第5話 甘えてはいられない

 少し歩いてイタリアレストランに場所を移し、紗奈さな畑中はたなかさんは広々としたテーブルを向かい合わせで囲んでいる。


 店内は大きな窓が採用されていて、外からの光が惜しげも無く降り注いでいてとても明るい。壁は柔らかなクリーム色だが、せり出した柱やテーブル、椅子はこげ茶の木製のものが使われていて、そのコントラストがシックな雰囲気を醸し出している。


 ふたりともパスタランチを頼むと、すぐにベビーリーフがたっぷりと盛られた前菜が運ばれて来た。脇にはスモークサーモンとアボカドディップを使ったブルスケッタが添えられている。


 ドレッシングは小さなピッチャーで運ばれて来た。紗奈は黒酢と玉ねぎのドレッシング、畑中さんはレモンドレッシングを選んだ。ふたりはさっそくベビーリーフにドレッシングをとろりと掛ける。フォークを使って口に運ぶと、酸味と濃厚な味わいの中に玉ねぎの爽やかさが舌に乗る。ベビーリーフのほのかな青い癖との相性がとても良かった。


「久しぶりに贅沢ぜいたくなランチな気がするわ」


 畑中さんが美味に満足げに目を細めると、紗奈は首を傾げる。


「え? でも畑中さん、お昼は毎日外ですよね?」


 だからいつも美味しいものを食べているのだと思っていたのだが。


「毎日普通にお店行ってたらお金続かへんよ。コンビニのイートインやったり、ファストフードとかたこ焼きとか、ワンコインぐらいで食べられるもんがほとんどやな」


 この場合のワンコインは500円だろう。


「そうやったんですか。でも確かに、毎日1,000円とかじゃきついかも」


 紗奈も先月、4月25日に初任給をいただいた。初任給は税金が引かれないので通常の支給額より少し多めだ。だがそれを差し引いても毎日食事で贅沢ができる金額では無かった。


 この業界、会社や事務所にもよるのだろうが、給料はそう高額では無いのだ。薄給はっきゅうとまでは言えないかも知れないが、ボーナス支給額もそう多く無いと聞いている。


 紗奈は実家住まいだしお金に困ることは無い。だがひとり暮らしだと厳しいのでは無いだろうか。


「畑中さんっておひとり暮らしですか?」


「ううん、実家。うち母子家庭でな。私ひとりっ子やし、そう簡単に家出られへんねん。それこそ結婚でもせな難しいなぁ。できたら母親ひとりにしたぁ無いし」


「そう、やったんですか」


 家庭環境なんてそれぞれで、今やシングル親家庭なんて珍しくも無い。昔は離婚となると世間体やらなんやらでかなりの大ごとだったらしいが、今はどちらかに過失があれば離婚を選ぶ夫婦も多いと聞く。昔に強いられていた我慢をしなくなったと言えるのだろう。


 畑中さんのご家庭が母子家庭になった理由は死別なのかも知れないが、理由を聞くのはさすがに不躾ぶしつけ過ぎる。そこは踏み込んではいけない部分だった。


「せやから家に入れてるお金も、よその実家暮らしの人より多いと思うんよ。節約できるところはして行かんとね」


 紗奈の心臓がどくんと跳ね上がる。紗奈は隆史たかしからからも万里子まりこからも、家にお金を入れろと言われたことが無い。多分清花さやかも入れていないのでは無いだろうか。


 実家暮らしだから、それに何の疑問も抱いていなかった。学生の時と同様に、アルバイトだろうが正社員であろうが、自分で働いて稼いだお金は自分が自由に使えるものだと思っていたのだ。


 紗奈はおずおずと口を開く。


「あ、あの、実家暮らしの人が家に入れてるお金って、だいたいどれぐらいなんでしょう。平均とか……」


「ん? 多分やけど3万ぐらいと違う? 年齢によって変わって来るかも知れんけど。勤めとったら基本給も上がるからな」


「そ、そうですよね」


天野あまのさんもそんなもんやろ?」


「あ、あはは」


 紗奈は笑う様にごまかすことしかできなかった。畑中さんは紗奈がお金を入れていると思い込んでいる。それほど多くの人がそうしていると言うことだ。


 同じ実家暮らしでも、紗奈と畑中さんではまったく事情が違う。母子家庭ということだから、お母さまも働いているのだろう。そうしながら家事をし、子育てをして来たのだ。畑中さんもお手伝いをしているのかも知れない。紗奈は自分がどれだけ実家に甘えているのか、あらためて思い知らされることになった。


 紗奈はもっとしっかりしなければと、心の底から恥じ入る。成人して、就職もして、もう大人なのだから。


 紗奈に何ができるだろうか。畑中さんと一緒なのに思考の沼に落ちそうになってしまう。紗奈はどうにかそれを一旦棚上げした。


「あの、畑中さんはお母さまのお手伝いとか」


「うん、手伝いっちゅうか、週末は一緒にやってるな。うち、母は定年退職して、今は時短のパートやねん。私は残業あるし、平日の家事は任せてる。週末は私に予定が無かったら、できるだけ私がやって。ただなぁ」


 畑中さんは困った様に苦笑いを浮かべた。


「私、料理できひんねん」


「そうなんですか?」


 なんとなくなのだが、畑中さんはなんでもできる様な人だと思っていたのだ。潔癖けっぺき気味だと言っていたが、クールなイメージで、仕事だってばりばりしている。あまり話したことが無いなりの印象に過ぎないのだが。


「そうやねん。なんでかレシピ見ても美味しいのが作られへんのよ。身内以外の手作りご飯が食べられへんのはほんまやけど、まぁろくに料理ができひんのよ。せやからここ1ヶ月ぐらいで、牧田まきたさんや岡薗おかぞのくんに美味しいって言わせる料理作れる様になるん、天野さん凄いなぁって」


 畑中さんは言って、また無意識なのか口元に穏やかな笑みを浮かべる。


「でも私、レシピを見てやっとで。まだまだ要領も良う無くて」


 紗奈が慌てて言うと、畑中さんは「それでもや」と表情を緩めたまま小首を傾げる。


「ちゃんと美味しいものが作れるっていうのが凄いねん。せやから自信持ってええと思うで。あほらしいと思うけど、この時代になってもな、料理ができる女性の方が重宝ちょうほうがられるんよ。天野さんの彼氏がどういう人なんかは私はよう知らんけど、喜んでくれるんと違う?」


「あ、この前作ってみたんです、グラタンやったんですけど。私が料理をする様になるまでは、彼が作ってくれることもあって」


「ああ、柔軟な人なんやな。一緒に作っても楽しいかも知れんな。私、料理できひんって理由で振られたことがあんねん」


「ええっ!?」


 こんな素敵に笑う人をそでにするなんて信じられない。紗奈はつい大きな声を出してしまい、慌てて口を押さえた。


「もう今は吹っ切れてるからええねんけどな。そんなちっちゃい男、こっちから願い下げや。仕事できひん男かておるっちゅうのになぁ」


 こうしてあらためてじっくり話をしてみると、畑中さんはさっぱりとした女性なのだなと、最初の印象からはそう大きくずれていなかったことにほっとする。こんなに話してくれるとは思わなかったのだが、少しでも打ち解けてくれているのなら嬉しい。


 こうして紗奈と畑中さんは、思いもよらなかった恋バナで盛り上がったのだった。

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