第90話 もこもことリオと不思議なお兄さん
〝廊下を走ってはいけない〟という言葉を知らないかのように、廊下も階段も走りまくったリオ。
『クマちゃん!』と幼く愛らしい叫び声を上げるクマちゃんを抱え、酒場の二階、突き当りにある自分達――ルークとリオとクマちゃん――の部屋の前にたどり着く。
見慣れたノブを鷲掴み、バンッ、と勢いよくドアを開けると、まるで誰かに追われている人のように、素早く中へ飛び込んだ。
秘境にある洞窟のような室内。
薄暗い部屋の壁に開いた大きな穴から漏れる、柔らかな光。
空気は森の中のように澄み、爽やかな緑の香りが漂う。
心なしかきらめいて見えるそれは、息を吸い込むだけで、体の中から浄化されるようだ。
壁際には倒れたままの木が茂り、伸びた枝の先が、暗い色の木目の板へ入り込み一体となっている。
いつも通りのそれを見たリオは思った。
――いっそ落ち着く。
この澄んだ空気の薄暗い部屋の中であれば、冒険者達のおそろしい会話が聞こえることもない。
もこもこの可愛いもこもこした耳に、いつ誰が何処へ行く、などという余計な情報を入れてもらっては困るのだ。
そこまで考えたリオはハッとした。
クマちゃんは先程悲鳴を上げていなかっただろうか。抱えたまま走ったのが怖かったのかもしれない。
彼は自身の腕の中を覗き込んだ。
愛らしいクマちゃんがもこもこの手の先をくわえたまま、つぶらな瞳でこちらを見つめている。
――可愛い。
何故手をくわえているのか分からないが、可愛い。
悔しそうな顔をしたリオが、クマちゃんを見つめ返し、頷く。
もう怖がっていないようだ。
つぶらな瞳のクマちゃんも、もこもこのお手々をくわえたまま頷いた。
荷物をテーブルに置こうと思ったリオは、そこにあるコップと水差しをじっと眺め、
(いや、荷物が水差しを倒してついでにコップも倒れて全部バシャァってなる気がする)
と無駄な想像を広げる。
普段は前向きなのに水差しや花瓶に妙に警戒心を強める、今は後ろ向きなリオは、腕に掛けていた荷物を外し、そのまま、ガサ、と床へ置いた。
「あ、やべぇお兄さん連れてくんの忘れた」
クマちゃんとのお留守番の予感に動揺し、酒場から逃げることに集中しすぎたうっかり者のリオが、思わず呟く。
一旦酒場へ戻ろうと考え――、腕の中の生暖かいもこもこをどうするか、と視線を移動させた。
ピンク色の肉球が付いたもこもこの手の先を、カシカシしている可愛いもこもこと目が合う。
――爪のお手入れ中なのだろうか。
黒いビー玉のようなツヤツヤのつぶらな瞳は、ずっとリオの顔を見上げていたようだ。
「可愛い……」
心の声をうっかり口に出してしまったリオがまた悔しそうに目を細め、
「じゃなくて、いや可愛いのは間違いないんだけど……俺お兄さん連れてくるからクマちゃんちょっとここで――いやなんで今ツメ引っ掛けたの? 嫌だってこと?」
何かへの言い訳をしつつ用事を告げ、クマちゃんを自身のベッドへ降ろそうとして――たった今クマちゃんの口から解放されたばかりのしっとり濡れた先の丸い爪を、服に引っ掛けられた。
「お兄さん迎えに行ったらすぐ戻ってくるから、ちょっと待って……」
しっとり濡れているもこもこの毛と爪で服がしっとりしたリオは、それを叱ることなく、クマちゃんをベッドへ降ろそうと奮闘する。
しかし、甘えっこクマちゃんは乾いているほうの爪も引っ掛け、リオから離れようとしない。
いまだかつて、彼がこんなにクマちゃんに求められたことはあっただろうか。
いや――そんなことに感動している場合ではない。
早くお兄さんを迎えに行かなくては。
「ごめんクマちゃん、ほんとすぐ戻って――」
リオがもう一度甘えっこクマちゃんとの交渉を試みたとき、
「無理に離す必要はない」
怪しい兄さんの低音の不思議な声が、リオの背後から聞こえた。
いつの間にか部屋の中にいたようだが、当然ノックの音は聞いていない。
「え、お兄さん今ドア開けた? 全然気配感じなかったんだけど……」
ノックもドアを開ける音も、足音も気配も何も感じなかったことに最高に嫌そうな顔をしたリオが――背後に居るのがお兄さんだと解っていて――クマちゃんを腕の中にかばうように抱き上げた。
リオは怖い話は苦手なのだ。
現れるなら普通にしてほしい。頭に響くような不思議な声も、心臓に優しくない。
――リオの腕の中に戻ったクマちゃんは、ピンク色の肉球が付いたもこもこの手をくわえ、爪のお手入れを再開している。
心なしか満足そうな顔だ。
「…………」
クマちゃんを抱いたまま自身のベッドに腰を下ろしたリオが無言で、お兄さんをここへ連れてきたであろう人物――例えばウィルあたり――の気配を探る。
――廊下には、誰も居ないようだ。色々怪しいお兄さんには案内など必要ないらしい。
リオは薄暗い部屋のなか、佇むお兄さんへ視線を合わせた。
――ぬいぐるみゴリラちゃんを従えたお兄さんが、壁際の、横倒しの木を見ている。
何を考えているのか分からない無表情だが、なんとなく、残念な物を見るような目をしていないだろうか。
「……お兄さん、その木のこと何か知ってんの」
リオは無意識に腕の中の、――手触りの良すぎる生暖かいもこもこを撫でまわし、緊張気味のかすれ声でお兄さんへ尋ねた。
――被毛を撫でる彼の手を、肉球が付いたお手々で上手に掴まえたクマちゃんがペロペロしている。
もこもこにお手入れされたリオの手は、ひんやりしっとりしていった。
「――お前たちにもそのうち解るだろう」
美しい目を伏せたお兄さんが、まるでお告げのように、頭に響く不思議な声で答えた。
「えぇ……じゃあ、それってここに置いといていいの?」
曖昧なのが苦手な、白黒つけたい派のリオが食い下がる。
クマちゃんに聞いても解りそうにないそれの答えを知っているなら、どうにかして情報を得たい。
「私がお前たちに伝えられることは多くない。――ただ、これを部屋の中に転がし、打ち捨てている者を見たことはない」
怪しいお兄さんはしつこい子供の相手をするように、冷たくすることなく静かに言葉を返す。
少しだけ間をおいて「だが」と言うと、
「枯れていないということは、それはこの場所が気に入っているのだろう。いつか枯れたとしても、そういう定めだったということだ」
答えになっていない話をしながら静かに歩き、ルークのベッドへゆったりと座る。
お兄さんの背後でふわふわ浮いていたぬいぐるみゴリラちゃんも、静かに腰を下ろした。
――何故か、リオのベッドへ。
怪しいお兄さんはベッドは一人で使いたい派のようだ。
「……え、結局良いの? 悪いの? やべぇわかんねぇ。……つーか今お兄さんさりげなくこっちにゴリラちゃん退かしたよね」
はっきりしない話を聞かされたリオは、集中して考えようとした。
だが、ぷにっとした肉球が付いたもこもこの手に掴まえられた手が、薄くて暖かい舌にペロペロ濡らされる感触と、お兄さんが邪魔だからこっちへ退けたと思われるゴリラちゃんが気になり、思考が纏まらない。
リオが腕の中のもこもこ――彼の手もお手入れしてくれている優しいクマちゃんへ『ありがとークマちゃんもういいよ』と伝えようと思った時、もこもこの動きがピタ、と止まった。
「えーと毛繕い? ありがとークマちゃん……どーしたの? 何か動き止まってるけど」
満遍なく濡らされ、空気にふれるとひやっとする手をもこもこから取り戻したリオが、腕の中でぬいぐるみのように動かなくなったクマちゃんに尋ねる。
クマちゃんの可愛いもこもこの口元から、幼く愛らしい、
「クマちゃん、クマちゃん」
という声がした。
『クマちゃん、おもちゃ飾る』と言ったようだ。
「あーおもちゃかー。――マスターのとこじゃね?」
飾る、という言葉が指すのは天井のオルゴールのことだろうと思ったリオが、深く考えずに口に出す。
そしてハッと気付いた。
今はそちらには行けない。会議室は立入禁止区画にあるのだ。
「いやクマちゃん。それは後でいいんじゃない?」
もこもこをそちらへ行かせたくないリオが、足止めを図る。
リオの中で、今晩クマちゃんをこの部屋から出さないことは決定している。
――軟禁である。
もこもこが再び「クマちゃん」と、幼く愛らしい声を出す。
『クマちゃん、おもちゃ』と言っているようだ。
聞き分けのいいもこもこなどもこもこではない。
真のもこもことは、しつこい猫のような生き物なのである。
しつこい猫も、もこもこも、一度決めたことを覆したりはしない。
「おもちゃが欲しいのか」
組んでいる脚に片肘を突き、その手に顎を置く怠惰な恰好で目を閉じていたお兄さんが、駄々っ子クマちゃんとリオのやり取りを聞き、空いている手を床へ翳した。
リオのベッド寄りに闇色の球体が現れ「こわいこわい、お兄さんそれこわい」かすれた声の苦情が聞こえる。
闇のそれは音もなく消え、代わりに残されたのは、本日おもちゃ屋さん――赤ちゃん用品のお店――で大量購入した荷物だ。
「うわ……離れた場所のも移動できんの? ……こわい」
しかしリオの口から漏れたのは感嘆ではなく、なんだか見た目が怖い闇色の球体の、遠くの物まで瞬時に移動させる能力に対する恐れだ。
あれは人間も吸い込むのだろうか。
出来ればあの玉は自分から離れた場所に出してほしい。
「天井に飾りたいのだったか」
スッと手を元の場所――組んだ脚の上――へ戻したお兄さんが、床の上の袋を見つめる。
カチャカチャと、硬い物がぶつかる音が響いた。
袋の中から出てきたそれらがふわふわと宙に浮かび、天井へ飾られてゆく。
腕の中の、手触りが良すぎるクマちゃんを無意識に撫でまわしているリオが、自身のベッドの斜め下――袋から出てくるオルゴールをぼーっと眺めている間に、飾りつけは完成したらしい。
少し顔を上げ、前方の天井を見る。
だがベッドから見渡す室内の様子に変化はない。
「え? どこ?」
リオは自身のベッドの反対側――ルークのベッドに座るお兄さんを見た。
「横になれば見えるだろう」
お兄さんは低音の、頭に響く不思議な声で、リオに答えた。
「横?」
素直な彼はクマちゃんを抱えたまま、上体をベッドに、ぼふと倒す。
リオのベッドの真上。天井にびっしりとオルゴールが並んでいる。
――その数六個。
「きもちわる!!!」
普段あまり悪い言葉を吐かないリオが叫ぶ。
一つだけでも結構わさわさしている、たくさんの動物がぶら下がった回転式オルゴール。
長方形のベッドに合わせ、三個ずつ、二列に、天井に設置されている。
「無理むり無理マジで無理だから。お兄さんこれびっしり並べるもんじゃないから」
寛ぎスペースを落ち着かない空間に変えられたリオが、常識のないお兄さんに物申す。
もこもこはリオの筋肉質な、硬い腹の上で仰向けに寝転がったまま、肉球をテチテチと叩き合わせている。
――まさか、気に入ってしまったというのか。
「そのクマは気に入ったようだぞ」
リオの心を読んだかのように、怪しいお兄さんが答える。
――お兄さんはクマちゃんが喜んだことで満足してしまったようだ。美しい目は再び閉じられた。
「えぇ…………」
リオは自身の腹の上で愛らしいもこもこがテチテチと肉球を叩き合わせる振動を感じながら、目を細め、嫌そうな声を出した。
さっそく部屋の中が一部、おかしなことになってしまった。
だが、いま気にしなければならないのは、彼のベッドの真上の赤ちゃん用オルゴールのことではない。
本当に気にしなければならなかったのは、ルーク達がいつ、この部屋に戻るのか、ということだったのだ。
――リオは知らない。
ルーク達が会議を短時間で終わらせ、この部屋へ寄らずに森へと旅立ったということを。
――お留守番はもう、始まっているのだ――。
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