第10話 喜んでくれる幸せ

 事務所と繋がるドアをそっと開け様子をうかがうと、ちょうど昼休憩に入ったか、所長さんはお弁当箱を手に立ち上がり、畑中はたなかさんも外出の準備をしていた。紗奈さなはドアを開け放った。


牧田まきたさん岡薗おかぞのさん、できました!」


 紗奈が声を掛け、鶏の照り焼きを載せたトレイを持ち上げる。いつもの様に応接セットに運ぼうとすると、立ち上がった岡薗さんが給湯室に向かって来た。


「汁物とご飯運ぶな」


「ありがとうございます」


 応接セットのテーブルに平皿を置いていると、岡薗さんが追ってお味噌汁とお米を運んでくれる。そうしてテーブルに今日のお昼ごはんが揃った。


「鶏の照り焼きか」


 岡薗さんがふわりと口角を上げる。


「はい。巧くできてるとええんですけど。あ、ちゃんとレシピ通りに作りましたよ」


「美味しそうやわぁ。この甘辛い香りが食欲をそそるんよねぇ〜」


 牧田さんも顔を綻ばせ、見た目の評判は上々だと紗奈は安心する。


「おお、美味しそうやんか。うちの奥さんが作る照り焼きと同じぐらい美味しそうや」


 愛妻弁当を広げた所長さんも、お皿を見て表情を和ませた。


「はいはい。所長の奥さんが料理上手なんはもう嫌ってほど知ってますから」


「ふふ、羨ましいわねぇ」


 奥薗さんが呆れた様に言い、牧田さんがおかしそうに微笑む。紗奈も「ふふ」と笑みをこぼした。所長さんは時折りこうして奥さまを惚気のろけるのである。素敵なご夫婦なのだなと紗奈は羨ましくなる。かと言って自分が結婚したいかどうかは別の話だが。


「ほな、さっそくいただきましょか」


「ええ。いただきます」


「いただきます」


 岡薗さんと牧田さんは手を合わせ、紗奈も「いただきます」と合掌がっしょうしながら、岡薗さんたちの様子を盗み見る。いや、そんな控えめなものでは無い。堂々と見つめる。


 岡薗さんはお米を、牧田さんはお味噌汁をすすり、次に揃って鶏の照り焼きにお箸を伸ばす。


 紗奈はいつかの、初めて自分で味付けをした肉豆腐のことを思い出す。岡薗さんに付いていてもらったものの、そしてレシピ本頼りだったものの、紗奈が初めて自分で味付けをしたお料理だった。記念すべきと言っても良いかも知れない。


 そして今日もまた、紗奈にとって記念の日になるだろう。先日雪哉ゆきやさんの家でグラタンを作った時も手伝ってもらったので、正真正銘紗奈がひとりで作るお料理は、これが初めてなのだ。


 岡薗さんが丁寧に教えてくれたから、紗奈はここまで成長できた。要領だってだ大分良くなって来たと思う。岡薗さんが聞きやすい、話しかけやすい雰囲気をいつも作ってくれたから、判らないことも積極的に聞くことができた。同じことを2度聞いてしまった時でも、岡薗さんは嫌な顔ひとつせず教えてくれた。


 牧田さんも、そして岡薗さんも、紗奈が手掛けたものを「美味しい、美味しい」と言って食べてくれた。その度に紗奈は嬉しくなって、自信につながり、これからも頑張ろう、ひとりででも作れる様になろう、食べてくれる人に喜んでもらえる様に、と励むことができたのだ。


 今日はどうだろうか。紗奈はまさに心臓が口から飛び出そうだった。ついつい胸の前で手を固く組んでしまう。


 鶏の照り焼きを噛み締めた岡薗さんと牧田さんは、揃って「ん!」と目を見開いた。


「旨いわ。旨いで、天野あまのさん」


「ほんまやねぇ。柔らかぁて、ええお味がしっかりとまとってるわ。ほんまに上達したわねぇ」


 ふたりは紗奈を見て、それぞれに褒めてくれた。紗奈はあまりの嬉しさに、じわりと目頭が熱くなる。つい顔を両手でおおってしまった。


「う、嬉しいです〜。ありがとうございます〜」


 まさかの涙声になっていた。それほどまでに感動したのだ。まだレシピ本を手放せそうに無い。冷蔵庫にあるものでちゃちゃっと、なんてこともまだできない。創作料理なんてものにもまだまだ高い壁が立ちはだかっている。


 だがひとりで作り、こうして美味しいと言ってもらえて、ようやく紗奈は「お料理ができる」と口にして良い様な気がしていた。


「お、ええなぁ。僕にもひとつちょうだい」


「卵焼きと交換やったらええですよ」


「ええで」


 岡薗さんと所長さんが照り焼きと卵焼きをひとつずつ交換し、所長さんも照り焼きを口に。しっかりと味わう様に口を動かすと、ぱっと目を開いた。


「うん、美味しい。天野さん、美味しくできてるやん。凄いやん」


 そう笑顔を向けてくれた。


「ああ〜、ほんまに良かったぁ〜!」


 紗奈が雄叫びの様な声を上げると、牧田さんが「あらあら」とおかしそうに笑う。


「天野さん今までも美味しいご飯作って来たやん。何をそんなに心配してるんよ〜」


「だって、いつもは岡薗さんがご一緒でしたから。でも、今日は私ひとりで」


「な。ひとりで時間までにちゃんと旨いのん作れたやん。凄いわ。素晴らしい成長やで」


「岡薗さんがいつも凄い丁寧に教えてくれはったから」


「天野さんが頑張ったんやんか。ほら、冷めんうちに天野さんも食べや」


「はい」


 紗奈は顔から手を外し、少しうるんだ目をさっと拭う。あらためて「いただきます」と手を合わせてお箸を取り、まずはいつもの様にお米を食べた。


 そして鶏の照り焼きにお箸を付ける。ひと口大のそれをおずおずと口に運び、ゆっくりと噛み締める。弾力がありつつもさくっと歯が入り、じわりと肉汁がにじみ出て来る。甘辛いたれがしっかりとからみ、鶏肉が持つふくよかな甘さを引き上げていた。


「おいしく、できてる……っ」


 たどたどしく声を詰まらせてしまう。ひとりでもこれだけのものが作れた。紗奈は安堵あんどと歓喜がい交ぜになり、きゅっと目を閉じると、また目尻にじわりと雫が滲んだ。


「な、旨いやろ? ようやったなぁ天野さん。これやったらこれからもひとりで大丈夫やな」


「ま、まだ不安ですけどがんばります!」


 紗奈は目を潤ませたまま、ぶんぶんと何度も肯首した。


「だーいじょうぶやって。今日かてこれだけできたんやから。自信持ったらええんやで」


「はい。ありがとうございます!」


 紗奈は嬉しさのあまり、牧田さんと岡薗さん、そして所長さんにも何度も頭を下げた。

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