第37話 マスターとクマちゃんの冒険

 宣伝を終えさらに注目度が高くなったクマちゃんは現在、ルークに抱えられ格好良く舞台を去っている最中である。

 うむ。皆がクマちゃんのお店の噂話をしている。


『あの瓶に入っているのはまさか、……森の街、いや世界中の生き物の大好物……ぎゅ――』


『えぇ。間違いありません。甘い匂いが瓶を突き破っていますね』


『早く飲みたいです。発売日はいつでしょうか?』


 きっとこんな感じだろう。 



 まだ人々の困惑の声が残る酒場から、立入禁止区画へ移動する三人と一匹。


「クマちゃんがパクった台車から出てる声ってうるせーパン屋のおっちゃんの声じゃね?」


 リオはもこもこが編集した音声が気になり、尋ねるついでに『クマちゃんがパク――』とクマちゃんを窃盗犯扱いした。


 クマちゃんは一匹だけで台車をパクったわけではない。

 だが共犯者の存在を知らない彼は決めつけていた。

 もこもこの単独犯だろうと。


 彼の言う〝うるせーパン屋〟とは、商店街のあのパン屋のことだ。

 あのパン屋は毎日向かいのパン屋と大きな声で揉めている。


 森の街の素直な住民たちは思った。

『うるせーパン屋だな』と。


 そして揉めパン屋は〝うるせーパン屋〟と呼ばれるようになった。

 リオが急に暴言を吐いたわけではない。


 因みに、少しお上品に『うるさいパン屋』と呼ぶ人たちもいる。

 揉めパン屋の怒りを粉塵爆発させている向かいのパン屋はそのまま〝向かいのパン屋〟だ。


「皆がうるさいパン屋と呼んでいるお店の主人だね。言われてみると確かに、そうだったような気もするね」


 美しく派手な鳥のようなウィルはうるさい店には興味がないらしく、返事が曖昧だ。

 売っているのも彼が全身にまとっている装飾品ではなく、パン。


「貰ったんだろ」


『クマちゃんがパクった』の部分に反応したルークはいつものように低く色気のある声で、もこもこの無罪を主張した。

 彼の大事なもこもこは常に無罪である。


 共犯のギルド職員が忖度し、もこもこに渡しただけなので貰ったと言えなくもない。


「えぇ……」廊下にかすれ気味の声が、静かに響いた。



 立入禁止区画の奥、マスターの部屋。

 三人に置いていかれたクマちゃんは現在、扉をカリカリしている。


 ――カリカリカリカリカリカリ、カリカリ……カリカリカリカリ――。


 としつこいもこもこ。


 クマちゃんは粘り強いカリカリで、無駄に色気のある声の無表情な男を追いかけようと頑張っていた。


 ルークがもこもこを〈甘くておいしい牛乳・改〉のように甘やかすため、甘えん坊の子猫のようなクマちゃんはどんどん彼から離れられなくなっていく。


 クマちゃんは他の人間からも十分に甘やかされている。

 だがやはり飼い主ルークの底なし沼のような甘やかし方とは次元が違う。


 もこもこに話し掛けることが多いわけでもなく行動がとにかくひたすら甘い彼は、甘ったれなクマちゃんには毒のようなものだった。


「なんだ、また寂しくなったのか」


 マスターの渋く優しい声が響く。


 扉をカリカリするもこもこをフワリと抱き上げた彼は、顎下をくすぐり機嫌を取ろうとした。

 仕事机へ戻り、背凭れのある椅子に腰掛け、いつものようにクマちゃんを膝に乗せる。

 マスターはもこもこの頭を撫でながら、ふたたび書類に目を通し始めた。



 机の上の紙を見たクマちゃんはハッと思い出した。


 こんな事をしている場合ではない。

 大人気店の店長は忙しいのだ。


 お店のオープンとおつまみをどうするか、マスターと話し合わなければ。


 クマちゃんが早速ピンク色の肉球が付いたもこもこのお手々でペンを持つと、


「白いの、紙について大事な話がある」


マスターが真剣だが苦悩を滲ませた声で告げた。


「総務の、とお前に言ってもわからねぇか……。そうだな、このギルドには急に紙がたくさん減ると怒りたくなる人間が居る」


 難しい顔をしたマスターは、黒いつぶらな瞳でとても可愛らしく彼を見上げているクマちゃんに、つらい出来事があったかのように語り――総務の人間に濡れ衣を着せた。


「あ~……だからな……」ためらうマスターの精神力を削る、純粋な視線。


「本当は、こんなことは言いたくねぇが……今日から、一度の話し合いで使っていい紙は……二十枚だ」


 本当のことを言ってしまったマスターが苦し気に下を向く。


 告げられた内容を理解したクマちゃんはピンク色の肉球が付いたもこもこの両手を、サッ、ともふもふの口に当て、悲しそうに彼を見つめた。


「すまない……。お前のせいじゃない。俺の力不足だ」


 書類に埋もれた机。

 その上で、苦痛に耐えるかのように握りしめられたマスターの手に、そ――と猫のようなお手々がのせられる。


 拳を肉球でフニ、とされたマスターはその先へ視線をやった。


 そこには何もかも解っているというように、うむ――と頷くクマちゃんがいた。



 彼が辛そうに話してくれた『二十枚――』は、クマちゃんにとっても非常に悲しいお知らせだった。


 今後クマちゃんが紙に書いて誰かに要件を伝える時は、短く、そして今までよりも内容を吟味しなければならない。

 難しいが、不可能ではないだろう。


 クマちゃんは、うむ、と頷きしっかりとペンを握り直した。

 

 並べられた紙に一文字目を書いていく。「おい、おまえ俺の話をちゃんと聞いてたか? なんでまた四枚なんだ。絶対足りなくなるだろ」書き損じは許されない。

 緊張から手が震える。


 いつもより丁寧に、ゆっくりと間違わないよう細心の注意を払い続きを書く。「……もういい。お前の好きにしろ。最初は、お……でいいのか?」

 クマちゃんは最後の文字を書き終え、慎重にペンを置いた。


「おつまみは? ……おつまみって酒のツマミのことか? なんでお前が酒のツマミの話をするんだ」


 マスターは酒の話をしているが、飲み物であれば牛乳でも同じだろう。

 うむ、とクマちゃんが頷く。


 マスターは片方の目を顰め、顎髭をさわった。


「あいつら酒なんて飲んでたか? ……ここのツマミは香辛料がキツくてお前には合わねぇだろ。ルークも、刺激の強いもんはお前の口に入れないようにしてるだろうからな。……そういえば、たしか魚のツマミで――」


 彼の話をしっかりと聞いたクマちゃんは分かった。

 どうやら刺激のあるおつまみは〝クマちゃんは食べちゃ駄目〟で〝魚ならいい〟らしい。


 クマちゃんは魚がいる場所を知らない。

 水があるところならいいのだろうか。

 そういえば前に自宅の周りに泉のような場所があった気がする。


 たしかマスターは、一人で森へ行かないようにと言っていた。

 でもクマちゃんはちゃんとわかっている。

 クマちゃんは一人ではない。


 マスターと一緒である。

 

 お家が無くなったままなら行けないかもしれない。

 よく分からないことはとにかくやってみるしか無いだろう。


「ん? ……杖か? どうしたんだ急に」


 リュックから杖を出したクマちゃんはマスターの白いシャツをもこもこの手で握り、小さな黒い湿った鼻にキュッと力を入れて杖を振った。



「おい! いきなり移動したら危ねぇだろ!」


 急に仕事場からクマちゃんの自宅に連れてこられたマスターは驚いて文句を言った。


 その手は何が起きても良いように魔力が集められ、腕の中の大事な者を護るようにしっかりともこもこを抱えている。


 感覚を研ぎ澄まし、周囲に危険がないことを悟る。

 少し力を抜いた彼は、視線だけで家の中を見回した。


 もこもこの自宅だとわかる位には狭い。


 だがそんなことよりも『誰か……誰か気にしてください……』と言わんばかりの〝あれ〟が気になる。


 ――鏡が光っている――。


「おい、あれは何で光ってるんだ?」


 神秘的な光だ。

 マスターは家主であろうもこもこに尋ねた。

『何か知っているか?』視線を向ける。


 腕の中のクマちゃんはポトリと床へ飛び降り、ヨチヨチと一生懸命走って(いるのかもしれない動きで)部屋の隅へ逃げてしまった。


 逃走したクマちゃんは、まるで怖がる猫のように壁を向いたまま丸くなった。

 完全にお断りのポーズである。


 マスターは『クマちゃんの家天井低い罠』に気を付けつつ『クマちゃんは不在です』の格好をしたもこもこに近付き、出来るだけ優しい声を掛けた。

 

「どうした。大丈夫か?」


 クマちゃんはフワフワのまんまる尻尾と背中のリュックを彼に向け、丸くなっている。

 両手の肉球でお目目を隠しているようだ。


 きっと光る鏡が怖いのだろう。


「何かあったら俺が護ってやるから心配するな」


 マスターは鏡に怯える可哀相なクマちゃんを、いつものように抱き上げた。

 つぶらな黒い瞳に鏡が映らぬよう、自身の胸に顔を伏せさせもこもこの頭を撫でる。


 彼はクマちゃんが落ち着くようにふわり、ふわりと手を動かし、視線を鏡へ移した。  


 ――どういう原理なのか。


 鏡はこちらに語りかけるように、弱々しく光る美しい文字を描き出した。


 魔道具ではないただの鏡に、一体誰が力を送っているのか。

 遠隔でそんな事を出来る人間はいない。

 神聖な力を感じる不思議な光を、彼はじっと見つめた。


 見逃してしまわないよう瞬きさえせず文字を追う。


 〝森、探して、――、少女、――、遺跡〟


 重要なことなのだろう。

 光は繰り返し、同じ文字を綴っている。


 鏡に一瞬だけ残される、あまりに弱々しい文字。


 彼は目を凝らした。

 ――弱すぎるものは判別が出来ない。

 もどかしさが募る。


 マスターは顔を顰め、更なる情報を得ようとした。


 だが元々弱々しかった文字は次第に光を弱め、数秒後には完全に認識できなくなってしまった。

 

「森、少女、遺跡、探すのは遺跡か? それとも少女か? この森にある遺跡に子供が居るとは思えんが……」


 眉間に皺を寄せる。


 マスターの胸元に顔を伏せていたクマちゃんが、何かに反応するように顔を上げた。



 クマちゃんは、重要なことを思い出した。


〝クマちゃんのお部屋でクマちゃんの許可なく勝手に光る鏡〟のせいで(どこで見たのか分からない)ちょっとだけ怖い映像が頭をよぎり、ほんの少しだけ怖がってしまったが、いまはそれどころではないのだ。



 クマちゃんはおつまみを探しに来たのだった。



 マスターはいつものように可愛らしい瞳を見せてくれたクマちゃんに


「ん? もう怖いのはいいのか?」


少しだけ笑い、優しい声でからかうように声を掛けた。



 クマちゃんはうむ、と頷いた。

 ふたたび彼の腕からポトリ――と落ちたもこもこが、ヨチヨチとドアへ向かう。


「外に出るのか?」


 マスターは床に投げ出されていた白い杖を拾い、ヨチヨチしているクマちゃんを抱き上げた。


 人間には少し小さいドアを開け、もこもこを抱えたまま外へ出る。


 彼はドアをくぐりながら考えていた。

 どうやら自分は森の異変に関係するかもしれない情報を、うっかり手に入れてしまったらしい。



 人手不足をクマの赤ちゃんで補おうとして大変なことになっているマスター。


 彼は気付いていない。

 抱っこが必要な新人アルバイターは『マスターと一緒に森でおつまみを探す』という素晴らしい計画を立ててしまったのだ。


 事態は深刻である。

 クマの赤ちゃんも責任者も冒険に出ている。

 

 酒場の人手、マイナス一・二。



 早くギルドに帰って会議を開いたほうがいい。

 絶対に。


 己の心が叫び『そうだな……』と相槌を打つ。


 マスターが不在であっても、大雑把なギルド職員達は彼の机に書類を積んでいく。

 いつも忙しい彼のいつもよりさらに忙しい一日は、まだ始まったばかりである。

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