〈二〉届けない気持ち

 シェイはヒューに連れられて地下道を歩いていた。道幅は二メートルほどで、高さはそれよりも五〇センチほどはあるだろうか。小柄なシェイには不便はないが、背の高いヒューにはかなり窮屈そうに見える。

 それでも向かい側から人が来ない限り二人並んで歩ける程度の広さはあるが、シェイはずっとヒューの後ろを歩いていた。目の前に見えるヒューの腰付近からはガチャガチャと小さく金属のぶつかる音する。分厚いコートで隠されているが、その下にはあの大きな二丁の拳銃があるのだ。


「……まだ買うんですか?」


 地下道から繋がる店のドアにヒューが手をかけたのを見て、シェイはおずおずと尋ねた。シェイの両手には既に紙袋が持たれている。これまでにヒューに連れられていった店で彼が購入したものだ。分厚い手袋に、同じく分厚いマフラー、それから靴に装着するアイゼン――どれもこの地域で暮らすには必要なものだったが、そのサイズはどう見てもヒューには小さいものばかりだった。


「そりゃァな。まだまだ買うぞ」

「仕入れってこんなふうにやるんですね。もっとこう、一気にまとめて買うものだと……」

「ん? まァ物によるな。買取先が決まってるようなモンはドカッといくが、そうじゃなけりゃ馬車のキャパもあるし」


 話しながら二重の扉をくぐって中に入れば、地下道よりも更に暖かい空気と肉の匂いがシェイ達を出迎えた。


「ちょっと見繕ってくるから、その辺で休みがてら待っててくれ」


 ヒューの言葉にシェイは「はい」と頷いて、邪魔にならないよう店の隅で荷物を下ろした。

 その途端、どっと重い疲れが両腕を襲う。ふうと一息吐けば怠さも感じて、シェイはそれを紛らわすかのように周りへと視線を向けた。

 とはいえ狭い店内には奥に商品ケースを兼ねたカウンターがあるだけで、あまり見るものもない。精肉店なのか、ケースや壁には干し肉が陳列されていた。新鮮な生肉のようなものは見当たらない。保存が効くようある程度加工された肉が売られている店なのだろう。


「持てるかな……」


 小さく呟いて、シェイは荷物と自分の腕を見比べた。荷物は重さこそ大したことはないが、取っ手のない紙袋に入っているせいで両手で持たなければならない。歩く速度が速いわけではないものの気怠さもある。ヒューが何を買うのだろうと不安を抱きながらその大きな背中を見ていると、先程入ってきたばかりのドアが開いた。


「ほら、早く閉めて」


 入ってきたのは二人の少年だった。どちらもシェイより背が低く、年齢も下だろう。大きい方の少年はドア付近でもたもたとしているもう一人の少年の手を引いて店内に入らせると、「早く閉めないと寒くなっちゃうんだよ」と言いながらドアを閉めた。

 兄弟だろうか――二人を見ながらシェイはなんとなくそう感じた。兄と見られる方の少年は弟の手を引いて、慣れた様子で店内を進む。小さな二人が先に店員に注文していたヒューの後ろに並ぶと、まるで彼が巨人に見えた。「おっきいね」呟く弟を兄が「しっ!」と窘める。店員と話すヒューには聞こえなかったのか、後ろを気にする様子はない。


「何買うか覚えてるか?」

「くし用のお肉よっつ」

「そう、凄いじゃん」


 兄弟の会話を聞いていたシェイは目を細めた。自分のマフラーに手をやって、ゆっくりと視線を落とす。そうして少しの間ぼんやりしていると、近付いてくる足音と共にシェイに影がかかった。


「待たせたな。これはー……持てそうにないな」


 そう苦笑いするヒューの腕には新たな紙袋があった。彼の手の中では小さく見えるが、今までシェイが持っていたものと同じくらいの大きさがある。


「持ちますよ。荷物持ちですし」

「でも体調良くないだろ? シェイにはこれ重いと思うんだけどなァ」

「ちょっと持ってみてもいいですか?」


 ヒューから紙袋を預かれば、シェイの両腕にずしりとした重さがかかった。紙袋に隠されていた中身は両手で抱えなければならないほどの量があり、肉ということでそれなりの重さになってしまっているらしい。

 感触からして大きな塊肉が入っているのだろうと考えながら、シェイは片手でも持てるように中身をずらして持ち直した。右手でほとんどの重さを受けて、左手からそっと力を抜く。「……途中までだったらいけると思います」腕を襲う重さに申し訳なさそうにシェイが言えば、「いいって、これは元々予定になかったから」とヒューが紙袋を引き取った。


「――足りないの?」


 先程の兄弟の声が聞こえてきて、シェイはそちらに目を向けた。見れば弟の方が不安そうに兄を見上げており、その視線を向けられた兄の背は困ったような雰囲気を放っている。


「そうなんだよ。ごめんねぇ、串用のは今日あんまり数がなくて。昼間のうちにほとんど売れちゃったんだよ」


 店員の女性が言えば、兄が「そうなんですね……」と小さく呟いた。

 シェイがそっとヒューの持っている紙袋を見る。それに気付いたヒューは、「は多分違うな」と困ったように小声で答えながらカウンターの方へと視線を移した。兄弟が見ているのはケースに並べられたこぶし大の肉だ。シェイも先程紙袋を持った時の感触を思い出して、「……そうですよね」と俯くように頷いた。


「兄ちゃん、どうするの? お肉やめる?」

「うーん……でも母さんも準備しちゃってるから。おばさん、三つだけでいいんでください」

「あらいいの? 四人家族でしょ?」

「おれは今度にします。その分他のおかず増やしてもらえばいいだけなんで」

「できた子ねぇ」


 話はどうやらまとまったらしい。しかし兄が会計を進めようとすると、弟が「だめだよ!」と声を荒らげた。


「兄ちゃんくしのお肉好きじゃん! 昨日からたのしみにしてたのに!」

「また今度があるからいいの」

「だめ!」

「駄目って言われても……」

「兄ちゃんはたべなきゃだめ!」


 弟は今にも泣き出しそうな声だった。しかし兄もどうしようもないのか、「今度食べるから」と繰り返しながら苦笑いを返すことしかできていない。


「あんなちっこくても意外と見てるんだよなァ」


 シェイにだけ聞こえる声でヒューが感慨深そうに言う。顎に手を当てているのは恐らく顎髭を触る癖だろう。今はマスクのせいで触れられていない。


「そうですね。僕も時々妹にはびっくりさせられてました」

「そういやシェイ、下に妹いるんだっけか。いくつ?」


 何気ないその問いに、シェイの顔が暗くなる。


「……五歳と一歳です」

「一歳はともかく、五歳だったら色々と分かってるだろうな」


 ヒューの言葉にシェイが更に顔を俯かせた時、「じゃあこれおまけしてあげる!」と店員の女性の声が聞こえてきた。どうやら別のもので四つにしようとしているらしい。

 兄の渋るような声が聞こえてきたが、「ほんと!?」と弟が嬉しそうな声を上げる。ついさっきまでの泣きそうな雰囲気がすっかりと消えたその様子に、「そろそろ行きましょうか」とシェイは逃げるようにして荷物を持ち上げた。



 § § §



 地下道を歩くシェイの足取りは重くなっていた。ヒューはそれに気付いているようで、最初よりもゆっくりと歩いている。


「――懐かしくなったか?」


 後ろに向かってヒューが問いかけると、シェイは「いえ……」と言葉を濁した。


「懐かしい……とは、ちょっと違くて」

「おう」

「さっきのお店の子……あの弟の方の子は、今日の出来事をいつまで覚えてるのかなと思ったんです」


 ヒューが後ろをちらりと一瞥する。しかし彼はすぐに前を向いて、「さあな」と呟いた。


「明日までかもしれないし、大人になっても覚えてるかもしれない。俺だってこんな年だけどよ、あいつらくらいガキだった頃のことでも覚えてることもある」

「そう、ですよね……」


 シェイが答えて数秒。そのまま彼の言葉の続きを待つようにしていたヒューだったが、相手がなかなか話し出さないからか、「ンで、本題は?」と問いかけた。


「ッ……」


 シェイが息を詰まらせる。気まずそうに視線を落とした彼は、少しして観念したように顔を上げた。


「僕、妹の前で氷の病に罹ったんです。二人で外を歩いてる時に突然妹が吐いて……汚れたマスクをマフラーごと妹が取っちゃって……――ほら、まだ五歳ですから。気持ち悪いのを我慢してまで付けていられなかったんだと思います。それで慌てて代わりに僕のマフラーを巻いて、僕は抱きかかえた妹に顔を押しつけて帰ったんですけど……」

「……罹っちまったと。妹は?」

「大丈夫なはずです。ちゃんと毎日体温は測ってたので」

「そうか」


 静かなヒューの相槌の声を聞きながら、シェイはゆっくりと話を続けた。


「妹はまだ、なんで外で直接息をしちゃいけないのかよく分かってないと思います。だからあの時のことは記憶に残らないかもしれない。僕のことだってすぐに忘れるかも……」


 そこで黙ったシェイに、「だけど?」とヒューが問う。問われたシェイは何かに耐えるように目を固く瞑って、しかしすぐに細く開けた。


「……だけど、忘れなかったら。大きくなった時に、あの時何が起こったか気付いてしまったらと思うと……っ」


 そこまで言って、シェイは持っていた紙袋に顔を埋めた。カサ、と紙の折れる音が響く。「忘れて欲しいのか」前方からの声に、シェイは「はい」とそのまま頷いた。


「僕は後悔してないんです、妹を守ることができたから。自分が病に罹ったからこそ、尚更あの判断は間違ってなかったんだって思える。だから僕のことなんて思い出さなくていいのに、もし忘れていなくてあの子が苦しむことになったら……!」


 いつの間にかシェイの足は止まっていた。少しだけ距離の離れたヒューが後ろを振り返る。彼の優しい眼差しにシェイは小さく息を吐くと、「……すみません」と小走りでヒューの隣に並んだ。


「シェイのそういうのはさ、残された方には伝わらないんだよな」


 再び歩き始めてすぐヒューが言う。その声を聞いたシェイが自分を見上げたのに気付くと、ヒューは「意外と難しいんだよ」と言葉を続けた。


「ちゃんと言葉で言えたら違うのかもしれねェけど、それでもその言葉を受け入れてくれるかどうかはそいつ次第よ。さっきの兄弟だってそうだろ? あれは肉の話だけど、多分弟のために兄貴は肉を我慢しようとしてたのに、弟はそれだと気に入らない。目の前で言葉を交わしてるのに噛み合わないんだ、どっちかが伝えることをしなかったらそりゃ伝わらねェよな」

「……でもだからって、『気にしないで欲しい』と誰かに伝えてくれるよう頼んでたら妹が責められたかもしれません。手紙にしたって、いくら大人になってから読んでくれって親に預けたとしても、その時妹が何も覚えてなかったら逆効果じゃないですか」

「お前さんにとっては伝えないことが最善だったってワケだ」

「……そう、なりますね」

「でもシェイがそう考えたってことも、妹は知らないままだ」

「ッ……」


 シェイが辛そうに顔を歪める。自然とヒューよりも歩みが遅くなっていく。そんな彼をヒューは横目で見て、「別に責めてるワケじゃねェのよ?」と苦笑を零した。


「何が一番良いかだなんて人によって違うモンさ。もしかしたらシェイの妹にとっても、お前さんに何も教えられないことが一番良いのかもしれない」

「……でもイヒカから言わせれば、僕は相手のことを何も考えてないらしいですけどね」


 自嘲するようにシェイが言えば、ヒューは「イヒカは残された側だからな」と呟いた。


「え……?」

「弟とお袋さんが順番に氷の病で死んだらしい。そのせいで町の人間に嫌われて、住んでいた家も追われて親父さんと二人で旅をしていたんだそうだ。当時のイヒカはてっきり二人で住む場所を探しているんだと思ってたんだと。でも実際に親父さんが探していたのはイヒカが住む場所と、自分が死ぬ場所だった」

「それって……」


 険しい顔でシェイがヒューを見上げる。ヒューは前を向いたまま「ああ」と小さく頷いた。


「シェイの思ってるとおりだ、親父さんも病に罹ってた。イヒカが気付いた時にはもう親父さんは目的地を両方とも見つけてて、あいつを無理矢理自分から遠ざけたんだ。でもイヒカはどうにか親父さんに生きて欲しいから、一人でイースヘルムを目指して……結局、ギョルヴィズの途中で死にかけたんだけどな。そこを俺が拾って、回復後に親父さんのところに行ったらもう手遅れだった。残ってたのは親父さんが着てた服だけ。氷の一欠片すらそこにはなかった」

「そんな……」


 シェイが顔を青ざめさせる。ヒューも少しだけ視線を落とす。二人の間には数秒ほど静寂が流れたが、「あいつはさ、」とヒューがゆっくりと話を再開した。


「多分親父さんに腹を立ててるんだよ。それが全部じゃないにしろ、『もっと早く言ってくれれば』とか、『自分のことなんて後回しで治療を優先していれば』……ってな。でも親父さんの行動が自分を想ってのものだと理解もしているから、そういう気持ちに行き場がないんだろうな。だから親父さんみたいに他人を優先しようとしてるお前さんに対しても意地になってる。巻き込まれた方はとんだ迷惑かもしれねェけどさ」


 困ったようなヒューの笑顔を向けられて、シェイは居心地悪そうに顔を伏せた。


「ならイヒカからしたら……僕は見ていて相当苛々するんでしょうね」


 呟いた声は小さく、ここが地下道でなければ聞き取れなかっただろう。だがヒューには確かに届いたようで、彼は「そう卑屈になるなよ」という言葉と共に足を止めて、シェイの頭を乱暴に撫でた。


「イヒカは人を嫌うのが下手くそだからな、シェイが絶対に譲らないって分かればなんだかんだ尊重するだろうよ。つまりあいつが怒っているうちは……分かるだろ?」


 シェイの頭からヒューの腕が離れていく。重さがなくなったはずなのに、シェイは「……はい」と答えるのがやっとで、顔を上げることができなかった。

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