20、楽しむ心(前編)
夏の宮は春の宮と違い、館ひとつにすべてが収まっているわけではない。居住区となる城を中心として、敷地の至る所に各節気の仕事場が点在している。
清涼な竹林の中を抜けると、急に視界が真っ黒に染まった。目の前を完璧に塞いでそびえ立つ巨大な漆黒の天守閣は、下界の某空を突き刺すツリーかそれ以上の高さを誇り、何階建てなのかは主の夏ですら見当もつかないと言う。
「つばきさん、
「俺たち暦に病などない」
「え? でも夏さまが……」
夏とは城の入り口で別れてきたが、彼はその時珍しく真面目な顔をした。
「つばき、先に
「そうしたいと思っていました。やはり今年も?」
「高熱を出して寝込んでいるよ。
心配ない、そう言い切った夏の何色ともつかぬ不思議な瞳の奥に、玄鳥至は昔新年の宴の席で春が見せた懸念の色を見いだした。
――夏さまは、
暦に変動の時が来ている。それは今年の春に
またうなじのうぶ毛をぞわぞわさせていると、隣で雀がくすくす肩を震わせた。
「何が可笑しい」
「いや、つばきさんがそこまで汗を掻いてるの、はじめて見たなあって。ほら、おれも汗だくですよ。クーラーはないし、エレベーターもないなんてなあ」
雀が天真爛漫に笑って自分の額の汗を指差した。玄鳥至はまたひとすじ汗が首の後ろをすべり落ちるのを感じたが、嫌な感じはしなかった。
「エレベーターならある」
「えっ、あるんですか! じゃあなんで……」
「これでも最初からそっちに向かっている。場所が遠いんだ。運動を楽しめという夏さまのお考えで」
「……おれ、夏の宮じゃなくて心底良かった……」
「現代っ子め。だが同感だ」
数名を除いた夏季の暦の寝所は城の上階にある。玄鳥至と雀はさらに奥へ奥へと進み、ようやっとたどり着いたエレベーターにぜいぜい言いながら乗り込んだ。
木製の箱がギシギシガタガタ不穏にきしむ。速度はのろく、うっかりすれば眠ってしまいそうなくらいだが、いつ落ちるとも知れぬ振動が緊張感を保たせてくれる。
さぞ怖い思いをしているだろうと隣を盗み見れば、雀は案外平気な顔でゆすられている。こちらの視線に気づくと、ちょっと首を傾けて至極くだらない質問をした。
「つばきさんって、あんまり夏さまをお好きではないんですか?」
「面倒くさいだけだ」
「おれはけっこう面白い人だなって思いましたけど……」
「なら、それでいいだろう。俺は合わない」
「はっきり言うなあ。みんな仲良く、って教わりませんでした?」
「仲良くしてるだろ」
「そうですけど……」
チィン! 耳がイッとなる高音がして、およそスムーズとは言えぬ動きで扉が開く。
まだ目的の階ではない。視線を上げると、ミルクティー色の短髪の少女が乗り込んできた。
年は十七八。橙色の着物をミニ丈にして健康的な太ももを見せびらかすようにさらした少女は、
「やっほ、つばき。兄さんのお見舞いに行くって聞いたよ」
「ああ。お前も今からなのか、
少女――
「そうだよ。一緒に行ってもいい?」
「行く所が同じなのだから、断る理由がないな」
「またすぐそうやって、かわいげのないことを言う」
涼風は半目になったが、すぐにぱっと表情を明るくして、懐こく雀に近づいた。
「噂の雀始巣の候補生くん?」
「あ、はい、そうです」
「こんにちは、温風至の妹の涼風至です。ねえ、いつになったら秋の宮に来るの?」
「秋季に入ったらな」
玄鳥至が横から奪うように答えると、涼風は水風船のようにぷっくり頬を膨らませた。
「なにも季節どおりに動かなくたっていいじゃない。先に挨拶だけ済ましちゃうとかさ。つばきって変なところで真面目なんだから」
「考えがあってのことだ」
「ふうん、どんな?」
「ツバメたちが去るまでは他のことに時間を割けん。当然だろう」
「考えって自分のため? しんっじらんないわ、この男! 君も大変な先輩についたねえ」
「うるさいな」
玄鳥至が舌打ちしかけると、
「そんなことないですよ」
と、雀が朗らかに言った。
「おれはつばきさんに案内してもらうのが楽しいんです。つばきさんはこのとおりの人だから、けっこうおれの自由にさせてくれるし、困った時はいちばんに手を貸してくれるんですよ」
エレベーターが目的の階に着いた。扉の隙間をするりと抜けて、玄鳥至は誰よりも早く箱の外に出た。
エレベーターにクーラーがないのは考えものだ。耳が火照って仕様がない。
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