第436話 純正、孫子の兵法を説く

 元亀元年 十一月二十三日 伊予 湯築城 


「寒いっ! 無理! 絶対無理! なんだよこれ! 氷点下じゃねえか!」


 秀政が聞いたら驚くような言葉だが、温度計自体はずいぶん前に純正のアイデアで作っている。水に食紅で色をつけた温度計だ。


 しかし水は0℃で凍るため、実用的ではない。


 そのため最近は水銀の温度計が主流で出回っているが、それにしても摂氏はスウェーデンの天文学者、アンデルス・セルシウス(1711~44年)が1742年に考えた基準である。


 いまさらながらに、現代知識の恐ろしさがわかる。


 昨日はそこまで寒くなかったので、部屋を暖めるだけでよかった。人が集まり議論が加熱するうちに、室内での体感温度は上がっていったのだ。


 1日でこんなに違うのありかよ! と純正は思いつつ、石炭ストーブを出すように指示したのだった。

 

 昨日の協議の内容は、書記が控えている。


 会談の最終日にまとめて、全員の起請文として作成する予定だ。朝食は各部屋に運ばれ、全員が済ませてある。


 2日目の議題はズバリ、尼子の所領についてだ。


 三村と宇喜多の件もそうだったが、純正は当事者ではない。尼子にしてみれば、支援を要請したはずが、いつのまにか和議の現場にきているようなものである。


「ばかな! そのような事が許されてたまるか! もう我慢ができん!」


 予想通り、とでも言おうか。尼子の所領についての協議で、吉川元春が叫んだ。


 小早川隆景:(超訳:うわ! 馬鹿兄貴、何言っちゃってるんだよ!)

 毛利輝元:(叔父上! どうされたのですか!)


 純正は黙っている。思えば毛利との同盟成立の際、領地と権益の割譲となったのは、吉川の領地ばかりであった。


 銀山しかり鉄しかり、美保関もそうだ。すべて出雲と伯耆、元春の領地である。


 対して毛利本家と小早川は、無傷なのだ。これは、純正が意図した事なのかそれとも偶然なのか?


 しかし、いずれにせよ、元春は口が裂けてもそんな事は言えない。


「そもそも、なぜわが毛利と尼子との事を、この場で談じなければならぬのだ。尼子は滅した。恩情(あえて温情ではない)で命は取らずにおいたものを……それに尼子は、守るべき領国すらないではないか!」


(純正に対して)よく言った! という顔をしている諸大名もいれば、大丈夫か? と心配そうに成り行きを見守る国人領主もいる。


 前者は純正の独壇場に、少なからず疑問を持つ者だろう。


「わが毛利の領地領国は、我が父が、我らとともに心血をそそいで勝ち取ったもの。それをなぜこのような尼子の小せがれに持って行かれねばならぬのだ。しかも一戦も交えず、一滴の血も流さずにだ」


「兄上!」


 隣にいた隆景が立ち上がり、元春を掴んで座らせようとする。


「そこまで!」


 純正は鋭く言い放った。


「駿河守殿、そこまでじゃ。謝罪なさいませ。ここには領国の有無や大小でお呼びしたのではない。西国の平穏のために重要だと、俺が思った人を呼んだのじゃ。小倅と、領地領国の件、謝罪なされ」


 元春は謝罪しない。それどころか息を乱し、上座を見たときには、純正を睨みつけている様にも見える。


「兄上! いい加減になされよ!」


「叔父上、一体どうされたのだ!」


 隆景と輝元が2人がかりでようやく元春を座らせた。場の空気が張り詰める。長い時間が流れたように思えた。


「……謝罪は、されぬか。大国毛利の両川、山陰三カ国を治むる吉川の誇りが、それを許さぬか」


 純正は、全員に問うように話しだした。もちろん、元春に向けてのメッセージである。


「それでは駿河守殿、物事の白黒は、すべて戦で決めねば気が済まぬのか? 童なら仕方あるまい。弱き者は泣きじゃくり、強き者は奪い取る。しかし、それは童ゆえ許されるのだ」


 純正は続ける。座った後も顔を赤らめている元春であるが、周囲はヒヤヒヤしながら純正を見る。


「われらは、童ではない。考える頭もあれば、喋る口も聞く耳もある。なにゆえ話し合いで解決できぬのか。駿河守殿は戦で決めねばというが、下々の足軽雑兵は真に戦がしたいのであろうか」


 元春は腕を組み、正面を向いている。


 純正の方を見ようともしない。しかし、純正が言いたいことは、まさにそこなのである。ひいき目に見て、武家は元春と同じかもしれない。


 しかし、かり出される農民はたまったものではない。


 戦など、ないほうがいいに決まっているのだ。領主が毛利だろうが吉川だろうが、もちろん尼子だろうが関係ない。


「こたび吉川領から割譲し、尼子に譲り渡そうと言う出雲の能義郡は、もともと尼子経久公が月山富田城に依った。そして戦国の世の習いにて領国を拡げ、晴久公の代に最大となった」


 純正は元春を見るのではなく、全員を、一人ずつ、確認するように見渡しながら続ける。


「毛利元就公は安芸吉田庄の国人であったが、最初は大内や尼子を頼りながら生き延び、やがて大内を倒し尼子を滅ぼして今にいたる。これすなわち、兵の戦と謀の戦の結果である」


 下を向く者は一人もいない。誰もが純正の話を真剣に聞いている。やばい、というのが伝わったのであろうか。


「しかるに今、毛利は負けたのだ、この俺に」


 なにおう! と立ち上がり叫ぼうとする元春を二人が押さえる。


「戦にて、ではない。銭と政の戦でおれは勝ったのだ。切った張ったは最後の手段じゃ。孫子曰く……」


 純正は、戦国武将であれば誰でも知っているであろう(?)、孫子の一節を引用した。


「孫子曰く、およそ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ。(~中略)是の故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり、戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり~」


 要するに国を守ることを最優先に考えること。


 仮に戦わなければならなくなっても、百戦百勝ではなく、戦わずに勝つのが最善であることを言っているのだ。


 そのための最上の策は計略で敵に勝ち、その次は外交で敵に勝つことである。純正がいうところの経済戦、技術戦もここにあたる。


 武器弾薬の性能、兵力、兵站等々である。


 戦争の基本は、敵の10倍の兵ならば相手を包囲する。5倍ならば攻撃し、2倍ならば敵を分断させる。同数ならば戦い、劣勢ならば退却する。


 話にならなければ隠れながら逃げる。したがって少ない兵力で強気に出るのは、ただの匹夫の勇であり、大軍の捕虜になるだけだ。


「駿河守殿、わが小佐々は十七万の兵を擁し、一年戦える兵糧と四万挺の鉄砲に軍船大砲、そして鉛の玉に玉薬はその十倍は蓄えがある。いかにしてわが方と戦をなさるおつもりか」。


 十七万……。全体にざわめきがおきる。ひそひそ話が聞こえ、落ち着きがなくなる。


 そして元春は、小早川隆景の説明と同じ事を、再び純正の口から聞いたのだ。


「合戦にて戦う前に勝ち負けは見えておろう? それでも戦うは匹夫の勇であり、兵は良い迷惑じゃ。それでも折れぬ、というなら致し方ない」


 純正は毛利の体面をなるべく傷つけないように気をつけたが、元春の発言でタガが外れてしまった。次の提案で元春が折れなければ、いったん会議を中断し、戦をするしかないと考えるに至った。

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