第476話 甲斐武田家第十七代当主、諏訪四郎勝頼改め武田勝頼

 元亀二年 九月十日 躑躅ヶ崎館


(さて、どうするか……)


 勝頼は、夜も更けた躑躅ヶ崎館の居室にて、二人の家臣を前に考えている。


 信玄の死後家督をついだものの、あくまで名代。


 対外的には信玄は隠居して勝頼が家督を相続、そして息子の信勝が十六歳になれば家督を譲る事になっていたのだ。


 あと十一年、信玄の作った土台をより堅固なものとし、次代へつなげるためだけの役目なのである。


「御屋形様、いかがなさるおつもりですか」


「喜兵衛よ、御屋形様はやめよ。われは呼ばれる力もなければ徳もない。今こうして武田菱を背負うて当主となるも、敵である諏訪の男を当主とするなど、と家臣の陰口が聞こえてくるわい」


 武藤喜兵衛の言葉に勝頼が答えると、喜兵衛の横におなじく座る、曽根九郎左衛門尉虎盛が言う。


「では殿、功多き老臣が言うかりそめの当主でも、われらの殿は殿にございます。ご心中をお聞かせくださいませ」


「ふ、馬場や高坂、秋山に山県を老臣というか」


 勝頼は苦笑いする。武田の強さは、個々の強さが信玄というカリスマによってまとめ上げられていた事に起因する。


 そのため信玄亡き後、一気に崩壊する危険性をはらんでいたのだ。


「は、それがしの父はもとより、なき信玄公に若き頃より仕えし方々の力、徳、能は言うに及ばず。然りながら、新しき時の流れに乗らねば生き残れぬのが、この世の定めにございます」


 九郎は事もなげに言う。


「ふ、その家臣らを御してこその武田家当主という事になろうが、正直なところ、我こそは武田なり、と力を見せる事しか考えつかぬ」


「それでよろしいかと存じまする。しかし今は、その時ではござりませぬ」


 喜兵衛が発言する。


「そうか、喜兵衛よ、ではそれはいつなのだ?」


「は、大がかりな他国への戦は三年は控えられませ。この三年は信玄公の御遺言の通り、重臣の方々も反対はいたしますまい」


「ふむ、内政に力を入れ、疲弊した国を癒やしつつ国力を高めよというのか?」


「さようにございます。この三年で、信玄公の武田ではなく、諏訪四郎様、武田四郎様の武田をつくりあげねばなりませぬ」


 勝頼は頬に手を当て、こすりながら考え込む。勝頼の、わしの武田とはなんだ? と。


「わしはの、わしは強き武田こそが武田であり、周囲に恐れられる武田であるべきだと考えておる。が、それは武によってだけでは成り立たぬ、とも考えておるのだ」


 喜兵衛も九郎も、固唾をのんで聞き入る。


「孫子曰く、兵は国の大事なりて、軽々に兵を動かすべきに非ず。亡き父信玄は満を持して三河遠江へ兵を進めたわけであるが、死によってそれも白紙となった。われがそれを踏襲せねばならぬいわれはない」


 二人ともうなずきつつ、勝頼の次の言葉を待つ。しばらく考えていた勝頼は言う。


「父信玄は家臣をまとめるため祖父の信虎を駿府へ追いやり、国論をまとめるため兄を誅した。武田は兄の死と引き換えに駿河の地を得たわけであるが、これを大いに使わねばなるまい」


「それは……つまり?」


 九郎が聞く。


「喜兵衛が申したように、交易により国を富ませるのよ。今以上に海、山の産物をつくりて生業を増やし、銭を生ませて民を富ませる。さすれば年貢に運上金も増え、領国を増やさずとも軍備を整える事能うであろう」


「……」


「喜兵衛よ、お主はそれが言いたかったのではないか?」


「は、さようにございまする。戦いて勝てば良いですが、負ければすべて失いまする。戦はせぬ、に越したことはないのです。強さは見せるだけで良い、というのがそれがしの考えにございます」


「では喜兵衛よ、今のわが領国にて興しうる生業や産物はどのようなものがあろうか」


「は、されば今ある物をより良き物に変える事、そして新しき物を生み出す事にござるが、いささか伝手がございます。ただし、確かなる証はないため、後ほどお知らせいたしまする。必ずや領国の礎となりましょう」


 喜兵衛の言葉に九郎も同意する。


「甲斐は貧しい。まずはしかと検地を行いて、甲斐信濃はおろか飛騨、上野、美濃、三河、遠江、駿河の領国において軍役を強める事が肝要かと。むろん、兵は起こしませぬ。そして商いを盛んにし、新しき匠の生業を興すのです」


「ふむ、しかしわしもそうは言ったものの、言うは易し行うは難しじゃ。武田は父祖の代より、戦いて領国を得る事を是としてきたのじゃから、そう易々と道を変える事はできまい」


 わかってはいるものの、勝頼自身も手探りである。


 史実での武田家は富国強兵をしつつ領国を拡大し、長篠で大敗しても領国は最大となった。


 しかし、その路線は進まないようだ。


「ここで肝要なのは……」


 虎盛はそう勝頼の言葉に付け加える。


「肝要なのは、どこか一所ひとところにて富を集めるは下策にて、国衆、家臣らそれぞれの領国にて、富を得る方策を探らねばなりませぬ」


「例えば?」


 喜兵衛が尋ねる。


「例えば、でござるが、穴山玄蕃頭(信君・梅雪)様の領国である河内にござる。富士川の水運にて益を得ておりますが、商いを盛んにするためとして、なくさずともその関銭を安くすればどうなりましょう?」


「……」


 勝頼は答えない。


「いかな一門衆とて、度重なれば、離反もあり得る、か?」


 喜兵衛は言葉にしづらい事をあえて言う。


「左様、まだある。武田の興りたる甲斐ばりが潤うても、諸将の不満がつのろうというもの。特に信州木曽谷の木曽伊予守殿にいたっては遠方ゆえ、その潤った恩恵にもあずかりにくい。さればどうなるか?」


 九郎はあえて実名をあげて、話に具体性を持たせた。


「あいわかった。謀反の火が次々に燃え移り、亡国の憂き目をみることになる、そう言いたいのだな? 九郎よ」


「はは」


 武田家は織田家と違って独裁制ではない。


 信玄のカリスマによって成り立っていたが、それは決して独裁という意味ではないのだ。中小の独立国が連なる連邦制である。


 それが勝頼によって富国強兵を行った結果、すべての国人衆が恩恵を受けるものでなくてはならないのだ。


「まこと難しきものよな。三年の間、しかと考えつつ行うとしよう」


「殿、外交についてでございますが」


 喜兵衛が発言する。


「うむ、なんじゃ」


「北条とは引き続き誼を通じるべきかと存じまする。また、上杉にござるが、こちらはさらに誼を通じ、北条と上杉で争いがあったときには、率先して調停を申し出るべきにございましょう」


「うむ、しかして織田・徳川はなんとする?」


「は、されば出来うることならば、今のまま、このままにて和睦をいたす事にございます。なかなかに難しき事なれど、これを第一義と致しまする。能わざるとしても、この後、織田・徳川と争うは得策にございませぬ」


 喜兵衛の言葉に言わんとしている事を理解したのであろう。勝頼は反論しなかった。


「うむ、上杉・北条と結んでの決戦ならば、織田・徳川には勝てるであろう。然りとてその後ろにいる……そう、小佐々と面と向って戦いて、勝てる見込みはござりませぬ」


 九郎はそう言って喜兵衛の考えに同意し、勝頼に対して純正への注意喚起を促す。


「小佐々とはそれほどなのか?」


「は、これまで誰も口に出しませなんだが……。されど、伊達や酔狂で日ノ本の西半分を統べる事はできますまい。信長よりも強き敵と考え、誼を通じることが能えば、織田・徳川との和睦も成るやもしれませぬ」


「ううむ……」


 九郎と喜兵衛、二人の麒麟児の考えに頭の中を整理している勝頼に対して、九郎が懐から出した物を見せた。


「殿、これをご覧ください」


 武田が撤退を開始した後、喜兵衛に見せた包みであった。


「……これは? 鉄砲の玉なのか? それにしてはいびつな形をしておるが、このような玉は見たことがないぞ」


「御父君、信玄公のお命を奪いし鉄砲の玉にござります」


「なにい! それは真か? しかしなぜ、今これをわしに見せるのじゃ? 誰もこのような事、言ってはおらなんだが」


 九郎は静かに喜兵衛の顔を見、そして勝頼に告げた。


「その玉を見つけたのは、野田城より退く前にございます。しかし、それがし如きが手に入れられたように、この玉はうち捨てられていたのでございます」


 勝頼は黙って九郎の言葉を聞く。


「医者の施術の後には、重臣の方々もその子細をお聞きになった事にございましょう。その上で扱わざる事(話題にならない事)を、それがしが申し上げても、どうにもなりませぬ」


「それで……この妙な玉が、小佐々と関わる事なのか?」


「は、信玄公が撃たれた際に、周りをくまなく調べ、敵兵はもちろん鉄砲を持ちたる怪しき者をしらみつぶしに捜しましたが、ついぞ見付く事ができませんでした」


 狙撃の痕跡はなかったのだ(通常の鉄砲の射程内には)。


「そこでそれがしはこれを喜兵衛に見せ、考えを聞きつつ、ひとつの仮の考えに行き着いたのでございます」


「どのような考えじゃ?」


「それは……この玉、鉄砲を小佐々が作ったのではないか、というものです」


「なに?」


「そう考えれば、合点がいくのでございます。あるいは、小佐々がつくったものを、織田・徳川が用いたのやもしれませぬ。しかしそれは些末な事。問題はこれが、この玉を用いたる鉄砲が、三町、五町と離れた所より放たれた事にございます」


「馬鹿な! そのような鉄砲など聞いた事も見た事もないぞ!」


 勝頼は思わず大声をあげた。


「それもそのはずにございます。日ノ本にない、いままでなかった物を作ったのですから、誰も知るはずはありませぬ。然りながらそう考えれば全てに得心がいくのでございます」


 勝頼は声は荒げたが、それでも九郎の話を真剣に聞いている。


「敵の玉の届かぬ遠きより狙いを定め撃ち抜く、かような事ができたのであれば、日ノ本の西を統べたという事もうなずけまする」


 勝頼、喜兵衛、九郎の三人の間に沈黙が訪れる。


 父信玄を撃った鉄砲を、小佐々が作った? しかも普通の鉄砲の何倍もの飛距離の鉄砲である。


勝頼はあり得ぬ、と片付ける事はできたが、その一言で終わっては話にならない。


 鉄砲が伝来して三十年近く。日本国内でも様々な工夫がなされ、使いやすく、技術の向上がなされていたのだ。


ただし、この鉄砲が異次元のものであったのは否めない。


「ではまず、なんとする?」


「は、まずはこれも容易ならざる事なれど、小佐々は京に大使館なる物を設け、人を置いて朝廷や幕府との橋渡しをしているようにございます。まずは、そこに話を持っていくべきかと存じます」


 九郎が的確に答える。


「……うむ。あいわかった。九郎は京へ向い、あたりをつけよ。喜兵衛、お主は真田の忍びを使いて家中の動向を探れ、味方を信じぬ訳ではないが、敵と密通の恐れもなきにしもあらずじゃ」


 武田家の行く先に暗雲が立ちこめるか、快晴となるかは、これからの行動次第であった。

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