第12話 少しずつ、ゆっくりと
「よっしゃ、運ぶで。味噌汁とご飯頼むな」
「は、はい」
「
紗奈が給湯室を出ると、岡薗さんは応接セットのテーブルに煮物を置いているところだった。紗奈も焦るが、万が一つまずきでもしてお料理が台無しになったら大変だ。
ペースを崩さない様に運び、トレイをテーブルの空いたところに下ろすと、岡薗さんと牧田さんが
「ありがとうございます。遅うなってしもてすいませんっ! 私が慣れへんでとろとろしてしもたから」
時計を見ると、12時を10分ほど過ぎてしまっていた。紗奈が慌てて謝ると、牧田さんは「大丈夫やよ〜」とのんびり言う。
「料理は慣れやからね。そのうち早よできる様になるから。そしたら手際も良うなって行くからね。そしたらひとりででもできる様になるやろうし」
「私、ひとりでお料理できる様になるんでしょうか」
紗奈が自信無さげに言うと、岡薗さんも牧田さんも「大丈夫大丈夫」とおおらかに笑う。
「俺かて、料理し始めた時は、そんなうまくできひんかったで。まぁ俺は必要に駆られて始めたんやけど、やってみたら慣れへんながらも楽しゅうてな。そのまま今や」
「私も、し始めん時は巧くできひんかったんよ〜。でも結婚するてなったら一応主婦になるんやから、せえへんわけにもいかへんでねぇ。ほら、今みたいに旦那と家事分担って時代や無かったから」
岡薗さんの事情は分からないし、牧田さんの詳しい年齢も知らないが、おふたりとも紗奈を励まそうとしてくれているのは判る。紗奈はありがたくて「ありがとうございます!」と頭を下げた。
「まま、冷めんうちにいただきましょう。今日は何やろか」
「
そうか。これは旨煮と言うのか。家でも出ていると思うが、万里子はいちいちお料理の説明をしないので、普通の煮物だと思っていた。と言うものの煮物と旨煮の違いなど判らないのだが。
「それは美味しそうやねぇ」
牧田さんの表情がふわりとほころぶ。いそいそと「いただきます」と手を合わせた。岡薗さんも手を合わせ、紗奈も後に続いた。
「いただきます」
味付けは岡薗さんがしてくれたから、何の不安も無い。紗奈はまずお茶碗を持ち上げた。白いお米をお
白いご飯を美味しいと思える様になったのは最近だ。それまではあまり味を感じないと言うか、その旨味を感じ取ることができなかったのだ。なので海苔やふりかけなど、ご飯のお供があれば嬉しかった。
だが高校を卒業するころには、白米の美味しさが分かって来た。成長して味覚が変わったのだろう。大人になったと言うことなら嬉しい。
そしてお茶碗を受け皿がわりにし、旨煮を口に運ぶ。豚肉としろ菜がまとうほのかな甘辛さがじんわりと舌に乗る。ふわりとお出汁の効いた優しい味付けだった。なので豚肉の甘みとしろ菜の爽やかな味わいが良く分かる。
続けて
万里子が作るもの以外の手料理をあまり食べたことは無いが、これは万里子のものより穏やかな味わいだった。だが水っぽいとかそういうことは一切無い。お出汁の風味が生きている。
岡薗さんの味付けも万里子の味付けも、紗奈は好きだし美味しいと思う。優劣なんて付けられるはずは無い。ただそれらのお料理に込められた暖かさは、じんわりと心と身体に染み入るのだ。
「おいしい……」
紗奈はほうっとなり、目を細めてしまう。
「岡薗さん、旨煮めっちゃ美味しいです」
「ありがとうな。でも
「とんでも無いです。私は足を引っ張ってしもうただけで」
紗奈が恐縮して身を縮こませると、岡薗さんはあっけらかんと「いやいや」と言う。
「始めたばっかりやねんから、そう自分を
「そうよぅ。お料理だけや無く、どんなことでも最初は巧くできひんもんでしょ? せやから大丈夫よ」
牧田さんも慰める様にそんなことを言ってくれる。すると愛妻弁当をもりもりと食べていた所長さんも「そうやなぁ」とのんびり入って来る。
「料理に限らずやな。仕事も一緒や。今はまだ仕事し始めやから、ややこし無い
デザインの仕事は学校の課題とは違い、様々なクライアントを相手にする。
今もらえている仕事は自分でヒアリングしたものでは無いので、課題の延長線上にいる意識が完全に拭えないのは否定できない。だがそれは間違い無く事務所に利益を生み出すもので、責任を伴うものだ。それを思うと身のひとつも引き締まる。
それは確実に紗奈の「新しいこと」で、確かにこれからどんなお仕事を任せてもらえるのか、自分が
だがそれは、スキルがあるから思えることでもある。
お料理は紗奈にとって未知の領域だ。授業で
自分はこんなにも後ろ向きな性格だっただろうかと、紗奈は自分自身で驚いてしまう。多分岡薗さんに迷惑を掛けてしまったこと、時間内に完成できなくて牧田さんを、所長さんを待たせてしまったことが尾を引いているのだと思う。
「なぁ、天野さん、もしかして俺とか牧田さんに悪いことしたとか思ってへんか?」
岡薗さんに図星を突かれ、紗奈は弾かれた様に顔を上げた。
「やとしたら、それはほんまに気にせんで欲しいわ。正直言うてな、俺も牧田さんも作りたての昼めし嬉しいし、料理も好きな方やと思うけど、できたら頻度減らせたらええなぁぐらいは思うねん。せやから天野さんが料理部に入ってくれて助かるんや」
「そうそう。私も家庭があって、家に帰ったら毎日晩ごはん作らなあかんから、本音を言うと作る回数減るん嬉しいんよ。実はねぇ、このお料理部があるから、夫と子どものお弁当作るんが免除になってるところがあんの。せやから毎日せんでええの助かってるんよ。で、天野さんが入ってくれてさらに減るから、ええんよねぇ」
岡薗さんに続き、牧田さんからまで暖かい言葉をもらって、紗奈は救われる思いである。だが。
「でも、岡薗さんのお手間を増やしてしもうて」
「そんなん、天野さんがひとりで作れる様になるまでの短期間やろ。料理って向き不向きもあるやろうけど、それこそ最初からレシピ見ながら料理する猛者かておるんやし。そんな難しいもんや無いで。全国の「シュフ」が男女関わらずやっとるもんやねんから。同じ人間なんやし」
また大きなくくりが出て来たものだ。だが牧田さんも岡薗さんも、そして万里子も最初は初心者だったはずだ。それを何度も繰り返し経験して上手にできる様になったのだ。ならきっと紗奈にもできるはずだ。
美味しいものが作れる様になるかはともかく、やっていれば包丁だってもっとちゃんと扱える様になるだろうし、きっと細い千切りだってできる様になると思う。
くよくよしている場合では無い。少しでも岡薗さんにご迷惑を掛けない様にしなくては。少しでもお役に立たなくては。
「あの、私自分でも勉強とかしたりして、少しでも早よひとりでできる様になりたいんで、どうぞよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしくな」
「よろしくねぇ」
岡薗さんと牧田さんが快く迎えてくれ、紗奈はほっと胸を撫で下ろす。所長さんはそんな紗奈たちのやりとりを、心配する風でも無くにこにこと見守っていた。
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