第11話 思いもよらずに

 その週末、土曜日。雪哉ゆきやさんとデートの日である。6月も中旬のころ、もうすぐ梅雨入りするとの予報が出ていた。


 夏日も増えている。だが日陰に入れば心地よい気温だ。


 その日は快晴で、太陽の下ではじわりと汗も滲むが、過ごしやすい日だった。


 紗奈さなと雪哉さんは、長居ながい駅からすぐそばの長居公園にいた。長居駅は紗奈宅の最寄り駅あびこ駅から北に一駅である。


 長居公園の中にはサッカーの国際試合やアーティストのライブも行われるヤンマースタジアムや、Jリーグの試合が開催されるヨドコウ桜スタジアム、長居植物園やマラソンコースもあり、かなり広大だ。


 紗奈と雪哉さんは自由広場のソメイヨシノの下にシートを敷き、お弁当を広げていた。この時季桜は青々とした葉桜で、程よい日陰を作ってくれる。ふたりは穏やかな風に当たっていた。


 お弁当は紗奈お手製のサンドイッチだ。ハムとチーズときゅうり、卵フィリング、ツナマヨネーズと、定番のものばかりである。サンドイッチを作るのは初めてだったので、万里子に教えてもらいながら、朝から取り掛かったのだった。


「まさか紗奈の手作り弁当が食べられる日が来るなんてなぁ。なんや感慨深いわぁ」


 雪哉さんが卵サンドを食べながらしみじみと言う。紗奈がお弁当を用意したのは初めてで、これまでこうしたピクニックめいたデートやお花見などの時は、買ったお弁当やお惣菜を食べたりしていた。


「会社のお料理部で教えてもらって、最近やっとお料理ができるて言えるかも、て思って来たんです。まだレシピ本は見んとあかんのですけど。あ、この前ね」


 紗奈は買い物からお料理までひとりでできたことを伝えた。少し興奮しているだろうか。つい熱くなってしまう。それほど紗奈には嬉しかったことで、雪哉さんは「うんうん」とにこにこ顔で耳を傾けてくれる。


「私ね、ほんまにもう感激してしもうて。ずっと先輩が教えてくれて、その成果が出せて良かったなぁって」


「先輩も喜んでくれはったんと違う?」


「はい。先輩も事務のパートさんもほんまに嬉しそうにしてくれはって。私、これからも頑張ろうって素直に思ったんですよ。家ではお料理するタイミングってあんまり無さそうなんですけど、週末家にいる時は、お母さんのお手伝いすることにしましたし」


「掃除とか洗濯とか?」


 紗奈は「そうなんです」と応えて、苦笑いを浮かべる。


「私、すっかりお母さんに頼って何もせんで来たから、何もできひん人間になってしもうたんです。でももう社会人なんですよね。自立しててもおかしく無いんです。それやのにすっかりと甘えてしもうてて。生活費かてお料理とは別の先輩に教えてもろて、やっと入れなあかんねんなって」


「え? 家に生活費入れてへんかったんか?」


 雪哉さんは驚いた様で目を丸くする。やはりそれが共通の認識、常識なのだ。


「お恥ずかしながら……」


 紗奈は恥じ入って身を小さくする。


「早う聞けて良かったです。お父さんもお母さんもそんなこと言わへんかったから、私も知らんくて。先輩とそんなお話になったんはたまたまやったんですけど、私、ほんまにあかんなぁって。なんで相場のお金下ろして来て、両親に渡しました。初任給に間にうて良かったです」


 紗奈が苦笑のまま目を細めると、雪哉さんは「うん」と何か納得した様な表情で頷いた。


「あのな、紗奈」


「はい?」


「実はな」


 雪哉さんは穏やかな表情を浮かべ、ぽつりと呟く様に言った。


「俺、紗奈と別れなあかんやろうかと思っててん」


「え?」


 紗奈はぽかんと口を開けてしまう。言われたことがとっさには理解できなかった。やがて言われた言葉が脳に届くと、紗奈は血の気が引く思いがした。紗奈が何かしてしまったのだろうか。嫌われたり呆れられたりすることが何かあっただろうか。


 紗奈は大学1年の時に四年生の雪哉さんに告白され、お付き合いを始めることになった。サークルでの関わりがあり、憎からず思っていたのだが、そうした展開になるとは思わなかったので驚きつつ、雪哉さんとのデートは予想以上に楽しいものだった。


 紗奈の雪哉さんへの思いは徐々にゆっくりと育ったのだと思う。浮気などの気配も無く、優しい雪哉さんに心を預ける様になって行ったのだ。


 先のことなんて分かるわけが無い。だが今、紗奈は雪哉さんと別れることなんて考えられなかった。


 紗奈が白い顔を呆然とさせていると、雪哉さんは「ああ、驚かせてしもうたな。ごめん」と手を振った。


「俺な、結婚願望があんねん」


 それがどう別離と繋がるのか。結婚したいのであれば、別れてしまうのは逆の道なのでは無いだろうか。それとも雪哉さんにとって、紗奈は生涯の伴侶に値しない人間だと言うのか。


 顔がさらに蒼白になって行くのが分かる。脳に血液が、酸素が足らないのか、巧く頭が回らない。紗奈はなんと言ったら良い。どうしたら良いのだ。


 社会人になって間も無く、結婚は考えられない。まだ仕事だって家事だってろくにできないのだ。紗奈はまだ何もできない。何も支えることができない。ひとりで成せることが少なすぎる。お料理だってようやくスタートラインに立てたところなのである。


 ……ああ、そういうところが見限られてしまう要因なのだろうか。まだ若いからなんて言い訳だ。雪哉さんの様に学生のころから立派にひとり暮らしをしている人なんて、ごまんといるのだから。


 紗奈はうなだれるしかできなかった。

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