第8話 ちゃんとした大人になるために

「私さ、事務所でお料理する様になって、お母さんが家事を全部やってくれるありがたみっちゅうか、そういうんも感じる様になって」


「あら」


 紗奈さなのせりふに万里子まりこがまた目を丸くする。同じく目を見開いた隆史たかしと視線を交わした。


「平日は疲れてしもうて何もできひんし、休みは家におらんことも多いから、お手伝いとかなかなかできひんけど、ありがたいことなんやなぁって。お母さん、ほんまにいつもありがとう」


 紗奈が言って頭を下げると、万里子は「ふふ」と微笑み、隆史は気まずそうに視線を反らした。


「そんなんお父さんにも言われたこと無いわ。私は専業主婦やから家事をやるんは当たり前やからね。まぁ子育ては夫婦でするもんやと思うけど」


 万里子の言葉に、隆史はますます肩をすくめて縮こまる。さっきは紗奈たちを育てた様な口ぶりだったが、隆史がろくに子育てをして来ていないことなんて、紗奈でも分かっている。


「でも、私もそういうことをちゃんと教えなあかんかったんかも知れへんね。恩着せがましゅうなるんも嫌やし、そういうのって結婚したり自立したりしたら自然に分かることやと思ってたから」


「私はお父さんにも責任があると思う。もちろん私も甘ったれやったけど」


 紗奈がちろりと隆史をにらむと、隆史はびくりと肩を震わせた。


「お父さん、お母さんが何かしてくれても、それこそお茶淹れてくれても、お礼ひとつ言うたこと無いやん。少なくとも私は聞いたことあれへん。せやから私も、多分お姉ちゃんも、お母さんにしてもらうことが当然やと思ってたんや。でも会社でお料理し始めて、それは家事のほんの一部やけどその大変さを知って、してもらうことってありがたいことなんやなって。先輩の話を聞いて、家に生活費入れんでええことがどれだけ恵まれてるか、やっと分かってん」


 畑中はたなかさんのお給料がいくらなのか、お家にいくら入れているのかは分からない。だが言葉の通り相場よりも高いのであれば、自由に使える金額は紗奈よりも少ないかも知れない。


 お父さまがいない苦労だってあるだろうし、容易にひとり暮らしができないのなら、結婚となるとまた新たな問題が浮上するのかも知れない。


 それに比べ、紗奈にはそんな懸念けねんが何も無い。今だって先立つものが無いだけで、家を出ようと思えばできるだろう。実家にいればそれなりの金額のものだって自由に買える。


 苦労知らずの甘ったれ。それが今の紗奈なのだ。


 そんな自分を事務所の人に知られたら呆れられるだろう。身体が成長して年齢を重ね、社会人になっても「ちゃんとした大人」になれるわけでは無いのだ。


 紗奈の話で隆史はますますいたたまれないと言う様に目を反らしてしまう。隆史も世話をされるのが当然だと思っていたから、万里子にお礼も言わなかったのだろう。


 だが当たり前では無いのだ。隆史だって毎日仕事だけに打ち込めることを、休日には休めることを、万里子に感謝しなければいけないのだ。


「お母さん、私週末家にいたら、これからできる限りお手伝いする様にする。お料理だけや無くてお洗濯とかお掃除とかもできる様になった方がええと思うから。平日は、ちょっと厳しいかも知れんけど」


「そうやね。それがええかもね。ああ、それと紗奈ちゃん、お家にお金入れてくれる言うんやったら、ついでや無いけど言うとく。貯金もするんやで。絶対に将来必要になるから。独立にも結婚にもお金は掛かるんやからね」


「それはそうやろうけど」


 家に生活費を渡す分、使えるお金は減っている。これ以上少なくなるのはできれば避けたいと思っていたのだが。紗奈はつい顔に不満をにじませてしまう。だが万里子はきっぱりと言い放つ。


「それこそ社会人やったら当たり前のことやで。貯金ができひんぐらいの薄給はっきゅうならともかく、紗奈はそうや無いやろ。月に決めた金額貯金して、残りのお金でやりくりするんやで」


 そうだ。雪哉ゆきやさんもひとり暮らしで自分自身をまかないながら、貯金もしているでは無いか。雪哉さんのお給料額は知らないが、紗奈よりずっと大変かも知れない。それを思うと嫌だなんて言えなかった。


「そっかぁ。そういうのも考えなあかんねんな。私もちゃんとできる様にならな。お姉ちゃんも貯金はしてるんやんな?」


「そのはずやで。さすがにそれは言うた。分かったってさやちゃんは言うてたけどね。いちいちチェックとかはせんけど」


 その時、万里子の横で隆史が「んっ、んんっ」と不自然な咳払せきばらいをした。


「いや、あの……、僕かて母さんに感謝してへんわけや無いんやで。ただちょっと、照れ臭いだけで……」


 消え入りそうな声で言い訳をする隆史。そんな隆史を万里子は笑い飛ばした。


「はいはい。でもできたらその場でお礼のひとつも言うてくれたら嬉しいわ。お父さんほんまに何もせえへんねんから」


「あ、ああ……」


 穴があったら入りたいと言うのは、こういうことを言うのだろうか。隆史はそれ以上何も言えず、ただただうつむくしか無い様だった。


 紗奈はこういうのも積み重ねなのだなと、そして万里子は隆史に従順な様で実は違ったのだなと、ほんの少し隆史に同情した。

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