝とおはようの挨拶を返すため、彼の手にふんふんと濡れた鼻を押し付け、幼く愛らしい声で「クマちゃん、クマちゃん」と言った。
「顔も手もクマちゃんのせいでビショビショなんだけど」と笑ったリオがクマちゃんと仲良く戯れていると、ベッドで横になったままもこもこの可愛い行動を見守っていたらしい森の魔王のような男が、徐に起き上がった。
脚の長い彼は数歩でリオのベッドへ近付き、高い身長に見合うスラッとした腕を使い自然な動作でもこもこを抱き上げ、そのまま洗面所へ消えた。
いつの間にか、彼らの起きる時間になっていたようだ。
何かを忘れているような気がしたクマちゃんは、しかし大好きなルークに今日のお洋服を選んでもらっている間に、そのことを忘れてしまった。
今日のクマちゃんのお洋服は、エメラルドのような気品のある緑を大人っぽい黒のレースで縁取った、シックでお上品なリボンである。
装いに合わせ仕草までエレガントになった純白のクマちゃんは、美麗な肉球付きのもこもこなお手々を流れるようにスッと動かし、そっとお上品にルークの長い指をくわえ、物思いに耽る。
「クマちゃんまた鼻水出てるよ」
親切なリオがクマちゃんへ声を掛けたが、ルークの腕の中、チャ、チャ、と猫のように舌を鳴らす可愛いもこもこは、彼の長い指をくわえるのに忙しいらしく、『クマちゃん』一つ返してこなかった。
◇
大人気店の店長として働く傍ら、シェフやバーテンダーとしても活動している多忙なクマちゃんは、自身の職場である酒場で仲間達と挨拶を交わし優雅に朝食を取り、現在はルークに身だしなみを整えてもらっている最中だ。
「リーダーまじでクマちゃん甘やかしすぎだから」
いつものようにルークにもこもこの口元を拭ってもらっている、食事の前も後も肉球ひとつ動かしていないクマちゃんへ視線を向けたリオが、もこもこを堕落させる存在である美しい魔王のような男へ不満をぶつけた。
――ルークが何でもしてしまうからもこもこがぬいぐるみのように動かないのだ。
しかし、人外のような美貌を持つ銀髪の男は、もこもこのよだれかけを外しリボンを整え、幼児用の薄味で美味しい食事に満足したらしいもこもこは、チャチャッと猫のように舌を鳴らし、何も考えてなさそうなつぶらな瞳でどこかを見つめている。――虚空を見つめる猫のようだ。
絶対に彼らはリオの話を聞いていない。断言できる。
「昨日は遅くまで働いていたのだから、今日はお店をお休みしてもいいのではない?」
南国の鳥のように派手で鮮やかな青髪の男は、赤ちゃんクマちゃんを気遣い優しい言葉を掛け、「それに、今日も戦闘はほとんどないだろうからね」と涼やかな声でのんびりと続けた。
「――お前はまだ……若いのに働き過ぎだ」
冬の支配者のような男は危うく『小さい』『幼い』『赤ん坊』のどれかを言いかけたが、頭に浮かぶそれらを次々と消去し――なんとかもこもこの耳に優しい言葉を探し出した。
彼は朝から赤ワインを飲んでいた高貴で美しいが怪しいお兄さんと、口の間に出現させた闇色の球体へ食事を吸い込ませていたゴリラちゃんと同じテーブルに着いていたが、カタ――と静かに席を立ち、ルークの膝の上にいるもこもこの愛らしい肉球と握手をすると「……昼には戻る」と言い残し、〈クマちゃんのお店〉の裏側へ消えて行った。
――クマちゃんのスポンサーは一足早く仕事へ行ってしまったようだ。
湖畔の花畑でルークとウィルに『お仕事頑張ってね早く帰ってきてねの儀』を行ったクマちゃんは「あれ、俺また置いて行かれることになってる?」心の傷を癒すため、風のささやきと共に美しい景色が映る湖の周りを散歩していた。
「クマちゃんお散歩楽しい? めっちゃふんふん聞こえる」
また風がささやいている。きっと『クマちゃんお最高! ふんふんふーん』と歌っているのだろう。
リオに抱えられているクマちゃんは、肉球が付いたお手々で彼の腕をキュッと掴むと、美しい森と真っ白な展望台を映す、鏡のような湖を眺めた。
うむ。大きなお魚ちゃんも一緒にお散歩中のようだ。
優雅に景色を楽しむエレガントなクマちゃんの、高性能でもこもこした可愛いお耳がピクリと動く。
冒険者達の話し声が聞こえる。
「はぁ……。クマちゃんの作ってくれた露天風呂は最高だけど、男達が入ってると私達が入れないし……」
もしかして、彼女はクマちゃんの作った露天風呂のことで何かお困りなのだろうか。
「そうだよねぇ……、でも、あたしたちが入ってると、今度は男の子たちが入れないしねぇ……」
大変だ。お風呂がせまいらしい。
「んー、浄化の魔法があるから服のまま入れないこともないけど。それだとなんとなくスッキリしないしなー」
クマちゃんの美しい被毛が水に濡れて、お肌に張り付いた時の感じだろうか。
「二時間交代制とかはぁ……時間ぎりぎりに入った時に大変なことになるかなぁ。クマちゃんのお風呂で喧嘩はだめだよねぇ」
お風呂で喧嘩しちゃ駄目! らしい。泡で滑るからだろう。うむ。喧嘩をしながら滑ってどこかへ行ってしまったら大変だ。
彼女たちの話を纏めると、
『みんなで入れるくらい大きなクマちゃんのお風呂があれば、最高二時間も泡で滑って交代で行方不明になる大変駄目な人がいなくなるし、服はぎりぎりじゃなくてスッキリ脱げる』
ということのようだ。
うむ。それはとても大事なことである。
「また頷いてるし。クマちゃんマジでお散歩好きだよね」
風のささやきが聞こえる。『待ってるよクマちゃん! 真面目でお最高! 好き!!』と言っているのだろう。
お風呂が狭くてお困りの皆のために、早く巨大露天風呂を作らねばならない。
クマちゃんの力だけでは足りない。リオとお兄さんとゴリラちゃんとマスターにも手伝ってもらう必要がある。
マスターもルークも、クマちゃんは森に入っちゃ駄目! と言っていた。
しかし今は緊急事態だ。森へ入り敷地を広げる許可を貰わなければ。
うむ。――マスターと一緒に作業をするのがいいだろう。
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