春にさよなら

もりくぼの小隊

春にさよなら 一


 昭和四十七年──六月。


 ひとりの青年がオートバイを飛ばしてゆく。一瞬で過ぎ去っていく通行人らの会話がヘルメット越しでも鋭敏な耳に飛び込んでくる。どうやら巨人の王貞治が広島球場で十三号本塁打を放ち、プロ通算五百本塁打を達成したらしい。歳を重ねてもヒーロー野球選手の活躍には少年のようにはしゃぐ心、熱の帯びた声があがってしまうようだ。青年は特に野球に興味があるわけではなかったが、ついと会話内容を記憶してしまった。今の日本の平和な日常会話がそこにはある。青年は一瞬だけの平和を耳に馴染ませるとオートバイを真っ直ぐと飛ばし、郊外を目指した。



 某所郊外──旧児童養護施設。



 青年がオートバイを走らせた先は廃墟と化した児童養護施設であった。数年前に閉鎖され立ち入り禁止となっているが浮浪者や悪ふざけが過ぎた遊びに興じる若者達の溜まり場となっている事が問題になっていたそうだ。だがそれも、数カ月前からパタリと止まり、青年のオートバイが現れなければ、ただ静寂の支配する空間である。


 青年は静寂を戻すかのようにオートバイの、大気を振動させるエンジンを停止させ、モスグリーンのライダーグローブに包まれた両手で火山硫黄でくすんだような色合いの黒いヘルメットを脱いだ。

 彼は襟足の少し伸びた癖毛な髪を無意識に整えた。

(変わってしまったな、ここも……)

 この児童養護施設は青年にとっては因縁という楔が刻まれた施設だ。幼き頃の世界はこの養護施設だけと言っても過言ではなかった。青年はオートバイを降りると立ち入り禁止のふだの垂れ下がったトラロープを跨り、旧養護施設へと脚を踏み入れた。



 旧養護施設の中、建物だけは青年の思い出とは違わぬものであるが、破壊の傷が深いこの荒れ果てな現在の姿は、幼き少年だった頃の世界ではない。そこに存在するのはもはや別世界、苦しくもあったが、甘さを噛みしめる日々が無かった訳では無い、だがそれも、彼の記憶奥底に深く落ちた記憶の世界なのだ。

(……)

 青年は静かに目を閉じた。瞼の裏に映るのは子ども達のはしゃぎ遊ぶ姿が見える在りし日の児童養護施設旧世界。たたずむ自分自身も今はひとりの子どもに戻っている。


 子どもとなった青年の足は、ゆっくりと前へと歩み出す。向かう先にいたのは、少し大人びた表情でこちらに笑いかける少年の元だ。

『どうしたんだナツ?』

 大人びた少年がすぐに気づいて声を掛けるが、青年は言葉を発せられない。これは、彼の記憶から再現された記憶世界の出来事であるからだ。青年はこの時に発した自分の言葉をまるで覚えてはいない。再現は不可能だ。

『そうだったね。それなら、あそこに行こうか?』

 大人びた少年が小さな青年の掌をしっかりと握ると奥の中庭へと手を引いて歩いてゆく。


 中庭には花弁はなびらが舞い散る大きな一本の大きな桜の木が高くそびえていた。

 大人びた少年は桜の木の裏側に近づくと桜を撫でる。そこには桜の木を削り抉った傷痕アトがある。

『ナツ、僕達は去年よりどれだけ背が大きくなったんだろうね?』

 少年はポケットから彫刻刀を取り出すと桜の木に背をつけて立たせた青年ナツの頭の上に深く線を刻み、少年自身の頭の上にも探り手で線を刻んだ。

『はは、まだまだ僕の方が大きいみたいだ』

 得意気に笑う少年に自分が何を言ったのかは覚えていた「ハルにいは先に生まれたんだから大きいのは当たり前じゃないか」と言って涙目に悔しがったのだ。

 それに対して彼はこんな事を言っていた。

『今は僕が高くても、大人になる頃にはわからないよ。ナツは僕よりもすっごく大きなやつになってるかも知れない。この背高な桜の木みたいにさ』

 高く花弁を散らす桜の木を見上げるハルにつられて、ナツは、桜の木に両手をパチパチと当てながら顔を上げて、散り始めた桜の花弁が舞う美しさに目を輝かせていた。




「……ふぅ」

 目を開けると、花ひとつと咲いていない枯れた桜の木を見あげていた。この桜はとうに寿命を終えた。月日が経とうとも花も葉も付くことはない枯れ老木へと変わり果てていた。想い出とは違う、美しく舞う花弁もない、この旧養護施設と同じ、役目を終えた、終焉の桜なのだ。

「……」

 だが、そんな枯れ桜にも変わらぬものがひとつあった。

 彫刻刀で刻み込まれた背比べのキズ痕だ。

 モスグリーン色のライダーグローブ越しに優しく手を着き、ナツの身長を現す刻みが彫られた箇所を小さく撫でた。もう片方の手は今の自分の胸に当てるこの位置でキズ痕は止まっている。キズ痕から流し見たその隣に刻み込まれた背比べのキズ痕は少しだけ高い位置にあった、そこだけ、何度も何度も、刻み込まれたキズが深くなっているがあった。


 ──やあ、来たんだねナツ


 突然と記憶の中で聞き知っている中性的な少年の声が耳を撫でるように聞こえてくる。自分へと向ける親しみな声に、ナツは見つめる桜の先へと顔を向けた。


「久しぶり、なんじゃないか?」


 枯れ桜の先にいたのは、あの頃とまるで変わらぬ大人びた表情をする。幼き記憶と寸分違わぬ少年ハルの柔らかな笑みであった。


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