第3話 いざ、入社式へ

 大阪市南部の繁華街、天王寺てんのうじ。大阪メトロ御堂筋みどうすじ線および谷町たにまち線を始め、JR西日本と阪堺はんかい線が乗り入れている。阪堺線は路面電車だ。近鉄電車も阿倍野橋あべのばしの駅名で発着している大きな街である。


 紗奈さなが今日から勤める会社がある街でもある。今現在日本でいちばん高いビルあべのハルカスが有名だ。ここ数年で再開発され、新しい部分と昔ながらの風情ふぜいを残す界隈かいわいが混在している。


 そんな風に発展している天王寺だが、ほんの少し離れれば芝生の広場が広がるてんしばが整地されていて、奥には天王寺動物園のゲートがある。天王寺動物園には通天閣つうてんかくゲートもあり、徒歩で観光地でもある新世界に行けたりもするのだ。


 大阪で最もディープな街と言われている新世界は、今でこそ女性や子どもひとりでも安全に歩ける街になったが、昔は危険とされていた。スパワールド世界の大温泉と、今や建物すら無いフェスティバルゲートのオープンが治安好転のきっかけだったと思う。


 今では星野リゾート系列のホテルOMO7オモ・セブン大阪まで完成し、ますます観光客が増えると見られている。


 御堂筋線で天王寺駅に移動して西改札口から降り立つと、人の流れに乗って就職先へと向かう。通勤ラッシュのこの時間帯、仕事におもむく会社員で地下街は埋め尽くされる勢いだ。


 そうして到着した、就職先が入っている雑居ビル。青い外壁に少しばかり汚れが見える。5階建てのこぢんまりとしたビルだった。


 このエリアは再開発地域からわずかに外れていて、ビルも年月を感じさせるものだ。周りには人気のたこ焼き屋さんやもんじゃ屋さんなどがある。


 紗奈はついごくりと喉を鳴らす。昨日は雪哉さんに「少し緊張する」と言っていたが、いざこうして目の前にすると、心臓が早打ちを始める。


 ここに来るのは初めてでは無い。面接でも来ているし、上司となる人物とはすでに顔を合わせている。


 アルバイトはしたことがあるが、正社員として働くのは初めてである。それがどれだけ大きなことなのか、責任が生じるものなのか、緊張と言うより少し不安がもたげる。だがそれと同時に高揚感もあった。


 大学で学んだ技術やセンスがどれだけ通用するのか。プロの世界に飛び込む楽しみもある。


 小さなエレベータを使い、就職先が入っている3階まで上がる。このビルはワンフロアにテナントは1室だ。年季を感じるが綺麗に磨かれている白いドア。そのドアノブに手を掛ける。


 紗奈は小さく息を吸い込み、その分を吐く。そして気合いを入れる様に唇を引き結ぶとドアノブを回した。


 ドアを開くと、整えられたオフィスが広がる。向かい合わせに並べられる揃いの白いビジネスデスクとビジネスチェアが4セット、壁際には背の高いグレイのスチール棚がずらりと置かれ、最奥には大きな窓があり、その前に置かれているビジネスデスクはこちらに向けられている。コンビニにある様な大きくて立派なコピー機もあった。


 手前右側のパソコンだけが置かれたデスク以外には、すでに社員さんと思しき人が着いていて、紗奈は全員の注目を浴びてしまい一瞬怯んでしまう。だがうろたえてはいけないと、勢い良く深く頭を下げた。


「おはようございます! 今日からこちらでお世話になります、天野あまの紗奈と申します!」


 すると最奥のデスクに掛けていた男性、かつて面接をしてくれた人物が「おはようさん」とのんびりと立ち上がる。歳の頃は30代後半ぐらいだと思う。体型は少しばかりふっくらとしていて、赤いパーカーとブルーのデニムという格好だからか若々しい。少し長めの髪は濃いブラウンに染められている。その人物はゆっくりと紗奈に近付いて来た。


「こちらこそよろしく頼むわな。おおい、皆、ええか」


 彼がそう広くは無い社内に響き渡る声を上げると、皆さんがぞろぞろと立ち上がる。


「今日からここで働いてもらう天野紗奈さんや。よろしゅうしたってな」


 すると皆さんも「よろしくお願いします」と頭を下げてくれた。


「僕は面接の時にも会うたな。あらためて、ここの所長の宇垣うがきや。皆、自己紹介したってくれるか」


「あ、ほな俺から」


 そう言って軽く右手を挙げたのは右側の奥の席の青年だ。チャコールグレイのスーツ姿で、黄色のネクタイを締めていた。しなやかさを思わせる体型で背が高く、黒い髪はふわりと波打っている。


「これまでここの最年少やった、岡薗おかぞのと言います。よろしくな」


「よろしくお願いします」


 いかにも好青年といった感じの人だった。歯が白く光ってもおかしく無い様な。


 その後岡薗さんが目線を向けた先には、また若そうな女性。岡薗さんの正面の席である。明るいブラウンの髪は背中までまっすぐ伸びていてさらりと美しい。すらりとした華奢きゃしゃな身体に、黒地に細かな花模様のワンピースを着こなしていた。


「私は畑中はたなかと言います。よろしくお願いします」


 少しばかり神経質そうな気配があった。だが言葉使いが丁寧で嫌な感じはしない。クールなイメージである。


「よろしくお願いします」


 そして最後。左側の手前の席の小柄な女性は、おそらくこの会社でいちばんの年上だ。紫色のカットソーに黒いタイトスカートという、シックかつシンプルな服装である。白髪混じりの髪は、襟足でちょこんとお団子になっていた。


「私は牧田まきたと言います。事務で、唯一のパートなんよ。天野さん、よろしゅうね」


 穏やかな口調だった。いわゆる「おばちゃん」なのだが、大阪のおばちゃんに多い押しの強さが感じられない。もしかしたらそういう一面もあるのかも知れないが、少なくとも今のところその印象は無かった。


「よろしくお願いします」


「ありがとうな。ほな皆、仕事に戻ってな。天野さんはこっちな」


 そう言う所長さんに案内されたのは、社内のすみに設えられてある応接セットだった。淡い茶の木製のローテーブルを挟んで、生成きなり色の革製のふたり掛けソファが対面で置かれている。


 奥の席にうながされ、紗奈は恐縮しつつも、所長さんが正面に座るのを待ってから腰を降ろした。


「天野さん、入社おめでとう」


「ありがとうございます」


「これ、辞令や。こんな小さな事務所やけど、こういうことはきちんとしとかなな」


「ありがとうございます」


 紗奈は差し出されたA4サイズのそれを、つつしんで両手で受け取る。大きめな文字で「辞令」とあり、紗奈のフルネームと今日の日付、それと「デザイナーとしての勤務を命じる」とあった。


 ここは「宇垣デザイン事務所」と言う名のデザイン事務所なのである。平面デザインを主に、既クライアント限定でウェブデザインを平行して行なっている。


 デザイナーになりたかった紗奈は、クリエイティブ学科のある大学でデザイン制作に必要なことを学び、就職活動では大小様々なデザイン事務所や、部門を持つ会社の入社試験を受けた。なかなか採用通知を受けることができなかったが、欠員が出たばかりの宇垣デザイン事務所にどうにか拾ってもらえたのだ。


 今日は入社式だけだと聞いているので、仕事らしい仕事は無い。昼前には退勤することになっている。


「入社式や言うても天野さんひとりやし、特に何かすることがあるわけや無いしな。なんや祝辞とか、普通の会社とかやったらあるんやろうけど、そういう柄でも無いわな。でも明日ビジネス研修はやるから」


「はい。よろしくお願いします」


 紗奈には社会人経験が無いのだから、デザインはもちろんだが、ビジネスマナーなどをきちんと学ばねばならない。研修があると聞いているので、それをあてにして予習などは特にしていなかった。


「それと天野さんの席は、空いてるあそこな。岡薗くんの横や」


「はい」


「まずは交通費とか給料の振込先とか、入力して欲しいねん」


「分かりました」


 所長さんに続いて立ち上がると、紗奈は空いていたデスクに着く。この事務所はマックOSを使用していた。24インチ薄型と大きなiMacで、外付けのドライブがいくつか周りに置かれている。紗奈は背面の電源ボタンを押してiMacを起動させた。


 グラフィックデザインやDTP黎明期れいめいきはマックOSが使われることが多かった。アプリなどの作業環境が充実していたからである。だが今ではウィンドウズオペレーションも増えている。日本ではウィンドウズユーザーが圧倒的に多いことも背景にあるのだろう。


 紗奈は大学で、マックOSとウィンドウズOS両方の扱い方を勉強していた。アプリそのものはともかくとして、このふたつのOSは操作性が異なる。紗奈はこの事務所に就職が決まってから、大学ではできるだけマックOSを使う様にしていた。なので操作には慣れている。


 言われた通り交通費の詳細と給与の振り込み先を、指定されたエクセルのファイルに入力すると、入社に関することは終了してしまう。紗奈は予想以上に早い時間に解放されることになってしまった。拍子抜けとも思えたが、ほっともしていた。


「じゃあ、明日からよろしくな。あ、服装は自由やから。岡薗くんはスーツにこだわっとるからあれやけど、他の人も僕も私服やし、好きなん着て来てな。ああ、それとお茶とかコーヒーなんかは給湯室で好きにれてくれてええから。皆給湯室に自前のマグカップ置いとるわ。天野さんも持って来たらええわ」


 丁重にもビルの下まで見送りに来てくれた所長さんの言葉に「はい、わかりました」と応え、ゆるく手を振る所長さんに何度もお辞儀をしながら、紗奈はその場を辞した。


 さて、どうしようか。天王寺駅までのんびり歩きながら紗奈は考える。お昼ご飯は家で食べると万里子まりこに言ってあるので、昼までに帰れば大丈夫だ。


 スマートフォンで時間を見ると10時過ぎだった。あべのハルカスの近鉄本店にでも行こうか。何か催事をしているだろうか。各地の物産展は心が踊る。それともキューズモールかMIOで服でも見ようか。平日の午前中だからどこもまだいているだろう。


 そういえば、先輩方のデスクにはペン立てなどがあった。基本作業はパソコンでするだろうが、アナログで朱書きを入れたりすることもあるだろう。近くのアンドにはロフトが入っていた。そこで揃えようかと、向かうことにした。

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