88、冬の終わり、そして巡り来る春に【最終話】



 ビードロの尻を通り抜けると薄いガラスは流れ落ちるようにして消え、水のにおいがすっと脳に染み渡った。今日は四方を浩々たる水に囲まれている。

 金色の橋を二人で行くのは昨日と同じ。だが意図せず歩みはのろくなる。


 欄干に小鳥が二羽止まり、急かすようにチュンチュン鳴いた。


「スズメですね」

「スズメだな」

「おれは雀始巣すずめはじめてすくうとして認められたってことかな」

「さて、どうだろうな」

「そこは肯定してくださいよー」


 玄鳥至つばめきたるは静かに微笑わらった。


「昨夜の宴でお前を認めていない者などいないとわかったんだから、いいだろう」

「いやー、どうかな。何人かには、これからの頑張り次第だって言われちゃったしなあ」


 昨夜、新年の宴でしか足を踏み入れることを許されない十二支の宮で、雀を見送る会が催された。そこに夏と秋の姿はなかったが、他は皆そろい、新年以上のどんちゃん騒ぎとなった。

 雀はそこで一人一人に礼を言って回った。最後に神妙な面持ちで玄鳥至の前にやってきて頭を下げようとしたので、玄鳥至はそれを止めた。


「やめておこう。まるで今生の別れみたいだ」


 雀は瞳をキラキラさせて小さく首肯した。互いに礼を言うのは雀が真に暦となった時だ。


 直線に伸びた橋は、今日は進めば進むだけ景色も共に流れている。空は青く、水も青く、綿菓子をちぎったような雲が上にも下にも浮いている。橋は永遠のようでいて終わりが近い。四季の庵がもう肉眼で確認できる。――ふと、ここで玄鳥至はある大事なことを失念していたことに気がついた。


「お前、人生を終えて暦になるとして、そうするとその、三途の川を渡れなくなるわけだが……」


 暦になれば通常の輪廻転生からは外される。人として死後の世界には行けなくなる。誰かそのことを雀に教えただろうか――玄鳥至の心配は杞憂に終わった。


「ああ、蒙霧ふかきさんに聞きました。死んだ後に大事な人たちと会えなくなるぞって。あの人ほんとうに意地悪だけど、親切ですよね。本人にその気はないんだろうけど。ちょっと抜けてて憎めないんだよなあ」


 雀はあっけらかんとしてケラケラ笑った。


「すまん、すっかり失念していたんだ」

「いいんです、いいんです。つばきさんが忙しかったことはおれがいちばんよく知っていますから。それにね、死後の世界ってやつも、まあ……いいんです。ちょっと寂しいけど、それはしょうがない。欲しいもの全部手に入ったら、おれ、きっと傲っちゃうから」


 雀は傲らないだろう。自分を納得させるためにそう言っている。その覚悟に玄鳥至は自然と頭が下がる。必ず雀始巣の席を守らなければ。


 雀は両腕を前に伸ばして指を組み、うーんと伸びをした。良い日和だ。


「戻ったら何から勉強しようかな。やりたいことがたくさんあるんです」

「そうだな。まずは義務教育をやり遂げるんだな」

「おれ、英語が苦手なんですよ。でも今後必要なのは英語だろうなあ」

「身ひとつで海外に出るというのも悪くないかもしれないぞ。何もわからない状態で知らない所にほっぽり出されるのは経験済みだしな」

「簡単に言いますけどね、ここと外国とじゃわけが違いますよ。海外は大学生になってからかなあ。それまでに家族を説得しないと。……それがいちばん難しいな」


 雀は笑い、それからかすかにため息を吐いた。


「……ほんとうは、おれ、『じいちゃんのためにも人に戻る』とか言えたらよかったんだけど。でも……じいちゃんのためと言えば聞こえはいいけど、いつか限界が来ると思うんです。だからおれは正直な気持ちを優先します。おれの道とじいちゃんの道、くっついたり離れたりしながら、お互い一人の人間として生きていくのが、おれにとっての自然な生き方なんじゃないか――って思うから」



 ――ああ、巣立った。



「あ、そうだ」


 雀は急に思いついて懐から何かを取り出した。


「つばきさん、これ、差し上げます」


 玄鳥至の手を取り押しつける。――血を吐いたイタチ、もとい、スバメ。


「雀、知っているか」

「はい?」

「〈燕雀えんじゃく〉という言葉がある。度量が小さいという意味だ。……あいつめ、いやがらせにも程がある。最後の最後まで嫌味を言いやがって」

「それはそれは……、なんだかおれの前任者がすみません」


 悪びれもせずこちらを見返す大きな瞳は、前任の雀始巣とは似ても似つかない。前任は他人の目を見るのが苦手で、いつも相手の胸もとに視線を落としていた。


 ――春分さまがこいつを雀始巣の生まれ変わりやもと思ったことが今では可笑しいな。


 雀は雀でしかなく、他の何者にもなり得ない。だがこうしてスバメを渡されてみると、消えた前任がこの世界にとけ込んだというのも、あながち嘘ではないのだろう。

 玄鳥至はちっともかわいくないそれを片手でぽんぽんお手玉にして、無造作に懐に突っ込んだ。




 四季は庵の濡れ縁に並んで待ち構えていた。

 春は桃色の頬でのほほんと笑み、くすんだ髪色の夏はまだちょっぴりふてくされ、秋は通常どおり気難しい老君で、冬は相変わらず何を考えているのかさっぱり読めない無表情だ。


「明日から始まる春は、あなたに喜びと幸福を与えるでしょう」


 と、祝福を贈るのは春である。


「今年の夏は猛暑になるかもしれないよ。気をつけなさい」


 夏はやっぱりぶすくれている。


「季節の変わり目は体調を崩しやすいものだ。心身を大事にしなさい」


 秋は気持ち目もとを和らげた。


「冬を満喫するように」


 冬はそのひと言にすべてを込めた。


 雀は姿勢を正し、深く、深く頭を下げた。


「ここでもらった物はあちらに持っていけないけれど、この一年の思い出を全部残さず持って行きます。おれの荷物はそれだけです。絶対に忘れません。絶対に」


 夏がふんと鼻で笑った。


「どうだか。君の気持ちひとつで決められるものじゃないからね」

「夏さま、俺たちの記憶を残す件、神々から色よい返事はいただけたのですか」


 玄鳥至が問うと、夏はさらに笑みを歪めた。


「さあてね。神々がどういうご判断を下されたのか、それは後のお楽しみというやつさ」

「夏さま、おれ、人生を楽しんできます」


 雀がいたずらっぽくえくぼを見せた。夏は目をぱちくりさせると、頭一振りで髪を輝く虹色に染め上げた。


「いいね、それはいい。ぜひそうしたまえ」

「時間ですよ」


 春が促した。


「つばきは声をかけてやらないのですか」


 雀が玄鳥至を見上げ、玄鳥至も見返した。


「はい。もう何も伝えることはありません」



 雀だけを橋の上に残し、玄鳥至は四季の庵に降り立った。雀は所在なさげに指示を待っている。真の肉体ではないのだから気のせいだろうが、前より手足が伸びたように思う。


 春がひらひらと片手を振った。


「それでは、ごきげんよう。いつの日かまた会いましょう」


 卒然と、橋がなくなった。――ほんとうに、いきなり消えた。


「えっ……、え? あっ……!」


 足場がなくなり、雀は池へと落下した。ざぶんと派手な水飛沫が上がる。

 玄鳥至はそれを見て、


「春さま」

「なあに?」

「あいつは水が苦手なのです」


 春はにっこりして言った。


「でも、あの子はもう歩き方を知っているでしょう?」


 今や池は透き通ったはちみつ色に光り輝き、雀はもがくことなく下に向かって懸命に足を動かしている。

 雀は振り返らない。水面が激しく波打っている。雀の背中が飲み込まれていく――去って行く。


 ――待て。伝えることは何もない? あるだろうが! 格好つけるな!


 玄鳥至はすばやく懐に手を差し込んだ。


「雀!」


 雀は待っていたかのようにぱっと振り向いた。

 玄鳥至は手の内に握り込んだ物を大きく振りかぶってぶん投げた。それは高速ストレートで相手のおでこにヒットした。


 玄鳥至は濡れ縁にへばりついて遮二無二叫んだ。


「頼みがある! どうか伝えてほしい――」


 気配はどんどん薄くなる。めいっぱい声を張る。


「俺たちにはできないことだ。一人でも多く、知らない人に伝えてくれ。俺たちはそこにいる。公園の草むらや、用水路や、コンクリートの土の中にだっている。頬に触れる風のにおい、熱い日の光、生命の音、一人きりの夜の静寂。そして――そして人々の心の中にも。どこに行っても、どんな時も共にある。伝えてくれ、お前にしかできない。俺たちのことを伝えてくれ――」


 波紋が消える。池から色が抜けていく。



「そしていつの日か、お前が人の命を終えた暁には――」



 もう姿の見えぬ相手に――想いよ、届け。



「俺たちはここで待っている。――雀始巣」



 目の前にあるのは透明な池だ。錦鯉が尾を揺らして通り過ぎていく。

 そのままじっと水面を見つめていたが、いつの間にか金色の橋が現れて、四季が一人また一人と渡っていった。やがて玄鳥至も体を起こし、橋を渡った。



 もうすぐ渡りに移るツバメの様子を見守らなければ。












 今年は桜の開花が遅かった。


 寝癖をそのままに、少年がだらだらと高校までの距離を縮めていると、頭上を黒い影が掠めていった。見上げれば、花曇りの空を晴らさんと一羽の小鳥が奮闘している。風の抵抗を受けない細身、紺の羽根、切れ目の入った形の良い尾。


 少年は足を止め、耳にはめ込んでいたイヤホンを引き抜いた。漏れた洋楽が瞬時に風に連れ去られ、かわりに耳をくすぐるのは、道端の桜並木の声なき声、小鳥のおしゃべり、土中の躍動――やむことのない生命いのちのざわめき。


 音だけではない。色もにおいも、なんとにぎやかなことだろう。


 少年の鞄についていたあみぐるみのキーホルダーがぽとりと落ちた。少年はそっとかがんでそれを手中に包み、拾い上げてじっと見つめた。


 小鳥が鳴いた。小鳥の後から晴れ間が見えた。

 えくぼを深めた少年の声は低く澄み、青い切れ目に吸い込まれていった。




「……つばめきたる」




《了》









〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


   ―作者からのおしらせ―



『つばめきたる』をご愛読いただきまして、誠にありがとうございました……!

 この物語には続編も番外編もございません。これにて完全完結でございます。(この後冬季と雑節の登場人物一覧を上げますけれども)


 七十二候の読み方は本によって様々でして、本作は、


『暮らしを楽しむ 開運 七十二候』(神宮館)

『七十二候で楽しむ日本の暮らし』(角川ソフィア文庫)


 を採用しております。すでに七十二候をご存知の方で、使っている読み方が異なり気持ち悪い思いをしていらっしゃいましたら、申し訳ございませんでした。


 後ほど近況ノートを上げますが、話の補足等は一切いたしません。感謝と、今後の活動についてお話しさせていただきます。ご興味がありましたらぜひ覗いてみてください。


 まだ評価★をされていない方、よろしければポチッ★とお願いいたします。月島、とても喜びます。


 それでは皆さま、明日からの新しい春を楽しんで。今苦しい思いをされている方も、少しでも心癒される素敵な一年になりますように。



 最後に。



「この物語はフィクションです」なんて、ここでは野暮というものでしょう。



 月島金魚

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