3章 力を尽くして

第1話 いつもの日に

 平日の今日はお仕事である。昼休憩を終え、紗奈さなは事務所の自席でiMacのモニタを凝視する。


 今日のお料理部当番は岡薗おかぞのさんで、メニューはソース味の焼きそばだった。お買い物の都合で、豚肉の登場頻度が高くなるお料理部なのだった。


 梅雨つゆが明け、7月下旬になっていた。まるで梅雨が湿気を連れて来たかの様に不快な日が続き、それに加えて太陽の照り付けも強くなって来ていた。本格的な夏の始まりである。


 紗奈と雪哉ゆきやさんのお付き合いは、あれからも順調に続いている。先週の土曜日もなんばのなんばパークスシネマに映画を観に行った。


 結婚うんぬんはおくびにも出さず、だがこのまま行けば将来なる様になるのかも知れない、そんな心持ちだ。


 今にして思えば、紗奈だって悪かったのだ。学生のうちに成人を迎え、年齢は大人になったのに、親に庇護ひごされる立場であることに甘え切っていた。雪哉さんもそんな紗奈に不安を感じていたのだろう。


 少し落ち着いたころにそんな話をすると、雪哉さんは苦笑するばかりだった。肯定ということなのだろう。雪哉さんが折れてくれなかったらどうなっていたことか。


 喧嘩両成敗では無いが、紗奈はあらためて反省することになった。だからこそなのか、良い関係が築けていると思っている。


 お料理部での活動も紗奈なりに好調だった。レシピに頼りながらも、ひとりで作れる様になっている。目分量への挑戦はまだ先だと思っていて、するのなら事務所では無く家でだろう。さすがに牧田まきたさんと岡薗さんに失敗作を食べてもらうわけにはいかない。


 清花さやかもどうにか気持ちにけりを着けた様だった。


「あんなん言う男、こっちから願い下げやわ」


 そんなことを言いながら自分を変えるつもりは無い様で、万里子に世話をされて、それを当然だと振る舞っていた。こればかりは隆史と万里子がどうにかしなければいけないのだろう。


「甘やかしてしもうたツケなんやろうねぇ」


 万里子はそんなことを言いながら、重い溜め息を吐いていた。


 今紗奈が取り掛かっているのは、なかもずに先日オープンしたビストロ・ヤタのものだ。以前畑中はたなかさんに同行した、紗奈のヒアリングデビューだったクライアントである。


 畑中さんに力を貸してもらいながら作ったフライヤーは、ありがたいことに矢田さんに気に入ってもらえ、矢田さん含む正社員スタッフの名刺とショップカード、テーブルに置くメニューまでご依頼いただくことができた。


 今紗奈が作っているのは、お誕生日特別コースディナーご案内のDMである。はがきサイズで、翌月お誕生日を迎えるご贔屓さんにお送りするものだ。前々日までに予約をすると、スイーツ付きの特別コースが用意される、そのお知らせをするものだった。


 コース内容は月ごとに変わるので、ご依頼は毎月来る。今作っているのは9月にお誕生日を迎えるお客さま宛てのものだった。秋の旬が出始めるころなので、それらをふんだんに使ったコースになるとのこと。


 まだ時季が早く試作が難しいお料理もあるので、紗奈が預かった写真はスイーツのメロンを使った小さなパルフェと、きのこをたっぷり使ったお肉料理だった。メロンもきのこも産地に違いはあれど、今や年中楽しめる味覚である。


(どっちも美味しそうやわぁ)


 紗奈はじゅるりと生唾を飲み込みながら写真を配置する。残暑のころに送られるDMだが、コースは初秋を意識したものなので、ほんのりと秋らしいテイストにしたい。ブラウンやオレンジなどを使い、ああでも無いこうでも無いと、紗奈は黙々と作業を進めて行った。


 その時、事務所内に電話の受信音が鳴り響く。電話を受けるのは事務の牧田さんだ。牧田さんが席を立っている時は紗奈の役目になっている。


 電話をあまり使わない世代の紗奈なので、最初は不慣れで怖いとまで思ったものだが、何回か受けて、今ではどうにか慣れて来た。


 基本は他の社員に繋ぐので、必要なワードはそう多く無かったし、アクシデントが起こる様なこともほとんど無かった。万が一紗奈の手に余る様なら迷わず所長さんに繋ぐ様にと言われている。


 今は牧田さんが席にいるので、牧田さんが速やかに受話器を上げた。


「畑中さん、ビストロ・ヤタの矢田やたさまからお電話よ」


「はい。ありがとうございます」


 電話は一旦保留され、畑中さんは自席の電話を取り上げて内線ボタンを押す。紗奈は今まさにその矢田さんのお仕事をしているので、つい気になってしまう。


「お待たせいたしました、畑中です。お世話になっております。はい、はい、……え?」


 何かあったのだろうか。上半身を伸ばして畑中さんの様子を伺うと、畑中さんの表情には驚きが浮かんでいた。


 矢田さんのお仕事は、今のところ「小さい」ものが多いこともあり、紗奈が作成していた。が、表向きは畑中さんのクライアントである。


 まだ紗奈はひとりではヒアリングを的確に行うことができない。まだまだ修行中の身だ。なので矢田さんのお仕事は基本畑中さんに同行して勉強している。


 紗奈のクライアントでは無いので、例えば打ち合わせ時以外の修正などがあれば、畑中さんに連絡が来て、紗奈にそのまま伝えられるのだ。メールなら双方に送ってもらう様にしている。


 クライアントによってはPDF保存したものをメールに添付して送るか、オンラインストレージにアップして、校了までオンラインで進めることもある。色校正を希望されるクライアントは訪ねてお見せする。


 矢田さんの場合、初校はプリントアウトしたカンプをお持ちする。紙に刷ったものの方が完成品を想像しやすいからだ。


 そしてその場で修正などをいただき、紗奈がそれを反映させる。そこからは訂正があればオンラインだ。そして最後、校了で直接確認してもらう流れになっている。色校正は無しである。


 まだ矢田さんのお仕事を請け負ってから3ヶ月ほど。それでこれまで問題無く進めて来れた。だが何かあったのだろうか。紗奈が何かしでかしてしまったのだろうか。電話を受ける畑中さんの顔が陰っている様に見えて、紗奈は不安になる。


「所長」


 電話を終えた畑中さんが腰を上げる。すぐ近くの所長さんの机の横に回ると、続けて「天野あまのさん」と呼ばれる。畑中さんが「来い来い」と言う様に手招きしたので、紗奈は慌てて立ち上がった。


 やはり紗奈が何かしてしまったのだろうか。ミスでもあったのだろうか。だが前回の依頼物作成から半月ほどが経っている。クレームにしては遅い様な。いや、あらためて見て気付いたなんてこともあるかも知れない。


 紗奈の中には怒られてしまう怖さはもちろん、責任が取れ切れるのかという不安が渦巻く。いくら表向きの担当が畑中さんとは言え、実働は紗奈だ。紗奈が負わなければならないだろう。始末書を書かなければならないだろうか。減給もあるか?


 紗奈が恐る恐る畑中さんの横に立つと、「あの」と畑中さんが重い口を開く。


「今、ビストロ・ヤタの矢田さんからのお電話で、今いただいているDMなんですが」


「私が作っているはがきですよね……? ヒアリングの時に何かしてしまいましたか?」


 ヒアリングでは畑中さんも一緒だったし、その時は順調に終わったと思っていたのだが。無意識のうちに失礼があったのだろうか。紗奈はますます心配になってしまう。


「ううん、ちゃうちゃう。あのね、矢田さん、今回のDM、コンペにしてくれへんかって言うてはってね」


「コンペ」


 紗奈と所長さんの驚きの声が重なった。

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