第4話 ビジネス研修の憂鬱

 翌日から通常勤務である。朝ごはんを食べ終えた紗奈さなは部屋に戻って準備をする。服はネイビーのカットソーに淡いグレイのカーディガンを合わせ、下はミモレ丈のカーキのフレアスカートにする。アクセサリーは無し。あまり華美で無い方が良い気がするからだ。紗奈はまだ入社2日目のぺーぺーなのである。


 お化粧もいつもの様に軽く。CCクリームを指先で薄く伸ばしてから粉をはたき、アイメイクは細くアイラインを引いて、ブラウンのシャドーを淡く、眉も隙間を埋める程度。口紅もベージュに近いピンクを薄っすらと。


 バッグも今日からは大きめの淡いベージュのトートだ。お財布やスマートフォンなど、必要なものを詰める。おっと、ハンカチも入れなければ。昨日買い揃えたペンなども入れている。


 マグカップも緩衝材かんしょうざいに包んで収めた。食器棚の奥に使っていないカップがいくつかあったので、その中から好みのものをもらった。黄色地に浅葱あさぎ色の大きなドット柄だ。容量も大きいのでたっぷり淹れられるだろう。


 黒のサブバッグには大学生の時から使っていたデザインの指南書を数冊入れた。課題などで何度もお世話になったものたちだ。これからもきっと役に立ってくれるだろう。


 準備を整えてダイニングに戻り、万里子まりこが作ってくれたお弁当をトートバッグの隙間に入れた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃーい」


 笑顔の万里子に見送られて家を出た。




 そして約30後、紗奈は事務所のデスクでiMacも立ち上げないまま、所長さんに与えられたビジネスマナーの本を開いていた。


 電話での受け答えの仕方、名刺の渡し方に受け取り方、お茶の入れ方や出し方、報告・連絡・相談、いわゆるほうれんそうの重要性、ビジネスメールの作成方法、などなど。


 昨日の気合いはどこへやら、正直言って退屈だった。社会人として、会社勤めをする人間として必要なことなのだと分かっていても、きっちりとした活字を前に目が滑ってしまう。


 だが紗奈はどうにか集中しようと本を開く。傍らにはルーズリーフのレフィルと黒のボールペン。目の前にパソコンがあるのだから、まとめるのならエディタなどのアプリを使えば良いのだが、自分の手で書くことで覚えられると、所長さんに言われたのだ。


 デジタルネイティブの紗奈にとっては非効率の様な気もするが、確かに記憶するには実際に書いた方が良いと聞いたことがある。紗奈は本から重要だと思われることを抽出してレフィルに丁寧に書いて行った。


 そうしていると、どうにか時間も進む。ふと壁に掛けてある時計を見ると、もうすぐ11時になろうとしていた。あと1時間と少しがんばろう。紗奈は事務所の備品であるティーパッグの紅茶を淹れたマグカップを傾け、また本に向き直った。


 その数分後、紗奈の正面で静かに仕事をしていた牧田まきたさんが立ち上がる。紗奈はつられる様に顔を上げ、その勢いのまま給湯室きゅうとうしつのドアの上に掛けられている丸い時計に視線を移すと、11時になっていた。


 牧田さんは背面にある給湯室に入って行く。少しすると戻って来て、黒いショルダーバッグを肩に掛けた。


「所長さん、行って来ますね」


「あ、もうそんな時間か。行ってらっしゃい」


 畑中なたなかさんと岡薗おかぞのさんも「行ってらっしゃい」と声を掛ける。紗奈も少し戸惑いつつ「行ってらっしゃい」と続く。牧田さんはぺこっと頭を下げ、事務所を出て行った。事務員の牧田さんには銀行に行ったりそういう業務もあるのだろう。


 紗奈はまた本に集中した。




 牧田さんが帰って来たのは、そのおよそ30分後。


「ただいま戻りました〜」


 皆さんが「お帰りなさい」と迎える。牧田さんの肩には膨らんだエコバッグが掛けられていた。仕事中にお買い物? 紗奈は不思議に思うが、それを声には出せない。まだそこまでこの事務所に馴染んでいない。


 牧田さんはショルダーバッグをデスクに置き、エコバッグをかついで給湯室へと入って行った。そこで紗奈は、ああ、事務所に必要な買い物だったのだなと思い至る。来客もあるだろうし、お茶やお茶菓子などが要るのだろう。


 しかし牧田さんはしばらくしても給湯室から出て来なかった。確かにエコバッグの大きさからしてそれなりの量を買い込んで来たのだろうから、片付けるのにも時間が掛かるのかも知れない。




 それから何分経ったのか、所長さんが声を上げる。

「そろそろ昼ごはんにしよか」


 紗奈はその声に弾かれる様に顔を上げ、時計を見ると確かに12時になっていた。牧田さんはまだ給湯室から出て来ていない。さすがに長過ぎないか? そう思った時、がちゃりと給湯室のドアが開いた。


 出て来た牧田さんの手にはトレイがあり、その上には湯気を上げるお料理がふた皿乗せられていた。給湯室は牧田さんのデスクの後ろ、応接セットの近くにあるので、紗奈のデスクからは向かって正面になる。ばちっと目が合った牧田さんはふんわりと微笑んだ。


 そこで横の岡薗さんが立ち上がる。


「牧田さん、ありがとうございます」


「はいはい。あとはご飯とお汁物持って来るからね〜」


「俺、運びますよ」


 牧田さんがトレイのお料理を応接セットのテーブルに置き、入れ替わる様に岡薗さんが給湯室に入る。出て来た時には別のトレイを持っていて、そこにはご飯を盛ったお茶碗とお椀が乗っていた。


 一体何事? もしかして牧田さんは給湯室でお料理をしていたのか? 紗奈が首を傾げると、紗奈の後ろを通った所長さんが言った。


「これはな、うちのお料理部やねん」


 紗奈はビジネスチェアごと振り返る。


「お料理部、ですか」


「そう。岡薗くんと牧田さんのふたりな。交代で昼ごはん作ってんねん」


「所長さんはされへんのですか?」


「僕は奥さんの愛妻弁当があるから」


 所長さんは口角を上げ、唐草模様の巾着に入れられたお弁当を胸元に持ち上げた。


「畑中さんは」


 斜め前の畑中さんを見ると、畑中さんはネイビーのハンドバッグを手に立ち上がった。


「私は潔癖けっぺき気味で、家族以外の手作り苦手やねん。所長、行って来ます」


「はい、行ってらっしゃい」


 牧田さんと岡薗さんも「行ってらっしゃい」と声を掛け、「行ってきます」と畑中さんは事務所を出て行った。


「畑中さんはいつも外食や。天野さん、お昼は?」


「あ、私もお弁当です」


 紗奈はデスクの下に置いた自分のバッグから、赤いナフキンに包まれたお弁当を出した。


「お、自分で作ってるん?」


「いえ、母が。父と姉の分と一緒に」


「そら羨ましい。いや、僕も奥さんに作ってもらってるんやけどな。詰めるのは自分でしとるけど」


 紗奈は詰めるのはもちろん、ナフキンに包んでもらうまで全て万里子にしてもらっている。なんとなく後ろめたくなってしまって、ごまかす様に「あはは」と小さく笑った。


「僕らと一緒にソファで食べる? 席ででもええし」


「あ、ご一緒させてください」


 そう応えてお弁当を手に立ち上がる。


 紗奈は職場でのコミニュケーションは大事だと思っている。就職活動中にたくさんの先輩にお話を聞いたが、人間関係が大切だと言う先輩と、必要無いと言う先輩とにはっきりと別れていた。


 紗奈の印象としては、前者の先輩ほど生き生きとしている様に見えたのだ。


 確かに職場は仕事をするところなのだから、不要だと言うのも判る。そう言う先輩たちは飲み会などもほとんど断っているのだと言う。


 だが紗奈はどうせなら少しでも楽しく仕事がしたい。仕事中の私語は褒められたことでは無いだろうが、上司や先輩と話しやすくするのは、仕事の上でも重要だと思うのだった。

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