春にさよなら

桜庭ミオ

第一話 無人駅

 あの町を離れてから、桜の時期になると夢を見る。

 満開の桜の木の下で、ハルが怒る夢を。

 彼は、待っているんだ。この俺を――。


 昔、あの桜の木の下で、約束をした――。

 なのに俺は逃げたんだ。

 会いたい。会えない。好きだ――そんなこと、言えやしない。

 

♢♢♢


 むんむんとした空気の中、ワンマン列車に揺られながら、俺はグレーのパーカーのそでで窓ガラスを拭く。

 ガラスに雨粒がついてるけど、今は降ってないようだ。


 なまり色の雲。青々とした草木と、色鮮やかな紫陽花がよく見える。

 中二の俺が一人でここまで来たのは、ばあちゃん家に行くからだ。

 母さんだけ里帰りしたんだけど、俺がイギリスに行く前に会いたいって、ばあちゃんが電話してきた。


 俺があの町を避けてたの、絶対気づいてるはずなのに……。


 ばあちゃんは、『私もじいさんも夏樹なつきに会いたいんだ。ほんとはイギリスにだって会いに行きたいぐらいさ。でも私もじいさんも高い場所が怖くて、飛行機に乗りたくないんだよ。こんなに孫を愛してるのに会えないなんて、かわいそうだろ?』って、同情を引こうとしたり、『中学生の夏樹は今しか見れないんだ。見なきゃ後悔するよ』って、後悔なんてしなさそうな声でうったえたり、『次、いつ会えるか分からないんだから来なさい』って、命令してきたりした。


 何度も『行かないっ!』って伝えたんだけど、ばあちゃんはどうしても家に来てほしいみたいで、俺の話を聞こうとしない。

 めんどくさい人だなと思ったが、相手が年寄りだと思うと、意地を張るのも恥ずかしくなり。行くと決めたけれど、胸の辺りがもやもやとして、苦しかった。


 電話の後、少ししてからだった。俺はあることを思い出し、イラっとした。

 去年のゴールデンウィークと、紅葉が綺麗な時期に、ばあちゃんが一人で遊びに来て、一緒に有名な観光地やら、温泉やら行ったんだ。


 中一の俺を見てるし、写真もいっぱい一緒に写ったんだから行かなくていいよなって、そう思ったが、電話して言い返す元気がなかった。あの人は口が達者なのだ。長く会話をすると疲れるし、勝てる気がしなかった。


 ずっと、逃げ続けるつもりだった。ハル――幼馴染の日向春斗ひなたはるとに会いたくなくて。

 ――いや、本当は、ちょっとでいいから顔が見たいって気持ちがあるし、彼のことを夢で見ると、泣きながら目を覚ましたりしてるけど……会うのが怖くて。


 ハルが俺に会いたくて、俺の母さんやばあちゃんに、そう告げていたとしても……。


 こっちに来る前に、ばあちゃんには電話で頼んでおいた。俺が行くってことをハルや、彼の家族に言わないでって。

 ばあちゃんは『はいはい』って、軽く返事をしてくれたけど、ポロッと話しちゃわないか気になってる。電話でもそうだけど、俺がばあちゃん家に住んでた時も、彼女はおしゃべりだったから。


 列車が無人駅に到着したので、俺は立ち上がり、カーキ色のリュックを背負い、黒い傘を手にした。

 少しだけ緊張しながら、お金と整理券を運転士さんに見せて、運賃箱に入れた俺はホームを踏み、駅舎に向かう。雨の匂いがするけど、今は降ってない。


 駅舎の戸が開いているので、ドキドキしながら中に入った。誰もいない。

 ズボンのポケットからスマホを出して、ばあちゃんに電話する。イギリス行きが決まってから買ってもらった物だ。


 昨日、ゆっくり歩きたいから迎えはいらないって、電話でばあちゃんに伝えたんだけど、駅に着いたら連絡するようにって、言われたんだよね。


 すぐに、『夏樹か』って、ばあちゃんが出たんだけど、待っていたのだろうか。そう思いながら俺はスマホに向かって口を開く。


「うん、そうだけど。あのさ、俺、一人でのんびり歩きたいし、寄りたいとこあるから、ちょっとだけ遅くなるかもしれないけど、明るいうちに帰るから」


 自分が帰ると口にしたことに驚いた。昔住んでた家ではあるけど、もう帰る場所ではないのに。


『そうかい。気をつけるんだよ。雨は止んでるけど、坂道は危ないからね』

「俺のこと何歳だと思ってるんだよっ。大丈夫だからっ!」


 そう返すと、ばあちゃんが楽しそうに笑った後、『じゃあね。夏樹が好きな大福買ってあるし、ばあちゃん家に住みたくなるようなおいしいカレーも作ってるところだからね。早く帰るんだよ』と言ったので、俺は「住まないって……」とつぶやいた後、「分かった」と返事をして、通話を終了したのだった。


 スマホをズボンのポケットに戻した俺は、はたと気づく。


「ばあちゃん、坂道って言ってたけど、俺が山に行くのバレてる?」


 あそこに行くなんて母さんにも言ってないのに……。


 ――あっ! この前、母さんに、春山はるやまの公園がどうなってるか聞いたんだった! 

 気づかれた? 嫌だなぁ。


 憂鬱な気分で戸を開けると、思ったよりも軽かった。そのことに驚いた俺は外に出て、戸を閉める。

 濡れたアスファルト。車のない駐車場。ぽつんと建ってる公衆電話。青紫色の紫陽花。


 顔を上げれば、どんよりとした雲が広がっている。生ぬるい風を感じながら、俺は歩き出した。

 母さんに地図を描いてもらったんだけど、身体が覚えているのか、軽やかに足が進む。

 ここ、一本道で真っ直ぐだし、迷う心配は全くない。その後、右に曲がってしばらく進めば神社があるはずだ。


 神社にはよく行った。ハルと――。

 彼の無邪気な笑顔が浮かんで、鼻の奥がツンとする。

 泣くな、泣くなよ、男だろ。そう自分に言い聞かせる。


 俺はこの町で生まれた。母親が、里帰り出産で俺を産んだからだ。

 数か月経って、俺と母さんは父さんが待つアパートに戻ったと聞いている。


 俺が小学校に上がる前に父さんの転勤が決まったらしいんだけど、両親が話し合いをして、父さんが単身赴任することになり、俺と母さんはばあちゃんの家に引っ越したんだ。その時の記憶はない。


 ハルと初めて会った時のことも覚えてない。彼の祖母とばあちゃんが茶飲み友達だったし、家も近いから、自然と仲良くなったんだと思う。


 小一の時、同じクラスだったし。


 口数が少なく、おとなしかった俺は一人でいることが多かった。そんな俺にハルはよく、話しかけてくれてたんだ。


 ハルは昔から背が低く、身体が小さかったけど、とても元気で、いつも楽しそうにちょこまか動いてた。


 俺と違って明るいハルは、クラスの、いや、学校の人気者だったんだ。いろんな学年の女子に『可愛いっ!』って言われたり、話しかけられてたから、俺がそう思ってだけだけど……。


『オレたち、親友なっ!』

 そう彼に、初めて言われた時は驚いた。


 俺が何も言わないでいると、ハルは不安げな顔をして、『嫌か?』って、小首をかしげたのを覚えてる。

 そのしぐさが可愛くて、クスクス笑うと怒られた。頬をぷくっとふくらませる彼がリスみたいだったので、俺はまた笑いそうになったけどガマンした。


『嫌じゃない。うれしい』

 素直な気持ちを伝えれば、彼が笑った。しあわせな時間だった。

 あれはいつだったっけ? 


 あの桜に初めてしるしをつけたのが小二の春で、それからしばらくしてからな気がする。

 俺とハルは学校が終わると、よく一緒に学校を出て、町の公園や神社や、ばあちゃん家の裏山にある春山の公園や、ばあちゃん家、そして、ハルの家でたくさん遊んだ。


 ばあちゃんと俺と、ハルのおばあさんとハルと一緒に、ちょっと遠くまで出かけたりもしたな。

 動物園や水族館や美術館や博物館、お寺や神社なんかにも行った。楽しかったな。あの頃は。


 俺が小四になるまでこの町にいたんだけど、父親がまた転勤することになり、母さんが好きな観光地が近かったため、母さんと俺も、父さんの転勤先に引っ越すことになったんだ。


 中二になり、父さんの海外赴任が決まったんだけど、外国好きな母さんが、行きたい行きたいと騒ぎ出した。

 海外赴任は三年の予定らしいけど、変わるかもしれないって父さんが言っていた。


 母さんが、『日本に残るなら、私の実家に住めばいいわ』と言ったので、それは嫌だと断って、ケンカになったりもした。

 ばあちゃん家になんか住みたくない。心の底からそう思ったのは、ハルに会いたくなかったからだ。


 でも。

 今、俺はここにいる。


 知り合いに会ったらどうしようっていう不安はあるけど、車で迎えに来てもらうのは恥ずかしいし、じいちゃんやばあちゃんと会うよりも先に、行きたい場所があったりもする。


 ばあちゃん家に一泊するけど、明日の朝は早く出る予定だし、一人でゆっくり行けるのは今だと思うから。


 こっちにいた頃の俺は、クラスで三番目ぐらいの背の高さだった。

 引っ越してからさらに背が伸びて、顔が大人っぽくなったと周りに言われるから、昔の知り合いに会っても、俺だとバレない気がする。


 念のため、歩いてる時に誰か来たら、パーカーのフードをかぶって、早足で進むつもりだ。

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