冥風ーBeginning of THE ENDー

せてぃ

序章 はじまりの夜

第1話 エレナ・メイディメス

 静かな夜だった。空に雲はなく、無数の星が降り注ぐように近い。

 彼と最後に別れたのも、こんな夜だったと、エレナ・メイディメスは空を見上げて思い出していた。綺麗な夜。穏やかな夜。彼は誰よりもエレナのことを案じ、案じた故に同じものを背負わせてはくれなかった。どんなに願っても、望んでも、隣に並び立つことは出来なかった。


『配置に付きました』


 エレナは目を閉じ、見上げていた美しい夜空から視線を外すと、過去へと通じていた記憶も一緒に途絶えた。次に目を開いた時、美しいものをただ美しいと感じることが出来ていた頃の彼女は消え去り、鋭い眼光が宿る『いま』のエレナが姿を現した。

 動きやすいようにひとつに結んだ肩までの髪は、瑠璃ラピスラズリを思わせる深い青。それと同じ色の瞳が、鼻筋の通った端正な顔立ちの中で強く輝く。その光はあまりに強すぎて、彼女本来の、『王国』貴族出身者の華やかさや優雅さとは真逆の、凄惨とも残虐とも形容できる印象を放つ。身に付けている踝までを覆う黒い革の外套コートが、その暗い印象に拍車をかけた。


『指示を。メイディメス管理官』


 聞こえる声に、エレナは耳朶に手を当てた。    

エレナの白い肌に華やかさを添える金環の耳飾りイヤリングから、声は聞こえていた。

 声に促されて、エレナは自身の正面に目をやる。

 いま、エレナが立っているのは小高い丘の上で、地続きに伸びる先、エレナからは見下ろす形ではあった。夜の闇の向こう。あばら家の影がうっすらと見える。かつては人が暮らしたであろうそれは、いまは見る影もなく、壁も屋根も穴が穿たれ、人が存在する気配はない。

 だが、『目標』は間違いなくここにいる。


「突入」


 エレナはすぐ目の前に話す相手がいるのと同じ声の大きさで命を下した。

 エレナの声は耳飾りを通してあばら家を三方向から取り囲む十人の部下たちに伝わる。万能なる力と言われ、神話の昔からルクセンダル王国の繁栄を支え続けている『魔法』の力の一端である。そして、その力を行使できるエレナは『魔道士』と呼ばれる魔法に明るい人間であり、王国に十六存在する騎士団の騎士のひとりでもあった。いま、耳に装着している耳飾り型の道具は、離れた人との会話を可能にする。相手にもエレナと同等か、それ以上の魔法の知識が必要になるが、その点は問題なかった。エレナの部下は皆優秀であった。優秀であるから、この任務に選ばれたのだ。

 その部下たちが、エレナの声を受けて行動を開始する。三方向から同時にあばら家に突入し、『目標』の身柄を確保する。


『管理官、接続コネクトされますか』


 部下のひとり、突入の実働部隊を指揮する立場にある男の声が耳飾り越しにそう言う。エレナは短く同意を告げると、


接続コネクト


 耳飾りにその機能を発動させる鍵になる言葉を聞かせた。

 次の瞬間、エレナは眼下に見ていたはずのあばら家の前にいた。自身のすぐ前には三人の部下がいる。いずれも夜の闇に溶け込む黒装束姿で、顔まで黒い布で覆っている。瞳だけが僅かな星明かりを反射して、不気味に輝いていた。


『相手は冥風ナイトウインドだということを忘れるな』


 エレナがそう言うと、三人の部下が揃ってこちらに視線を向けた。自分のすぐ背後にいる部隊長に、エレナの視覚が『接続』され、遠隔ながらも現地の様子を目の当たりにしているのだと悟ったのだ。

 優秀な三人の部下と、自身の視覚を接続した部隊長があばら家に接近する。四人は躊躇なく建物に空いた隙間から中へと忍び込んでいく。

 他に二地点でも同じように突入を開始しているはずだった。まだどこからも応答がないということは、『目標』の確認に至らないのか。


『東側、異常なしクリア

『西側、……』


 二つの別動隊から報告が続いたが、二つ目の報告が不自然に途切れた。建物西側から突入した部下が、何かを見つけたのか。

 エレナが確認する言葉を耳飾りに吹き込もうとした瞬間、静謐な夜を引き裂くような悲鳴があばら家の中に木霊した。

 ひとつの悲鳴がふたつになり、瞬く間に三つの声が上がった。接続した部隊長を含めた四人が、すぐにあばら家の狭い廊下を駆け、声のした部屋へと向かう。エレナはそれを自身の目で見るのと同じように見ていた。

 手信号でやり取りをする三人の部下たちは、声が聞こえた部屋の前で廊下の壁に身を預けた。中の様子を、まずは音だけで探ろうとしていた。

 しかし、悲鳴が止んだ部屋からは何も聞こえない。部下たちも首を横に振る。

 と、次の瞬間だった。ひとりの部下が何かに気付いたように天井を見た。その姿が部隊長の視覚を通してエレナにも見えた。


『伏せろ!』


 エレナは思わず叫んだ。次に何が起こるかを、『目標』のことをよく知るエレナは予想することが出来た。

 ふわっと何かが覆い被さる様に落ちてくる影が見えた。次の瞬間、部隊長のすぐ隣に立っていた部下の腕が宙に舞うのを見た。闇の中で黒く帯を引いたのは血液か。

 部隊長の視覚が激しく動く。自分の視野認識とは大きく異なる動きに、エレナは酔いに似た感覚を抱いたが、それも一瞬のことだった。

 部隊長を任せた部下の視界で、何かが素早く動き、部隊長はそれを迎撃しようと手にしていた短剣ダガーを繰り出した。しかし、そうして伸ばした腕の内側に、影が素早く纏わり付き、部隊長の悲鳴が上がった。

 腕の腱を断ち切られたのだ、とエレナには分かったが、果たして本人がそれを理解する時間があったかどうか。激痛に見舞われたであろう腕を咄嗟に押えたところで、今度は首筋に闇が伸び、そこで映像が途絶えた。『接続』の魔法効果が強制的に解除されたのだ。

 エレナは突然、本来の自分が見ている光景の中にいた。眼下に見えるあばら家は、先ほどまで目にしていたまま、静謐を保っている。だが、中は惨劇の舞台となっているはずだった。


「やはり『冥風』だな、エレナくん」

「どうするね、エレナくん」


 視覚と音声のみの『接続』であったため、エレナには何ら痛手はなかった。『接続』の魔法は触覚や痛覚も繋がることができるため、いまのようなことが起こる恐れのある現場では、指揮官の『接続』は視覚と音声のみに限られている。

 エレナの背後に立ち、ゆったりとした、しかし隠そうともしない尊大な空気を纏った口調でエレナに声をかけた二人の白髪の老人も、エレナと同じく突入部隊に『接続』していたのだろう。エレナ以上の権力者である二人もまた、視覚と音声のみに『接続』であったはずだ。

 自身の直接の配下でないにしても、自身の手の者が殺害されている状況を目の当たりにしながら、手にした道具が壊れた程度の感情しか動く気配のない老人たちに、エレナは一瞬、むらと自身の感情が沸き立つのを自覚した。しかし、ここでその感情のままに動くことはできなかった。


「捕らえます。わたしが」


 それだけ言い残すと、エレナは駆け出した。纏った黒い外套が翻り、中に身に付けた軽鎧の銀の胸当てが露になる。エレナが属するルクセンダル王国騎士団のひとつ、西風騎士団の紋章が、薄闇の中でもはっきり刻み付けられているのが見て取れた。そしてその紋章の横に、別の紋章が刻まれていて、それを消して直すように削られた後があることも見えた。

 駆けながら、エレナはその紋章に手を添えた。

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