第520話 対上杉謙信 純正の調略と荷留・津留の経済封鎖
天正元年(元亀三年・1572年) 三月十六日 京都 大使館
純正は謙信が話し合いに応じ、戦う事なく拮抗状態が維持できればと考えていたが、やはりそれは出来なかった。
第二師団には尾張より木曽川を上って飛騨に入り、越中との国境である塩屋城にて待機、戦闘が始まれば、そのタイミングは現場任せだが、後背をついて混乱させよと命じている。
第三師団は駿河の吉原の湊より富士川を北上、甲府にて陸路に切り替えさらに北上せよと命じた。
その後信越国境の平倉城にて待機し、謙信が通過するのを見計らって越境し、不動山城を急襲して春日山城と謙信を分断する作戦である。
もとより、謙信が何の策もなく行軍するとは考えてはいない。
「直茂よ、これでよいか?」
「は、今のところは最も善きかと。もとより謙信もまたうど(完璧な人)ではありませぬ。いずこかで
「うむ、他に考えのあるものはいるか?」
「は、こたびの
そう発言するのは宇喜多直家である。
今回の戦争は、純正が能登・飛騨・信濃のいずれにいたとしても、戦域が広範囲にわたっている。これはいわゆる軍団規模の広範囲戦闘の実戦なのだ。
広範囲における多方面作戦は今までやってきたが、今回の作戦は過去最大であろう。
そのため純正は以下のとおり指示を送っている。
発 権中納言 宛 第四艦隊司令長官
秘メ 直チニ 出港シ 越後出入リノ 全テノ船ヲ
秘メ 任務 遂行中 越後 水軍ヨリ 攻撃ヲ 受ケナバ タダチニ 応戦シ
発 権中納言 宛 在能(在能登)番所
秘メ 全テノ能登ノ湊ニ 協力ヲ 要請 セヨ 越後ヘノ 寄港ヲ 禁ズ 秘メ
秘メ
秘メ 織田領国 小浜 敦賀 三国 ヨリ 越後ヘ 向フ 船モ 同様ニ 対処 セヨ 秘メ
本来であれば小佐々陸海軍の全兵力をもって、万全の状態で臨みたいところであるが、例によってそれはできない。
第一師団は領都である諫早の防備に充てている。第四師団は南方の予備戦力、海軍も第四・五艦隊が編制されているが、練度がまだまだなのだ。
この状態で戦線に投入できるのが、二万八千名である。
局地戦で終了もしくは飛騨方面軍、信濃方面軍からの攻撃で、謙信を退却させるのを目的とした戦略である。
しかし、やはり謙信を相手取って戦うには一抹の不安が残るのだ。
大砲や鉄砲など、近代火器をを備えた軍隊であっても、負けるときはある。
最後には将の能力と物量が物を言う時があるのだ。そこで純正は、島津義弘他多数の希望があって宇喜多直家に命じていた、後詰めの計画に修正を加えた。
まず、摂津淡路家からは一万二千。
これは、三好長治からの要望で、単純に予算が欲しいので、戦功を立てたいというのが理由である。
堺に押されつつあった大輪田の泊(兵庫)を拡張・整備させ、往時の繁栄を取り戻そうというのだ。これには純正も即納得し、参加を容認した。
兵庫が堺と同規模もしくはそれ以上に繁栄してくれると、将来の対織田戦略に役立つだろうからだ。陸路で琵琶湖南岸へ向かい、水運を使って北上し、敦賀より能登所口湊へ向かう。
次に一条兼定率いる土佐軍は五千二百。
内訳は一条兼定が二千五百、長宗我部元親が千五百、安芸弘恒が千二百である。
長宗我部元親は、浦戸の開発が進んでいるが租借地であるため恩恵を受けづらい。
浦戸湾内部の港湾整備と、物部川を
同様の理由で一条兼定は須崎湊であり、安芸弘恒は室津堀湊ほか川湊の整備である。後述する大名もほぼ同じ理由である。
現代でいうところの、地方自治体へ国が地域振興の予算を割り振る様なイメージだろうか。
次は薩隅日の一万五千。
島津が一万、伊東が三千、肝付が二千である。種子島勢は入っていないが、島津は坊津、肝付は志布志、伊東は油津のそれぞれの整備と南蛮船の誘致である。
南蛮船というのは、ポルトガルだけではなく東南アジア全般を含む。種子島は人口が少ないので、そこでの売り上げはあまり見込めないが、中継地としての利点が大きく寄港していたのだ。
もちろん日本国内からの商人もくる。
次は肥前勢。大将は龍造寺純家(政家)の三千に、相神浦の五百、波多の千に伊万里の五百である。合計で五千であるが、こちらも港湾関係だ。
佐世保湊は鎮守府の関係で優先予算が入っていたが、相神浦松浦家としてはそこから領内各所の整備に、北部の炭鉱への予算である。
波多は唐津湊、伊万里は伊万里湊であった。
龍造寺純家は筑後川の水運とからめて、博多から立花家の所領を通る、自領も含む大流通網の構築である。
筑後の蒲池鑑盛、筑前の立花道雪も賛同している。
純家は純正の一門であり、家臣の直茂が(出向? 支社から本社だから栄転?)しているのもあるし、純正は尊崇の対象だったのだ。
しかし、なんだかこの四人は、兄弟げんかというか、良くも悪くも影響を受け合っているようだ。
最後は旧大友勢。
大友家は小佐々と和睦した際に大幅に厳封され二十万石強となっていたが、豊前に高橋紹運、筑前に立花道雪を配してからも、依然強い結びつきがあった。
組織上は純正の直下であり、宗麟との間に君臣の関係はないのだが、精神的なつながりは一朝一夕に消えるものではない。
それに道雪と紹運も、生粋の大友家臣なのだ。純正は下手に手を出すと暴動の恐れありと考えて、時間をかけて対処しようと考えている。
筑前道雪軍五千、豊前紹運軍三千、計八千である。
「されど、この儀(問題)は早晩解かねば(解決しなければ)なりませぬな。毛利も含め、禍根はまだ残っておりまする」
そう発言したのは黒田官兵衛であったが、小佐々家中の大名知行問題。毛利も含め解決しなければならない問題であった。
純正は小佐々船籍の船全てに越後への通航禁止を言い渡した。織田領国からの船に関しては、売値で買い、そのまま買値で売ったのだ。
また、それでも通航を希望するものには小佐々海軍の経済封鎖を伝え、佐渡の松ヶ崎や沢根を経て、出羽酒田や加茂への寄港を奨めた。
■越中 射水郡 阿尾城(富山県氷見市阿尾字城山)
「殿、小佐々御家中の日高甲斐守と仰せの方がお見えです」
近習の言葉に城主の菊池右衛門武勝は怪訝な顔をする。
「父上、小佐々とは、あの小佐々でしょうか?」
嫡男の十六郎が尋ねる。
「聞き及ぶのは西国の小佐々しかおらぬ、しかし、何用であろうか」
武勝は疑問に思いながらも
「さしくみに(いきなりの)推参(おしかけ)もお目通り叶い、ありがたき幸せに存じまする。小佐々権中納言様が家臣、日高甲斐守と申します」
喜は丁寧に挨拶をした。面食らっているのは武勝と十六郎である。
「……これは、権中納言様の御家中の方とは……見知らぬ(初対面)と思うが、菊池右衛門にござる。遠路くれぐれ(はるばる)とご苦労にござった」
武勝も丁寧に返す。
「して、こたびは何用にござろうか」
「は、されば有り体に(率直に)申し上げまする。お聞き及びかどうかは存じませぬが、われらは勅命をもって能登畠山修理大夫様の命により、越中の静謐を取り戻すよう仰せつかりました」
「ふむ」
武勝の顔がピクリと動く。
「上杉と本願寺両方に文と使者を遣わし、その旨をお伝えいたしたが、いずれも良い返事はもらえませなんだ」
「待たれよ。そはつまり、われらに安芸守殿(神保氏張・守山城主)を裏切れと仰せか?」
「裏切るとは、いささか言い過ぎ、いや、言葉が違いましょう。選ぶ、とお考えを。そも右衛門殿は安芸守殿の郎等(家来)ではございませぬでしょう?」
「……」
菊池一族は九州の名門であり、越中にて射水郡阿尾城、千久里城の一万六千石を治めている。対して守山城の神保氏張は三万六千石である。
「それがしが聞き及びますところですと、その安芸守殿も、宗家の右衛門尉殿(神保長職)、いや今は家督を譲られて孫三郎殿(神保長住)ですかな。間柄はあまりよろしくはないと」
「……」
「こたびのこの話、調略だなんだと、深くお考えになりませぬよう。われらに二心はありませぬ。ただの申出とお考えくだされ。ひとえに越中の静謐を考えるのみにございます」
喜はあまり多くを語らず、阿尾城をあとにした。
「父上、あの者の言、いかがされるおつもりですか?」
「うむ、まだ何とも言えぬが、わしも氏張にうべのうて(従って)おるだけで、あの者の言うとおり郎等ではない。
「申し上げます! 守山城より早馬にて参りました! 主、安芸守様(神保氏張)より陣触れの求めにございます」
「!」
上杉謙信からの要請が神保長住に届き、長住が長張に伝え、いま阿尾城に届いたのだ。
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