第529話 第二次越相同盟と手切之一札
天正元年 三月二十六日 相模 小田原城
なほなほ(いよいよ) その
渡良瀬、桐生の水の利を巡る
わざと(特別に)飛脚をもって申し入れ候。
第一に(まず)申し上げたき儀ありて、
永禄十二年六月越相の盟約の
相模守殿名跡続き(継承)の
今、相甲の盟約なりて、またわれらも越甲和与ありて争い
ゆえにここに、再び越相の盟約を結びたく存じ候。こは(これは)争ふものに非ずして、三者共に栄えるため也と案じ候。
なにとぞ
(元亀二年)九月四日 謙信
相模守殿
「ふむ」
氏政は、昨年の九月に届いた謙信からの文を読み返していた。確かに越相同盟を解消したかわりに甲相同盟が成立し、武田は敵ではなくなった。
越相同盟はもともと利害の一致が難しい同盟であり、存続意義がなくなっていたものである。
しかし謙信のこの提案は、氏政にとって無意味なものではなかった。
すでに関東で謙信の影響力が及ぶ範囲は、東上野の桐生領・厩橋領・沼田領のみとなっており、これは同盟締結時とほぼかわらない状態である。
前回のように北武蔵の割譲などもなく、管領職はそのまま謙信が続けるが、氏政の行動を制限するものではなかった。
もはや謙信は、完全に関東から手を引いた
安房の里見や常陸の佐竹、下総の結城をはじめとして、北関東にはまだまだ反北条の勢力がある。
ここで不可侵の盟約を結べば、背後を気にする事なく関東全域を平定できるのだ。
第二次越相同盟成立以降、上杉領と北条領では盛んに交易が行われた。
わざと(わざわざ・特別に)飛脚をもって申し入れ候。
去る永禄十二年、公方様の御内書によりて甲越の和与(和睦)とあいなりき候へども(なりましたが)、
一つ、弾正少弼(謙信)殿は
一つ、関東管領に任じられしも、昨日今日(最近)は関東ならぬ越中また加賀や越前に面白し(興味がある)様子にて、信義にもとる行ひに候。
一つ、越中静謐を畠山修理大夫殿に任せらるる儀は主上(陛下)のご意趣(意向)にて、われが盟を結びたる小佐々権中納言殿より告げられけり候へども、これに
我は弾正少弼殿と手切れをなさんと案じき
手切之一札と記し候へども(書きましたが)、ただちにこちらより討ち入るものにあらず候。
三月二十六日 大膳大夫
弾正少弼殿
なほなほ 今頃は春日山を
一つ、世と共(いつも)弾正少弼殿におかれては、世の静謐の要は大義名分にありと仰せに候。そは(それは)すなはち、臣として踏み行ふべき重し
一つ、越前はわが所領にて、加賀国と国境を接しており候。
一揆の持ちたる国にて、弾正少弼殿が越中の門徒に掛かる(攻撃する)ならば、合力して当たる(対抗する)は必定にて、さらなる
一つ、主上のご意趣を畠山修理大夫殿に伝えけりは、我が盟を結びたる権中納言殿にて、これに背く事はわれに仇なす者と案じ候。
そもそも(もともと)
以上の
三月二十六日 兵部卿
弾正少弼殿
勝頼も、信長も、弱い。
仕方がないというか、もっともというのが、現実をみると正しいのかもしれない。勝頼にしてみれば、父である信玄ですら手こずった相手である。正面切って敵対などしたい訳がない。
信長にしてみれば緩衝地帯として加賀と越中があるが、北上すればいずれは衝突する仮想敵なのである。
今はできるだけ敵対的な行動はとりたくないはずだ。
しかし純正が前に出る以上、謙信の力を弱めつつ自分の力を強め、早い段階で加賀に侵攻する名分を考えなくてはならなかった。
二人の心情がわかる書状であったが、どう謙信に伝わり、どう行動に関与するのかは、謙信のみぞ知るところである。
■第三師団、甲府着。明日二十七日発、陸路にて北信濃平倉城へ。四月五日着の予定。
■第二師団、飛騨を北上中。塩屋城へは明日二十七日到着予定。
■土佐軍、近江国高島郡海津発。陸路にて敦賀へ。明日二十七日到着予定。
■加賀一揆軍、三月二十九日金沢御坊発予定。
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