第474話 異見十七か条と義昭の決断

 元亀二年 八月二十二日 鯰江城下


 純久は信長の陣中に一泊し、手渡された草案を熟読し、考えた。


 異見十七か条と名づけられたその条文は、いかに義昭が無能であるか、将軍としての品位に欠けるかと、散々にこき下ろしたものであった。


 信長に義昭との関係を修復しようなどの意図は、全く感じられない。


 完全に将軍は悪、悪ゆえに戦わざるを得ない、という構図を描いている。信長はこれを無数に写し、諸国にばらまこうとしているのだ。


 交渉の成否にかかわらず、ばらまく。


 本来であれば織田家と幕府のことであるから、小佐々家が関与する事ではない。


しかし、同盟を結んでいる以上、その影響は小佐々家にも及んでくるのだ。無視はできない。


 純久は全権大使である。今のように電話一本で意思確認ができる時代ではない。


純久の答え、それはすなわち純正、小佐々の考えなのである。そのため即断する時は即断し、熟慮する時は熟慮するのだ。






「拝読し、熟考いたしました」


 再度信長に謁見した純久はそう話す。


しかしそもそも『拝読し、熟考しました』などと言う発言は、おかしい。決定権などなく、しかも他家の家臣が言うセリフではないのだ。


 それだけ純久が信長に信頼され、また重要視されていたという事であろう。


小佐々家としても、朝廷と幕府の権威を利用してきた事は否めない。その一角を否定するのだ。


 信長もそれを理解している。


「それで、どう思う?」


 信長としては、決定は自分がするが、それに対して小佐々はどう思うか? という事を聞きたいのだ。


「は、さればこの意見書の筋、いちいちもっともにて、それがしが口をはさむべきものはなし、と存じまする。細やかなる事柄をつらつらと述べたるは、ただ心の赴くままに非ず。諸大名も得心いたすところにござりましょう。ただ……」


「ただ? なんだ」


 終始笑顔で聞いていた信長の顔が曇る。


「は、これを送りてなんとする、という事にございます。公方様をあらがいて(否定する)、その後いかがされるおつもりでございましょう?」


「ふふ、そうであったな。お主は和議の、和議という名の降伏の交渉に参ったのであったわ」


 信長は笑みを浮かべ、純久もそれにあわせる。


「まずはこれを公方に見せようぞ。その後各地の大名に送ろう。その上で公方が応じるなら、命はとらぬし、和議という体での降伏も許そう。あわせてこの後も京におりて将軍としてありたければ、人質も……要るであろう。これ以上邪魔をされてはかなわぬ」


「人質にございますか」


「そうだ。和議の体をとるのだ。それぐらいやって貰わねば、こちらも割りに合わん」


「かしこまりました。では小佐々としては、異論ございませぬ。然りながら……」


「なんじゃ、まだあるのか?」


「は、これは我が家中と織田家との盟約に関わることなれば、しかと確かめておかねばならぬ事にございます」


「なんだそれは?」


「は、この異見書を公方様がお認めになられても、なられなくても、人質のありなしにかかわらず、弾正忠様は公方様をあらがいて、この後どのようにいたすのでしょうか?」


「どのように、とは?」


「これまでは朝廷や幕府を戴き、天下静謐のため、それを破りていたずらに争いを起こす者を誅する、という形をとられてこられました。然れどこたび、公方様をあらがえば、その大義が失われまする。その後はいががされるのですか?」


 純久は、純正が信長と同盟を結ぶ時、信長が私利私欲のためでなく、天下静謐のために行うのだ、と言った話を持ち出したのだ。


「……」


 信長はしばらく考えた後に答えた。


「無論変わらぬ。公方が行いを改め、天下静謐のために政を行うのであれば問題はなし。でなければ是非もなし。われが代わりて行うより他はないであろう」


「……。ではその時は、決して私利私欲のためでなく、天下のために事を起こすと?」


「その通りだ」


「承知いたしました。その旨はわが主に申し上げておきます」


「……」


「……」






 ■瀬田城


「なんじゃこれは! おのれ信長め! どこまで余を愚弄するか! しかも人質まで出せとな! 許せぬ、許せぬぞ信長め!」


 義昭は純久が持ってきた異見十七か条の中身を読み、そして人質の件を聞いて激昂した。


「しかし公方様! 信長めの意趣を除きし筋に、なんら違いはございますか?」


 十七条からなる信長の意見書は、確かな事実を書いていた。山岡景隆は義昭の行いを諫めるため、あえて諫言する。


 ・将軍義輝ならびに義昭も参内は怠りがちであった。信長は諌めたが、変わらなかった。


 ・幕府の運営にて必要があれば、信長が相談にのると言っていたのに、馬を大名に献上させるのはいかがなものか?


 ・信賞必罰がなされていない。


 ・義昭が将軍家の宝物を他の場所に移したことで、信長の建てた邸宅が無駄になったこと。


 ・賀茂神社の社領を勝手に没収して岩成友通へ与えた。


 ・親信長の者に対する差別。


 ・いい加減な裁判、もしくは訴えがあっても裁判していない。


 ・違法に家臣の財産を没収した事。


 ・元亀の改元についてまったく行動せず、費用も出そうとしない。


 ・賄賂による罪の減免。


 ・蓄財しているが朝廷や幕府のために使っていない。


 ・光秀が徴収した銭を延暦寺領だとして不当に差し押さえた。


 ・兵糧を売って銭に変えた。なぜか? 見栄えも良くない。


 ・将軍はもちろん、幕臣でさえ世のため人のためではなく、蓄財に励んでいる。


 ・『悪御所』と呼ばれている。


「いかがでしょうか公方様、信長の意趣を除いても、これだけ公方様ならびに幕臣の有様がつぶさに書かれてあれば、如何ともし難く、言い逃れはできぬように存じまする」


 純久より信長の文書を預かり、義昭に見せた後、山岡景隆は言う。傍らには純久もいた。


「ええい、うるさいうるさいうるさい! なにゆえ信長が、かようにつぶさに余の行いを知っておるのだ。余は天下の将軍なるぞ。信長のそしりを受けねばならぬ言われはない!」


 義昭は現実が見えていない。もはや将軍など意味をなさず、かろうじて信長の武威によって幕府が存在している事を。


「ではいかがいたしますか? これを認め、人質を差し出せば和睦をすると信長は申しているのです。さもなくば和議は破談、戦にて決する事とあいなりまする」


「ぐ……」


 将軍義昭は、岐路に立たされていた。

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