〈五〉旅路

 雪の降り積もる街道を親父と二人、沈黙を引き連れ縦に並んで歩く。グイの足跡や馬車の車輪の跡はその上に降った雪のせいで薄く、凍った地面が足の力を奪っていく。

 まだ時刻は朝の六時、カヴァロと周辺の町を繋ぐ乗合馬車すら走っていない時間だ。馬車と言ってもこの時期は馬よりも寒さに強いグイが引くものだから、この呼び方は少し違う気もする。だけどあの二種は近縁らしく、馬と一括りにして呼ぶ者も多いから、馬車という言葉しかないのはそういうことなんだろう。まあ、近いと言ってもサルと人くらいには離れているらしいけれど。


 なんて、どうでもいいことを考えていないと駄目になりそうだった。この二日間の町の人達の反応で、ここにはいられないという親父の言葉が正しいということは理解した。

 だけど、理解しただけだ。なんでオレ達が町を出なきゃならないんだ――その不満はオレの腹の底にどっかりと居座って、いくら正論を用意したところで動いてはくれなかった。


「――これからどうするんだよ」


 沈黙に耐えかねて親父の後ろ姿に問いかければ、「北へ向かう」と返ってきた。


「北? なんで?」

「北はイースヘルムが近いから妖精信仰のある土地が多いんだ。余所の土地の人間は俺達のことは知らないが、人の噂はどこまで届くか分からない……妖精信仰のある町なら、俺達のことを知っても受け入れてくれる可能性が高いからな」

「ふうん……」


 無策ではなかったのだという安堵は、言い知れぬ不安に塗り潰されそうになった。


 イースヘルムは氷の女神症候群スカジシンドロームのやって来た土地だ。ミカネ達の薬について調べていた時、そこに治療薬の原料となる薬草が生えていることを知ったものの、オレも親父も自分で採りに行こうとは思わなかった。

 何故ならイースヘルムは危険すぎるからだ。最高気温零下マイナス五〇度、いくら装備を整えても、一歩間違っただけでたちまち普通の人間は死に至る。

 人間よりもよっぽど寒さに強いグイでさえ生きてはいられない。滞在が小一時間で済むのならともかく、薬草の見た目も生態もよく分からないのにそんな短時間で用を終えることなどできるはずがない。まだ地道に金を稼いだ方が命のリスクもないし現実的だ――というのがオレと親父の出した結論だった。

 だけど今思えば、その捨てた考えに賭けた方がまだマシだったのかもしれない。命懸けで薬草を探していれば、ミカネと母さんは助かっていたのかもしれないから。そんなことはないと分かっているのに、やらなかったことへの後悔はずっと影のように付き纏う。


 イースヘルムはオレにとって、自分の無力さを思い知らせてくる場所だった。それはきっと親父も同じだろう。だからいくらその近くの町を目指すと言ったって、なんでわざわざそんな嫌な場所に近付こうとするのか理解できなかった。

 確かにオレ達のことが知られる日は来るかもしれない。でもそれは絶対ではないし、その時何年も無事に生きていればわざわざ蒸し返すようなこともされないだろう。


「とりあえずグズリまでは徒歩だな。そこから北へ向かう乗合馬車を乗り継いで……その先は地図でも見ながら考えようか」

「グズリって馬車で半日かかるじゃん! うわ……今日中に着くのかよ……」

「着かないと野宿だ。無駄話してないで足動かせ」

「……へーい」


 久しぶりに聞く師らしい親父の声に、オレにはそれ以上文句を言う気は起こらなかった。



 § § §



 カヴァロの町を出てからは、長いのか短いのかよく分からない不思議な時間が過ぎていった。

 親父の言う通りグズリまでは歩いて行った。もう少し近い町もあったけれど、そこは近すぎてオレ達のことが知られているからと立ち寄りもしなかった。

 グズリでは一晩の宿を取った。だけど零下マイナス一〇度という気温の中、丸一日かけて歩いてきたせいでどう過ごしたかほとんど記憶にない。食事はどうにか口にしたものの、オレも親父もうつらうつらとしながらどうにか流し込んで、宿に帰ると倒れるように眠りについた。


 翌日以降はグズリから北へ向かう乗合馬車をいくつも乗り継いだ。親父が移住先の候補を探し始めたのは、確かグズリから四つ目の町からだ。そこはカヴァロとはグイの足でも五日ほどの距離があって、ここまで離れていればなかなか噂は伝わってこないだろうと親父は言った。


 でも駄目だった。そこには妖精信仰がなかった。それどころか氷の女神症候群スカジシンドロームの患者は酷く差別されていた。オレはこのあたりでやっと、カヴァロが氷の病の患者に対してかなり寛容なのだと知った。そして、親父がイースヘルムに近付いてまで北を目指す理由も。


 行く先々で氷の女神症候群スカジシンドロームに対する人々の考え方に触れた。患者に対してだけではない。大抵は患者の家族でさえも差別の対象で、安全のために周知されるはずの発症情報はもはや人々の鬱憤の捌け口となっていた。

 誰かが発症すれば、その患者を住民全員で爪弾きにする。庇うことは許されない。患者に関わろうとした時点でソイツも同罪、何度か声を上げようとしたオレを親父は必ず止めた。

 最初はそんな親父にも怒りが湧いたものの、段々とそれもなくなっていった。これが一般的な氷の女神症候群スカジシンドロームなのだ。カヴァロは特殊だったのだと、自分達は恵まれていたのだとオレは思い知らされた。……納得は、まだできないけれど。


「――ここは平気そうだな」


 何個目かの新たな町。そこで少し過ごした後、親父がほっとしたように言った。ノヴォーラヴァという名のこの町は、三階の宿の部屋の窓から小さくギョルヴィズが見える。つまりイースヘルムの目と鼻の先、近隣にはこれ以上近くに町はない。


「念の為何日か滞在して様子を見てみよう。仕事や学校も探さなきゃな。まだ決まりじゃないが、この町になかったら何か考えなきゃならん」


 言いながら、親父がマフラーを上に引っ張った。宿の中だというのに最近親父は食事と寝る時くらいしかマフラーを外さない。一度指摘したら無精髭で人相が悪いことを気にしていると親父は言っていたが、オレからしたら全くそんなことはなかった。

 それでも本人が嫌がるのなら何度も指摘するのは気が引ける。だからオレは見たものを頭の中から追い出すと、「妖精信仰があるんだろ?」と会話を続けた。


「だったらそんなに何日もかけて確認しなくてもいいんじゃねェの?」

「聞いた話じゃ妖精信仰にも色々あってな。ただ氷の病に寛容なタイプと、患者を妖精の使いとして祭り上げるタイプがあるらしい。で、妖精の使いだと思ってる場合は全く悪意なく変な儀式の生贄にされることもあるんだとよ。まあ、噂だからどこまで本当かは分からないけどな」

「げ、こわ……」

「流石にそんな町には住みたくないだろ? 患者じゃなかったとしても、患者の家族だからって理由で狙われるかもしれない」

「まァ、うん。それは確かに……」


 口には出さなかったものの、正直オレはもう疲れていた。来る日も来る日も移動し続けて、町に着いたかと思えば嫌なものを目にして。すぐそこで起こっているそれを止めることすらできず、ただただ見つめるだけ。

 そうやって傍観する自分は、オレ達を追い出したカヴァロの奴らと何一つ変わらない。自分を守るために嫌なことからは目を逸らす――いつしかそれに慣れてきてしまった自分が、とても気持ち悪く感じた。


「……お前には無理させるな、イヒカ。だけど安心しろ。いつか絶対に終わるから。俺が絶対にお前を安全なところに連れてってやるから」


 親父が辛そうに目を細める。そんな目で見られて文句を言えるはずもなく、オレは「大丈夫だよ」と曖昧な笑みを返した。


 カヴァロを出てから、二週間が経っていた。

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