第39話 クマちゃんの別荘

 葉擦れの音と鳥の声しか聞こえない深い森の奥。湖畔の二人と一匹は変わらず静かに釣り糸を垂らしている。


 世捨て人のマスターは原始的な釣具と丸くてかわいいクマちゃんの後頭部を眺めながら考える。

 このもこもこは先程からずっと動いていないが、もしかして、寝ているのではないだろうか。

 もしそうであれば、魚を諦めて連れ帰っても問題ないのでは。


 マスターは立てた膝の上に乗せていた、釣り竿を持っていないほうの手を、スッ、とクマちゃんの鼻先に近づける。 


 指先が薄くて小さな舌に、ぺろり、と舐められたのを感じた。

 起きている。

 残念ながら奴は寝ていなかった。どれだけ状況に変化がなかろうと、暇を持て余した家猫のようなもこもこには時間など関係ないのだ。

 もこもこは可愛らしいつぶらな瞳をぱっちりと開けたまま、ずっと湖面を見続けているようだ。このままだと奴は夜になっても地面に置かれたぬいぐるみのように時を過ごしているだろう。


 暗闇の中でぬいぐるみと湖を見つめ続けるわけにはいかない。

 このような手は使いたくなかったが、丁度隣にクマちゃんの気を引くことが出来るやつが座っている。

 もこもこが釣り竿から目を離す隙を狙おう。 

 

「クライヴ」


 名前を呼び視線で指示をだす。

 立ち上がったマスターはクマちゃんをふわふわの布の上に残し湖に近付く。


 クライヴがクマちゃんの顎下をくすぐっているが、何故かもこもこは頷き、そのまま湖面から目を離さない。

 もこもこが何に納得したのか解らないが、これは失敗だ。

 作戦を変更したクライヴが右手に小さな氷を作り、マスターの立ち位置と反対側に最小の動きでそれを投げる。


 湖面を飛び跳ねる魚のように動く氷の粒と水の音。

 それに反応した密林の釣り師クマちゃんが音が聞こえた方向へ顔を向けた。


 その瞬間を狙いマスターは湖に魔力を放つ。

 衝撃で気絶し浮いた魚をクマちゃんの釣り針に引っ掛け、ほんの少し糸を引く。


「引いてるぞ」


 渋い声の薄汚れた悪い大人が、穢れなき幼い心の持ち主クマちゃんをもてあそぶ。


 視線を自分の釣り竿に戻したクマちゃんは口元をもふっとさせて竿を引く。

 湖面から顔を出した、糸とつながった小さな魚を見たクマちゃんは深く頷いた。

 

「良かったな」


 今自分が引っ掛けたばかりの気絶した小さな魚をクマちゃんの釣り針から外してやりながら汚れた声を掛けるマスター。

 もう一度何かに納得したように頷くクマちゃん。


 己の才能に確信を持った凄腕の釣り師クマちゃんは再び湖に糸を垂らす。


「駄目だ! もう一度は無しだ。そうだ、その魚を焼いたらどうだ? 初めて自分で釣った魚なら焼くだけでも十分美味いんじゃねぇか?」


 策に溺れた汚い大人は永遠に繰り返されるクマちゃん漁から逃れるため、野外での昼食というもこもこが喜びそうな企画を提案した。


◇ 


 汚い大人二人が火を起こす準備をしている間、手が疲れた凄腕の釣り師クマちゃんは肉球をぺろぺろしながら考えていた。


 己の才能にかかれば初めてであっても大物を釣り上げるのは難しくないようだ。

 焼いて食べてしまう前に、ルークにも初めて釣った大物を見せてあげたい。きっと彼はクマちゃんを褒めて優しく撫でてくれるだろう。

 ルークはクマちゃんが密林の巨大魚と戦っていたことは知らないだろうから、何とかして自分がここにいることを彼に知らせなければならない。 

 自宅の模型の中に良さそうなものは無かっただろうか。

 もう何処を探せばいいかわかっているから、すぐに取ってこれるだろう。

 クマちゃんはリュックから目的の物を取り出し、小さな黒い湿った鼻にキュッと力を入れて杖を振った。


 自宅に着いたクマちゃんはおもちゃ箱の中から適当に縦長の物を選び、すぐに汚い大人たちのいる場所へ戻る。

 そして、問題なく広い場所である事を確認し、うむ、と頷いたクマちゃんは、地面に置いたそれにたくさんの魔力を注いだ。


 

 焚き火をするために乾いた木を探していたマスターの背後で、近くに居るだけで体が癒やされるような、大きな魔力が動いた。

 この場で癒やしの力を持つものはあのもこもこだけだ。嫌な予感しかしない。


 足に振動を感じながら急ぎ振り向く。


「クソ……! 目を離すんじゃなかった……!」


 そこには、森に居るものすべてに【自分はここに居ます】と主張するかのような、森の高い木々を優に超える真っ白な見張り台のような物と、すぐそばに大人が数人休めそうな小さめの家が建てられてしまっていた。


 このままだと異常を察知した冒険者達がこの湖を目指し集まって来てしまう。

 その時、焚き火を囲んで小さな魚ひとつだけを焼いている自分達を見てどう思うだろうか。


 魚ちっせー。

 

 絶対に鼻で笑う。皆が集まってくる前に急いでデカい魚を釣る必要がある。それとも数が必要か。

 元冒険者のプライドのせいで心がざわついているマスターに吹雪のような男から声がかかる。


「マスター。これは白いのが?」


 集めていた乾いた木を今できたばかりの家の前に、カラン、と放るクライヴ。

 家はかわいらしい白い壁。屋根とドアは濃いめの木の色だ。所々クマちゃんの顔の形の物がくっついているのだから、建設者はもこもこで間違いないだろう。


「ああ、酒場のと似たようなもんだ」


 マスターはクライヴに返しながら、家の前にいた可愛らしいもこもこを抱きかかえる。

 クマちゃんはいいものが出来たと喜んでいるかのように、黒い小さな湿った鼻をふんふんならし自分を撫でるマスターの手を可愛いもこもこの手で掴んでいる。

 彼は思った。

 そうだ、この白いのは何も悪くない。たとえ皆から焚き火に比べて魚が小さいと馬鹿にされたとしても。

 穢れなき生き物を騙し、小さな魚ひとつしか与えてやれなかった上、幼いこいつから目を離してしまった自分がすべて悪いのだ。

 

 つぶらな瞳で可愛らしく自分を見上げてくる愛おしい存在を撫でながら、悲しげに、ふっ、と笑うマスターだった。



 深い森の奥、湖より大分離れた場所で大型モンスターを倒していたルークは、彼が可愛がっている白いもこもこの魔力を感じ、すぐにそちらへ駆け出した。


「え? リーダー何急に」


「今微かにクマちゃんの魔力を感じたような気がしたのだけれど。それよりも早く追ったほうがいいのではない?」


 側で戦っていた二人もルークを追い走り出す。

 早すぎて追いつくのは無理だろうが、彼ほどの大きな魔力を見失うことはない。ルークが足を止めれば合流出来るだろう。 



「リーダーマジではえー。この先って湖じゃね?」


「そうだね。あまり大きくは無いけれど、とても美しくて静かな湖があるよ」


 木漏れ日だけが光源の、光の粒が照らす道なき道で二人は樹々を避け、駆ける。

 子供の頃から森と共に過ごす冒険者達は、空が見えない程背の高い樹に囲まれた場所であってもある程度水場や遺跡の位置を覚えている。

 この付近の湖は美しい場所を好むウィルには馴染みのある場所だった。


 ルークよりかなり遅れて二人は美しいと評判の湖に到着した。



 静謐で美しい湖だったはずの場所。そこではたくさんの男達がうつむき、水辺を囲い釣りをしていた。


「美しい湖終了してんだけど」

 

 到着早々失礼なことを言うリオ。


「あいつら魂抜かれてんじゃね?」


 更に失礼な事しか言わないリオを置いて、ウィルはお気に入りの美しい湖を終了させたマスターとルーク達のいる白い家へ向かった。



 白い家の前で焚き火を囲い魚を焼いていたのはマスターとクライヴ、可愛らしいクマちゃんを抱っこしているルークだった。

 ルークは焼けた魚を高度な風魔法で適温に冷まし、細い枝で器用に身をほぐしてから、それを長い指でつまみクマちゃんのもこもこの口に入れてやっていた。

 

「マスター。何故皆釣りをしているの?」


 冒険者が皆で同じことをしているのならば、指示を出しているのはマスターである。

 犯人を特定したウィルは美しくなくなってしまった場所を憂い、彼に尋ねた。


「来たか。お前らより奥には誰も行ってねぇだろ。今日、森の異常に関係するかもしれない情報を得た。今ここに集まっている奴らに先に伝える。残りの奴らには、帰ってから会議でもう一度話す」


 マスターは終了した湖に関する質問をスッとかわし、忘れかけていた重要な出来事を皆に伝えることにした。



 皆が重要な話をしているなか、クマちゃんはルークに優しくお世話され、汚れた口の周りを魔力で出した綺麗なお水で洗ってもらったり、新しいふわふわの布で拭いてもらったりしながら考えていた。

 近くで「えぇ……安い布でいいじゃんそれくらい」と何か美しくない言葉が聞こえた気がするが気の所為だろう。

 

 今回の冒険では無事におつまみ用の魚をたくさん入手することができた。

 もし足りなくなってしまっても、先程ここに建てたクマちゃんの別荘に来て、凄腕の釣り師である自分が釣り竿を握れば、一瞬で沢山の魚が手に入るだろう。


 美味しいものを食べた時の猫のように口をもふっとさせ肉球をぺろぺろしているクマちゃんの手は、再びルークの出した綺麗な水で洗われふわふわに乾かされた。

 考え事に夢中で気付かないクマちゃんは、今度は焚き火と釣りで汚れた体を湿らせた布で拭かれている。「湿って細くなってるクマちゃんウケる」

 湿ったクマちゃんの細くなった体を見て笑う不届き者がルークにコツンとされていたが、考え事に夢中なもこもこはやはり気付いていなかった。



「あー。そうだな。折角白いのがクソでかい森を見渡せるもんを建ててくれたからな。交代で登ってみるか」


 重要な話を聞かされた冒険者達がそれぞれ思い当たることを話合うなか、マスターはクマちゃんが建てた別荘の横にそびえ立つ見張り台へ皆を誘う。

 建設者であるクマちゃんもルークに抱っこで運んでもらい、顎下や頭を撫でられながら見張り台へ登ることになった。



 ルークとお出かけ出来たことが嬉しくてしょうがないクマちゃんは、ふんふんと湿った鼻をならし彼の手をしっとりさせている。

 相変わらず森の異常よりもルークとおつまみの方が重要なクマちゃんだった。

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