第94話 悲劇のヒロインクマちゃんとヒーローな彼

 床すれすれの低い位置に設置されているもこもこ用オーブンの前に、パティシエクマちゃんを抱いたまましゃがんでいたリオ。

 目の前で鳴った大き目の音に驚いたクマちゃんが、つられたように「キュオー」と鳴きだしてしまった。

 鳴いているもこもこがリオの服に爪をひっかけ、カーテンを前にした猫のように、彼によじ登ろうとしている。


「いたいいたいちょっとクマちゃん登んのやめて」


 先の丸い爪であっても、力いっぱいカリカリされると痛い。リオは良い香りのするオーブンを覗く前に、オーブンから逃げようとするクマちゃんを宥めることになった。

 

 服からもこもこの爪を外し、赤ちゃんのような帽子を被っているクマちゃんを、腕の中で仰向けにして頬をくすぐる。

 ――もこもこは不意打ちの大きな音が苦手らしい。


「何かめっちゃいい匂いすんだけど、もしかしてもう焼けたんじゃねーの?」


 通常のケーキの焼き時間など知らないリオは、ボタンを押すと同時に良い香りがしたことに違和感を覚えなかった。

 腕の中のクマちゃんは、頬をくすぐっていたリオの指を掴まえ、それをくわえている。

 赤ちゃんのようなもこもこに指をもぐもぐされてしまったリオはじっとその様子を眺め「かわ……」と言ったが、パッと目を逸らすと、オーブンを覗き込んだ。

 ――彼はクマちゃんを素直に可愛いと言うことに抵抗があるらしい。言ったら負けだ、とでも思っているのかもしれない。


 空いている手を伸ばしたリオがオーブンを開ける。

 フワリ――。甘い匂いと、火を通したバターの香ばしい香りが広がり、体の前面に熱い空気を感じた。


「すげーケーキっぽい匂い。これどうやって出す――いたいいたいクマちゃんそれケーキじゃないから。俺の指だから」


 腕の中のクマちゃんが、リオの指を強く嚙んでいる。充満するいい香りと、口の中の嚙み応えのある指のおかげで、ケーキを食べているつもりになってしまったようだ。 

 リオが、小さな黒い湿った鼻の上に皺を寄せ、本気で指を嚙んでいるもこもこから指を取り戻そうとしていると、熱にも負けない便利な闇色の球体がケーキを包み、オーブンの中が空っぽになった。

 後ろでワインを飲んでいるであろうお兄さんの、低音で、頭に響く不思議な声が聞こえる。


「――しばし待て」


 お兄さんのお告げのような言葉を聞いたリオが「え、お兄さんケーキどこやったの。――どろどろのやつもどっかいったんだけど」と言いながら、酒場からパクったテーブル席の椅子をガタ、と引き、それに座った。

 

「お兄さんそれ俺にもちょーだい」


 好き勝手やっているお兄さんの斜め横に座ったリオが、チラ、と横目でワインを見る。

 テーブルの上に、大小の闇色の球体が現れた。

 それは、二センチ幅に切られ、綺麗に皿に盛りつけられたケーキと添えられたフォーク、小さな白い、クマの絵柄のマグカップ、赤いワインの入ったグラスを残し、すぐに消えた。


「お兄さんこれ絶対誰かにやらせてるやつでしょ……」

 

 クマちゃんの木の実のケーキの横、泡立てたクリームが添えられているのを見たリオが、目を細め、かすれた声で小さく呟く。

 あやしすぎる。

 均等に切られ、やや斜めに倒し盛りつけられたケーキも、ふんわり飾られたクリームも、小さなクマちゃん専用マグカップと湯気の立つ牛乳も、グラスに入れられたワインも、お兄さんが誰かに指示し、やらせているとしか思えない。

 答えなど返って来ないだろうそれについて、敢えて聞いたりはしないが。


 追及を諦めたリオが「お兄さんありがとー」と礼を言い、ワインに口をつけた。

 腕の中のクマちゃんが、テーブルの上の牛乳と、美味しそうなケーキを見てふんふんと興奮し、肉球をテチテチ叩き合わせ、喜んでいる。

 すぐにテーブルへグラスを置いたリオは、フォークを手に取り、ケーキをクマちゃんに食べさせてあげようとするが、もこもこの幼く愛らしい、


「クマちゃん、クマちゃん」


という声が、それを止めた。


『ルーク、みんな、ケーキ』と言ってる気がする。

 ――初めて作ったケーキは皆と一緒に食べる、ということのようだ。

 

「えぇ……。クマちゃん、みんないま会議行ってるから無理じゃないかなぁー」


 ――リオは気付いていた。

 こんなに時間のかかる会議など、大雑把な冒険者がするはずがない。話し合いに時間をかけるくらいなら、問題のある場所を直接調べに行くに決まっている。

 自分達は置いて行かれたのだ。

 おそらくリオの役目は、超寂しがり屋のクマちゃんにルークの外出を悟らせないようにすることだろう。

 だが、もう数時間、ルークの不在を我慢したもこもこが〝会議だから〟で納得するだろうか。

 腕の中から幼く愛らしい、


「――クマちゃん――」


という決意に満ちた声が聞こえる。

『――クマちゃん、会議でる――』と言っているようだ。


 なんと、クマちゃんは会議に出てしまうらしい。


「いやクマちゃん会議で話す事ないでしょ」


 ルークと違い真面目なリオは、幼い、赤ちゃんのようなもこもこを会議に連れて行こうとは思わない。

 会議では子供に聞かせられないような話が出ることもある。

 今行ったとしても会議室にはおそらく誰も居ないが、『クマちゃん会議出る』に対して『いいよ』と言うわけにはいかない。

 どちらにしろそれは、全く良くない。


 リオはポケットに仕舞っていたおしゃぶりを取り出し、そのままクマちゃんの口の中に突っ込もうとして――手元のそれを闇色の球体に奪われた。

「こわっ」と指が無くなっていないか確認している間に、おしゃぶりはすぐに戻ってきた。


「え、いまの何だったの」リオが言う。「浄化して使え」お兄さんのお告げが聞こえた。


 意外と細かいお兄さんが綺麗にしてくれたらしいそれを、赤ちゃんのような格好をしたもこもこの口元へ差し出す。

 ――顔の周りをレースで囲われた赤ちゃんクマちゃんが、チャ、チャとおしゃぶりをくわえている。

 リオは眉間にしわを寄せ、目を細め、難しい顔をすると、深く頷く。

 ――可愛い。

 これならばうっかり可愛いと言ってしまっても仕方がないだろう。 

 クマちゃんがおしゃぶりに意識を向けている間に、話を逸らす。


「そういえばお兄さん露天風呂でクマちゃんに何かあげるって言ってなかったっけ」


 取り合えず物で釣ろうと考えるリオ。

 彼はお兄さんがゴリラちゃんの中に入っていた時『後で良いものをやろう』と言っていたのを思い出した。

 

「そのクマの望みを聞くのが良いかと思ったが――」


 パクったテーブルにグラスを置いたお兄さんの手に、闇色の球体が現れ、すぐに消える。

 球体の代わりに残ったのは、銀色の髪、黒い服の可愛らしい人形だ。

 ――非常に見覚えのある色彩である。


「……そのリーダー何か可愛すぎて嫌なんだけど」


 リオが嫌そうな顔をする。

 腕の中のもこもこは、ピンク色の肉球が付いたもこもこの両手でおしゃぶりをパシと挟むと、幼く愛らしい声で、


「クマちゃ……」


と呟いた。

 今にも泣きだしそうな声は『ルーク……』と言っているようだ。

 ――余計に会いたくなってしまったらしい。 

 

「お兄さんそれ今じゃないほうが良かったやつ」


 目が潤んでしまったもこもこを見たリオがかすれた声で言い、お兄さんは「そのようだな」と、すぐにそれを闇の中へ仕舞った。

 すると赤ちゃんクマちゃんが、幼く愛らしい、


「……クマちゃ……」


という泣きそうな声を出した。

『……クマちゃ……会議でる……』と言っている。


 やはり、クマちゃんは会議に出てしまうらしい。


 もうこれ以上クマちゃんを止めることは出来ない。

 泣きそうなもこもこをこのままにすることなど、誰にも出来ないのだ。


「……多分なか入れないけど、一応行くだけ行ってみる?」


 せっかく完成したおいしそうなケーキを食べることもなく、リオは、鼻を垂らし目を潤ませる可哀相なもこもこを抱えたまま立ち上がった。

 妙に可愛いルーク人形を仕舞ったあと、何故か目を閉じ腕を組んでいたお兄さんも、ぬいぐるみゴリラちゃんに椅子を引かせ、スッと立ち上がる。


「クマちゃ……」と呟き続けるもこもこを帽子の上からポフポフ撫でながら、〈クマちゃんのお店〉を出たリオは立入禁止区画にある会議室へ向かった。 



 会議室の扉の前に到着したリオは、すぐに目の前のそれが封印されていることに気が付く。

 我慢出来なくなったクマちゃんが会議室まで来てしまった時のことを考え、開けられないようにしたのだろう。


 超寂しがり屋のクマちゃんが長時間お留守番出来るとは、誰も思っていなかったようだ。

 腕の中のもこもこが身を乗り出し、扉へ向かって肉球付きのお手々を伸ばし「クマちゃ……クマちゃ……」と、ほとんど泣いているような声を出している。

『会議ちゃ……ルークちゃ……』と言っている気がするが、色々混ざっているため定かではない。


「無理、可哀相すぎる……でも開けるわけいかないし……」


 鼻を垂らしクマちゃクマちゃと言っているもこもこが不憫でしょうがないリオは、いっそ目の前の扉を開けてしまおうかと考え――誰も居ない会議室を見れば、もっと悲しむだろうと思うと、それも出来なかった。

 ――ぬいぐるみゴリラちゃんを従えたお兄さんは、会議室の向かいにある、別の部屋の扉の前で腕を組み、目を瞑っている。


 リオは鳴き声が「……キュォ……キュォ……」に変わってしまったクマちゃんをギュッと抱きしめ、クルリと振り返ると、封印された扉に背を預けた。


「……クマちゃん、泣かないで」


 少しがさつなところのあるリオには珍しいほどの優しい手つきで、ぽろぽろと涙を零すもこもこの頬をそっと撫で、囁くように声を掛ける。

 彼は自身の腕の中で泣いているクマちゃんの、赤ちゃんのような帽子に唇をふれさせ――一体どうしたらいいのか、と途方に暮れた。


 ――因みにこの、やけに悲壮感を漂わせている白いもこもこは、まるでルークと長期間会えていないかのように振る舞っているが、実際は彼らが森へ出かけてから、まだ三時間程しか経っていない。

 そして、無駄に深刻な雰囲気だが、彼らには何の苦労も無く、少しの時間お留守番をしているだけである。


 リオはクマちゃんに再びおしゃぶりをくわえさせようとして失敗したり、もこもこの頬に自分の頬をくっつけたりして一生懸命慰めていたが――不意に何かに気が付いたように、パッと顔を上げた。



 背後の封印が、解けている――。

 

 そして、ギィ――と扉が動いた。



「え、何で」


 リオは体を預けていた扉から背を離し、誰も居なかったはずの会議室から出てきた人物に尋ねた。

 ――扉の向こうで、人の気配が増えていくのを感じる。


「――泣いてたのか」


 色気のある低い声が、静かな廊下に響く。

 ルークはリオの質問には答えずに、肉球が付いたもこもこの手をこちらへ伸ばし抱っこをねだる、赤ちゃんのような格好をした可愛いクマちゃんを、慣れた手つきで攫うように受け取る。

 そして、つぶらな瞳から涙を零し甘えた声を出すクマちゃんを、長い腕でフワリと抱きしめ、「もう泣くな」と言った。


「待たせて悪かった」


 クマちゃんの涙を親指で拭うルークの声は、相変わらず抑揚が無く感情が分かりにくかったが、もこもこの耳に届いたその言葉は、いつもよりも少しだけ、甘く優しいような気がした。

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