誰にもできない役目 第八話(完結)
国王陛下は、ひとり娘の大失態に際し、すっかりあきれ果てるしかなかった。しかし、今から自分が慌てふためくことで、この場を収めても、官吏たちの不審は拭えないだろう。「だが、うちの娘は幼少の頃から来賓館でもって、金属製の野球バットを容赦なく振り回し、国宝の壺を散々叩き割ったいわれがあるから、さもありなん」か、と目の前の現実に軽く失望されているようだった。この期に及んで、王族の誰かが突然立ち上がり、頭ごなしに叱りつけることで会場から連れ出すわけにもいかず、もはや諦めの境地に陥り、すっかり弱り果てていた。これは国民全体の行事である。国王親族一名の錯乱によって、この重大な儀式を台無しにすることはできないのだ。すなわち、面倒なこと、解決不能に思われることは、すべて部下に任せて、自身は、まだ何も気づかないフリを決め込むことで、現在続いている裁判の進行にだけ、心ならずも注目することにしたのだ。これはきわめて賢明な判断であり、横並びしている王族の他のお歴々も、それに習うことにしたのだった。
リーナ公女は、懐から白いハンカチを取り出して口元を抑え、身体を左右に大きく振りながら、そのまま無邪気に笑い続けた。それだけでは済まない。驚くべきことに、周囲にはなるべく気づかれぬよう、ディマ氏の肩にもたれかかってきた。この式典の総監としては、もちろん、当惑を隠そうとはしなかった。側近として、このような事態を黙認することはできず、公女に対して、何度も優しく声をかけることで、心からの忠告により、正気へと立ち返らせようとした。そのうちに、リーナ公女の愛らしく、いたずらっぽい目と視線が向き合う形となった。彼女はディマ氏にほほ笑みかけて、彼にしか届かぬほど、小さな声で、驚くべき説明を始めた。
「この場の厳粛な雰囲気に飲まれ、緊張のあまりバカになったわけじゃないのよ。今回の一連の作為に、最初から気づいていただけのことなんです。貴方は実際大したお方です。でも、そろそろ、すべてを話してしまっても、よろしいですよね? ここまでの進行に、かなり満足しているように見えたものですから……」
「姫様、いったい、何を仰るのですか。これは、今現在、その目でご覧になられているように、裏表のないありのままの式典です。誰も、何者も、騙そうとはしておりません。正気を御保ちください。今、冷えた飲み物をお持ちしましょう。とにかく、気を落ち着けてください」
ディマ氏は、近くに待機していた数人の従僕を呼びつけて、冷たい飲み物を出して差し上げるようにとの指示を出した。この事態に勘付いていた、他の役員たちは、その慌てふためく指令を待たずして、すでにその準備を始めていたので、数分と待たずして、公女は丸い氷の入った冷水のグラスを手にしていた。ひと口それを口に含むと、実に楽しそうに、そして、ある決意を込めた表情で再び話し始めた。
「わたくし、幼い頃から独学で演劇の勉強ばかりしておりましたの。週に一度だけ、画面の向こうで会える、グレースケリーに陶酔していましたので……。両親からは、王族の血族にある者として、ピアノや語学を率先して学ぶようにと、ずいぶんと反対されましたけれど」
リーナ公女は、そこで一度ディマ氏の表情に浮かんだ戸惑いを確認して、軽く目配せをした。
「将来は演劇場の舞台に立てるような、名のある女優になれれば……、と考えたこともありました。シェイクスピアやディケンズの物語の上で、この自分が役者として演じることができたなら……、と。でも、それは到底叶わぬ夢でしたわ。十五歳にも成らぬうちに、自分の夢が如何に非現実的で荒唐無稽なものなのか、否応なしに気付かされました。遺憾ながら、世が世なら私は王位継承者です。心に秘める大衆的な願望については、すべて諦めねばなりませんでした」
公女はそこでわざと右側に視線を移して、国王夫妻が、自分の愚かな行為にはすでに興味を無くしていて、舞台の上で引き続き執り行われている、二回目の裁判の過程に、すっかり気を取られていることを、今一度その目で確認した。そこでは、次の被疑者が舞台に上がり、それを追い詰めようと、検察側のしつこく辛辣な長口上が、すでに始まっていたのだった。見たところその案件は、貴金属店からの窃盗事件のようであった。リーナ公女は、それにはさしたる興味を示さなかった。
「わたくし、高等学校に進む頃には、もう演劇には携わるなと、両親から厳しく叱りつけられましたの。でも、時折、心ある従僕を騙して……、いえ、従順な彼らを騙した、なんていう表現はあまり良くないかしら……? とにかく、彼らをうまく諭して、一般の裁縫店で購入してきた、ありふれたワンピースに変装して、窓から下の花壇に向けて飛び出し、そのまま、広い庭を突っ切って、城壁をよじ登り、国立劇場まで駆け抜けて行きました。もちろん、あらゆる手段を駆使して、自分の行動を両親には知られないようにする必要がありました……」
リーナ公女は、そこで一度言葉を止め、ディマ氏の方に向き直って、いたずらっぽく肩をすくめた。それは未だ捨てきれぬ幼さを披露したいようにも、また、自分の勝ち筋を疑わぬ彼の思惑を上回ってみせた勝利者のポーズにも見えた。
「でも、数回も通わぬうちに、それもすっかり駄目になりましたの……。両親にばれないように、それを続けることは叶ったのですけれど……、何度か通ううちに、常連の貴族階級のお客さんや、舞台俳優さんが、誰から入れ知恵されたのか、わたくしのことを覚えてしまったのです。わたくしが訪問するときには、なぜか一番前の席だけがぽっかりと空いていたり、閉幕後に一番人気の俳優さんが舞台から降りてきて、この両手に豪華な花束が贈られたりするんです……。明らかに不自然ですよね。自分だけが特別だなんて……、さすがに嫌になりました……。大胆な行動によって、つかの間の自由を得ることはできても、家柄は家柄、血統は血統です。どうあがいても、庶民の真似事など、上手くはいかないものだと、そう思い至りました」
ディマ氏にとって厳しい時間が流れた。寸分の過ちも犯したつもりはないのに、いつの間にか、極寒の氷河に置いていかれて、抵抗もできない自分の肌は、暖を取る術もなく、次第に凍り付いていくような感覚であった。彼は少なくとも、今回の策動に関し、すべての可能性を考慮に入れたつもりでいたのだ。
「ストロール=アジャルさんという方をご存知でしょうか?」
「いいえ、たいへん失礼ながら、まったく存じません。いずこの官吏のお方でしょうか?」
ディマ氏は精神的に追い詰められていたので、物事を深く考える余裕を持てなかったようだ。リーナ公女は、その正直すぎる返答を受けて、これはしてやったりと、再びこらえきれなくなり、身体をゆすって高笑い始めた。ディマ氏は不思議でたまらくなったので、丁寧な態度により、ご令嬢に詳しい説明を求めた。
「アジャルさんは第二市街の片隅にある、小さな演劇場の役者さんですわ。よろしければ、もう少し、説明を加えましょうか? つい先ほど、あの演舞台の上で、三人の女性を殺害した容疑を受けながらも、散々暴れていた、残虐な殺人犯人の方ですわ」
ディマ氏はこの瞬間、奈落の底へと叩き落されたような、きわめてありがたくない感覚を得ていた。この国の司法の頂点に君臨する権力者の、普段は絶対に見られない、驚きの表情に際して、公女は両親をトランプゲームで負かしてみせた子供のように、いたく満足げな顔をされたのだった。
「今、舞台に上がって、検察から厳しく追及されている宝石盗人さんは、同じ劇場に長年勤める、ペレットさんですわ。もちろん、お二人とも、ここで裁かれるような、許しがたい犯罪をされるような方ではありませんの……。貴方は行政のトップにおられる方ですから、被告人役に実力派の役者を配することは、部下への指令として、お出しになったのでしょうけれど、そのお名前までは、いちいち確認しておられないと思っていました。いったい、お二人をいくらで雇ったのですか。時給五百セントくらいでしょうか?」
「しかし……、王族の方が、まさか、下町の演劇場にまで足を運ぶとは……。リーナ様、私とて、これらすべてのことを浅知恵によって考え出したわけではありません。高額で名を馳せる人気俳優など、ひとりも所属していないような、それらの劇場には、今日来場されているような、貴族や華族の方々にとっては、アマゾン流域の未開の地同様であります。彼らが一度も足を運んでいないことを、確実に調べてこその目論みだったのです」
リーナ公女はそのことについては一定の同情を示した。
「王立劇場へ立ち入ることができなくなっていた頃、私はさらに演劇というものに傾倒していました。ストーリーや役者の知名度、舞台の演出のみならず、彼らが貴重な呼吸とともに発する、一言一言の台詞に、深い感銘を覚えるようになっていたのです。幼少の頃の学習の機会に読まされた『ハムレット』や『クリスマスキャロル』よりも、自分の目の前で生き生きと動いてみせるそれらの方が、完全に本物であったからです。今や、演劇の研究はわたくしのライフワークです。王族という名に負かされて、それらを取り上げられて、「はい、そうですか。もう、通うのはやめます」というわけにはいかないのです。私は市民の寄付によって建てられた、小さな演劇場にまで足繁く通うようになりました。もちろん、今度はさらに念入りに変装する必要がありました。宮殿の一室に押し込められている時も、暇さえあれば劇場のパンフレットを眺めていました。第二市街界隈の役者さんの、ほとんどすべての名前と役名を覚えました。もちろん、私の親族のなかに、このような趣味を持っている方は自分の他には知りません。ですから、これは今日の舞台を用意してくださった、あなた方にとっては、逆に不幸であったのかもしれないですけど……」
彼女は無罪判決を受けた被疑者のように、勝ち誇っているようにも見えた。しかし、ディマ氏はリーナ嬢が、ことの真相を国王陛下やその側近連中に告げ口するような人間には、とても思えなかった。そこで、今日の壮大な企みを指揮する者として、その遊び心に少し付き合ってみる気にもなった。
「しかし、第二市街の名もなき役者が、ここ数日の間に、突然その心を悪に染めて、数々の残虐な犯罪を犯して、ここに連れて来られたという悲劇についても、まったく、考えられなくはないと思うのですが……」
リーナ公女は行政長官の意を汲んで、気品のある微笑を浮かべながら、次のように仰られた。
「ああ、それは、当然そうですね……。この議論に決着をつけるならば、あらゆることを考慮に入れねばなりません。しかしながら、その可能性については、まったく考えなくても、良さそうに思えるのです」
公女は目の前のお盆の上に置かれた、水滴に曇ったグラスを、もう一度持ち上げて、その中に残されている水をゆっくり飲み干し、口紅を丁寧に拭き取り、空になったグラスを傍にいた従僕に手渡した。
「裁判長の経歴を紹介するくだりで、たしか「ソルボンヌ大学に十五年間勤務」とありましたけれども……」
公女はそこでもう一度言葉を止めて、ディマ氏に同情するような温かみのある視線を向けた。
「わたくし、高等学校を卒業後、ソルボンヌ大学に三年間留学していましたの。でも、あの裁判官の方、ピューロー氏とおっしゃるようですけれど、あの方のことを、まったく存じ上げませんの……。レジュメには、首席で卒業とありましたが、それならば、当然、私の耳にも入るはずです。同じ肩書きを持つ者として……」
どんな上級官吏であっても、知識人であっても、やることなすことが、まったく上手くいかない日もある。ディマ氏は、もはや打つ手もなく頭を抱えるしかなかった。しかし、ここで絶望に打ちひしがれて、国家的イベントを不意にしてしまうことも、すべてが事前に仕組まれた芝居であったことを、国王に正直に打ち明けることも、得策であるとは言い難かった。
「急ごしらで作られたシナリオのようですけど、その割にはよくできています。ただ……、鍵になる登場人物の素性に関する情報量が……、少し、多すぎたようですね」
リーナ公女は、その言葉を言い終えると、その表情は再び真剣になり、先ほどまでの無邪気な笑みはふっと消え失せ、今は公務に機械的に携わる、皇族のひとりであるその姿を見せていた。その凛とした姿にディマ氏は見苦しい弁解の言葉を失うことになった。これ以降の長ったらしい言い訳は、すべて無用なことのように思われた。暴かれてしまった事実については、すべてあきらめ、舞台の次の攻防に注目した。裁判長を演じるピューロー氏は、決して上級官吏たちが期待していた人格者ではなかったが、良い意味で只者ではなかった。如何なる加害者の挑戦を受けても、渡されたレジュメを特に見ることもなく、一定のリズムに則って、次々と名判決を下していった。その度に、被告人はすっかり白旗を上げてしまい、会場は感激と驚きのため息に包まれた。
式典が終わりに近づく頃、アレク・ディマ氏は議事の進行のほぼすべてに満足していたし、ようやく肩の荷が下りた気もしていた。特に、あの急ごしらえのピューロー氏については、もはや、畏敬の念すら抱かざるを得なかった。
「あの男は昨日まで家畜も畑も持たない、どこにでもいる百姓のひとりだったのだぞ。それが、今は我が国唯一の裁判長として演台に立っている。どこの優秀な官吏に、そんな真似が出来るというのだ?」
裁判の議事はすべて終了した。後方の席で見ていた多くの貴族のせがれ(ほとんどが何の才もない、金を湯水のごとく使うことしか能のない、立派なドラ息子だが)が王族を見送るために、呼んでもいないのに、わざわざ二階の神聖な空間まで降りてきた。そのまま、リーナ嬢の周囲に集まり、「素晴らしい裁判でしたね」「今日が民主主義の本当の始まりの日ですね」などと、ぜひ、そのお返事を頂こうと、遮二無二声をかけていた。
公女はにこやかな笑みで、それら凡夫の声に応えると、従僕に身体を支えられながら、蒼く透き通るそのドレスに、なるべくしわを寄せないようにと、ゆっくりと立ち上がった。ディマ氏も立ち上がり、公女の背中に軽く礼をした。親の権力だけでこの場にいる、くだらない貴族たちのように、麗しい公女による、何らかの反応を期待していたわけではない。国王夫妻はゆっくりと席を離れ、下階の大衆に向けて、その手を大きく振りながら階段に向かっていく。その親族方は後に続いて、いっそう華やかな列を作っていく。もちろん、麗しきリーナ嬢が、ディマ氏に対しても、それ以外のやりきれない貴族連中に対しても、この別れに際して、何らかの反応を示すことはなかった。あの僅かな時間の間、公女が見せた数々の無邪気な振る舞いは、きっと幻覚だったのだ。
翌日の大手新聞各紙には、このたび催された、わが国最初の民主的裁判についての詳細が一斉に報じられた。その記事の中では、この大規模で荘厳な儀式は、王族や名のある大貴族を筆頭に、我が国を代表する名士が各地から集い、華やかで、格別の緊張感をもって執り行われたと紹介されていた。ここであえて付け加える必要はないが、これらの記事はすべて事実を記していると考えねばなるまい。
一週間が経過した頃、この儀式についての関連記事がいくぶん小さめではあるが、いくつかの新聞紙上において、追加の形で取り上げられた。それによると、枢密院はその定例会議において、王室の許可を得た上で、行政庁の長官である、アレク・ディマ氏に対して、国家における最高の栄誉である、永年十字名誉勲章を贈与することを決めた、とのことである。
誰にもできない役目 つっちーfrom千葉 @kekuhunter
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