どうやら彼は貞操観念逆転世界からやってきたらしいですわ!

ガイ4

第一話

たまにはおっぱい以外のお話をしてみようかと思います





 

「御母様! わたくし、健康で逞しくて女性が苦手じゃなくて色々エッチな事をさせてくれて、更にわたくしの事が大好きな殿方が欲しいですわ!」


 十八歳になったばかりの少女、メリッサ・ラージファムは母であるスフィア・ラージファムに向かってそう言った。


 その日は雲ひとつない絶好のパーティ日和だった。

 当主自慢の庭園にテーブルと料理を並べ、国内外から有力者を集めたメリッサの十八回目誕生パーティは、王宮で開かれるダンスパーティ等と比べても見劣りするものではなかった。


 唯一、男性が居ないことに目を瞑れば……。


 母に欲しい物を訊かれたメリッサが「男が欲しい!」と返答した瞬間、パーティ会場から風と鳥の鳴き声以外の音が消失する。皆の視線がパーティの主役とその母親に集中した。

 スフィアは瞳に柔らかい微笑みを浮かべながら一つ頷いた。

 招待客の女性達も皆、深く深く頷いていた。


「私もよ」


 母は優しく、しかし心からの実感が籠もった声で言った。


 ・

 ・

 ・


「あーあー……やっぱり、駄目でしたかぁー……」


 分かりきってはいたが、改めて突きつけられた事実にメリッサは深い溜め息をついた。一人寝るには大きすぎるベッドで三回ほど寝返りをうつと、視界の隅にメリッサの侍従の姿が写った。

 メイド服を完璧に着こなした彼女の顔には、誤魔化しようのない憮然さが浮かんでいた。


「メリッサ様、あのような場であのようなことを仰られては困ります。せっかくの誕生パーティが、まるで追悼式のようになってしまったではありませんか」


 侍女長の苦言に、メリッサは不平顔を枕から半分だけ上げる。


「……でも、皆の共感が得られたのではなくって?」


「同情と言うんですよ、ああいうのは……スフィア様なんて、デーヴィット様の事を思い出して泣き出してしまいましたし……」


 母と亡き父の名を言われ、流石にメリッサは口を噤んだ。

 確かに、あのような場で言うべきことではなかった。自分を愛してくれる殿方が欲しいなんて、改めて言わなくとも女なら誰もが持っている願望だ。

 持ってない者がいるとするなら、未だスプーンとフォークの区別がつかない年少者くらいだろう。

 メリッサはもう一度、大きなため息をついた。


「今年も、殿方と交際のないまま歳をとってしまいましたわぁ……」


「……お嬢様はまだ10代ではないですか……私なんて、そろそろ三十路ですよ」


「やーい、聖女候補ー」


「ぶち殺しますよ」


「ひぇっ」


 男女比、1:272.3。

 今朝の新聞で発表された最新の統計なのだから正確な数字なのだろう。去年の同時期より0.2ポイント落ち込んだと、記者は嘆いていた。

 小数点以下の変化で一喜一憂する我々の、なんて哀れなことか。

 メリッサは、遠い過去に人類を呪ったという邪神の存在を呪わずにはいられなかった。


 男性の出生率が低下し始め、はや数百年。世界は慢性的かつ喫緊的に男性が不足していた。

 種の存続の危機とも最早言えない。緩やかな滅亡への坂を、人類は転がり始めていた。


 男女比1:1の時代が存在したなんて、今ではもう信じられない。

 1:10だったという100年前の統計でさえ疑わしいのに、女性とほぼ同数の男性だって? 羨ましくてハゲてしまいそうですわ。


「せめて、一目なりとも殿方にお逢いしたい……贅沢を言うのなら『お誕生日、おめでとう。素敵な僕のメリッサ』って言って貰いたいですわぁぁぁ……」


 二十年に満たない人生の中で、彼女が実際に言葉を交わした男性の数は両手の指で数えても一本余る。それでも侯爵家の令嬢という立場上、平均より遥かに多い。

 人によっては、古き竜や大精霊よりも稀な存在――それが現代における男性という存在への共通認識だった。


「ま……たとえ殿方にお逢いしたとして、わたくしなど見向きもされないでしょうけれど……」


 ぼやきながら、ふと足元に目をやる。ベッドの向こう側の景色はおろか、己の腹部もよく見えない。

 乳房だ。仰向けでもなお立体さを失わない双子の峰が眼前かなあった。主人のため息にあわせ、小さく震えた。

 メリッサには、己の豊満すぎる乳房が視界と人生を邪魔しているように思えた。


 世の男性の数が右肩下がりになるにつれ、人類という種も変化せざるをえなくなった。

 限り有る男性に見初められるよう、女性は進化を始めたのだ。

 より強く、より若く、より美しく。

 同族の女達と競うように――いや、実際競いながら――永い年月なかで自らの遺伝子を強化し続けた。人類を存続させるために、強く豊潤な肉体が必要だったのだ。


 また、稀に産まれてくる男達はすぐに国家の財産として管理され、厳重に保護される。母元から離される例も一切ではなかった。

 何不自由無い生活を与えられる代わりに、男達には少なくない義務が課せられた。


 男達には自由以外の全てが与えられたのだ。


 だがそんな努力を嘲笑うかのように、人類は衰退していった。

 それも当然と言えよう。

 管理され続け、飼育された男達の生命力は衰えていくしかなったのだ。

 対し女達は、減っていく男を他者に奪われないように更に進化を加速させていった。より多くの子を産み育てるために、生物として強靭かつ魅惑的な肢体を磨き上げていったのだ。

 比例、あるいは反比例し、男女での生物格差が広がり続ける。例えば寿命、体力、性欲。

 特に魅力的な肉体の持ち主でであれば有るほどそれに比例した性欲を持ち、男達の元々少ない命数を搾り取っていく。

 妻のバストサイズに、夫の寿命が反比例するというデータが発表された事さえあった。


 いつからか、豊潤な肉体は男達の恐怖のシンボルとなっていた。


 千年前なら傾国的とすら謳われるだろうメリッサの美貌は、今は忌避と恐怖の的でしか無い。

 特注ドレスを突き破らんばかりの乳房は強すぎる性欲の表現者であり、形の良い臀部は男を踏みつける暴虐の鉄槌だった。


「やっぱり、現実なんてクソ……失礼、排泄物ですわ! 物語の世界を堪能し、せめて夢の中でだけでもモテモテハーレムを築きたいですわー!」


 少なくとも上品とは言えない事を喚きながら、彼女は枕元に常備してある本達に手を伸ばした。別室の書架から持ち込んだ選りすぐりのコレクション達だ。

 日々つらい現実に打ちのめされているメリッサにとって、紙の上に広がる世界は数少ない憩いの場だった。

 現実は男日照りでも、夢の世界は毎日雨季でウキウキのオアシスですわ! そーれ、ざっぱ〜ん!

 せっかくの誕生日だし、ここは原点に立ち返り特にお気に入りの貞操観念――


「お嬢様! おくつろぎのところ恐れ入ります!」


 ――草紙コミックを手に取ったところで、別の侍女が部屋に入ってきた。いや、入ってきたと言うよりは飛び込んできたと言う方が当たっている。


「貴女! ノックもなしに入るとは何事ですか!」


「お咎めは後で受けます! 今はそれどころではありません!」


 侍女長の咎めの言葉も聞かず、侍女は息も絶え絶えにメリッサへ向かって声を張った。


「どうやらモジョの森付近で、あ、アレが出現した、模様です!」


「アレ……? ま、ま、まさか! わたくしの事が大好きな殿方が出現したのかしら⁉」


「違います、竜です! 推定CランクからB−ランクの、中型の竜が確認されたんです!」


「なんだぁ……」


「なんだとはなんですかお嬢様⁉」


 思わず出てしまった本音を咳払いで上書きし、メリッサは部屋着を脱ぎ捨てながら侍女長に指示を飛ばした。


「ただちに出発いたしますわ! 屋敷警護に最低限の人員を残し、全員出しなさい! 武器と魔法の使用も許可します! 夕食前にケリを付けますわよ!」


 ・

 ・

 ・


 楽観はあったが、油断も慢心も無かった。


 竜というモンスターの中でも特に強力な種族とは言え、メリッサ達には討伐の経験が多くあった。

 ラージファム侯爵家の私兵団は、女性たちの中でも特に武勇に優れた者たちで構成された精強無比の集団であり、王国軍にも引けを取らないと言われている。

 メリッサ自身も優れた剣と魔法の腕を誇り、私兵団の長を立派に努め上げていた。

 もともと、ラージファム領には多くのモンスターが生息しており、その素材などを交易品として領内の財貨を潤していた。


 竜は珍しいが、年に数回確認される程度には馴染みであり、貴重な財源として重宝されているのだ。

 皮、骨、牙、角、血に至るまで、一切捨てるところが無い高級素材生物。彼女達の竜への率直な印象がそれだった。


 高値で取引される竜の素材で、何を買おう? 皆に臨時手当を支給したあと、余ったお金を何に使おう? などとメリッサは何時ものように脳内で皮算用していた。

 部下の侍女達の頭の中も似たような物だっただろう。新作の高級ランジェリーを買いたいという声があれば、どうせ見せる相手なんていないだろと笑う声もある。

 移動用の馬車の中は、いつも通りの騒がしくて和やかな雰囲気だった。


 それでも相手は強力なモンスターだ。被害が広がる前に対処しなくてはならない。

 集中力を歪めない程度にリラックスしつつ、しかし適度に緊張しながら、ラージファム家の武装私兵団は竜の目撃された場へ向かう。


 油断は無かった。無かったのに。


「ぐ、ぅ、ふぅ……!」


 喉が焼けそうだ。息をするだけで満身の努力を必要とする。

 竜の吐いた灼熱のブレスが、空気をも容赦なく焼いてしまった為だ。

 なぎ倒された木々。赤く溶けた大地。倒れたラージファム家の私兵団。

 開戦からわずが30分後、此処に立っている者はメリッサ一人になっていた。

 だが既にその顔は蒼白で、特注の鎧もヒビと融解によってボロボロだ。


「お、お逃げ……下さい、メリッサ様……!」


 辛うじて意識のある侍女がそう訴えるが、メリッサの耳には入らない。極度の疲労と恐怖と絶望とが、彼女の五感を酷く狭いものにしてしまっていた。

 だがたとえ聞こえていたとしても、メリッサが仲間を見捨てる事は出来なかっただろう。


「ま、ったく……! とんだ、誕生日プレゼントですわね…………!」


 己を鼓舞するため唇の端を持ち上げて獰猛に笑うが、絶望的な状況は変わらなかった。

 眼前には山と見紛う巨大な獣。ラージファム邸よりも大きな竜が天に聳えていた。

 超大型種。

 国の長い歴史の中ですら、ほんの数件しか記録の残っていない怪物。

 報告されていたサイズと異なる事は誰の目にも明らかだった。


 しかしながら、報告者を責めるわけにはいかない。メリッサ達が接敵したときは、確かに中型以下の大きさだった。

 牛二頭を合わせた程度のサイズでしか無く、メリッサ達はむしろガッカリしたくらいだ。

 それでも隊列を組み、整然とした動きで魔法と剣との波状攻撃を仕掛けた。戦闘ではなく、一方的な討伐で終わるはずだった。


 変化は劇的を極めた。

 風船もかくやという勢いで竜は膨れ上がり、空を覆うような巨躯に変貌を遂げたのだ。

 ほんの数秒で、討つ側と討たれる側の立場が逆転してしまった。

 そしてまた、メリッサを一切考慮しない一撃が振るわれた。成人女性を三人束ねても及ばないであろう太い尾が、無造作に孤を描く。

 メリッサは針のように頼りない剣を捨て、地面に這いつくばるようにして回避した。尾が通過した一瞬後、メリッサは顔を上げて、掌に込めていた魔力を竜の顔に向けて発動する。

 倒せるとは到底思っていない。ただの目くらましだ。

 何とか逃げる隙を得るべく、遥か遠くに見える双眸にメリッサは狙いを定めた。


「っが……ッ⁉」


 突如、強烈な衝撃がメリッサの頭蓋を襲う。

 側頭部から何かに横殴りにされ、その勢いのまま地面に叩きつけられてしまった。彼女の頭部を守っていたミスリル製の兜も飛ばされた。

 他のモンスターから奇襲されたというわけではない。竜の尾で弾き飛ばされた石礫が、一体どういう軌跡を描いたのか、メリッサの頭部を今更に襲ったのだ。


 大きく歪んでしまったミスリル兜を確認する余裕もメリッサには無かったが、装備がなければ即死の一撃だったに違いない。メリッサは運が良かった。

 しかしその運も、命数をほんの数秒だけ伸ばしたに過ぎない。


「あ――……ッ」


 血と激痛に支配される視界の中心に向かって、竜の腕が振り下ろされてきた。

 彼女より大きな掌だ。回避は間に合わない。


(これは……駄目ですわね……)


 瞬間、メリッサの脳裏を疾走したのは走馬灯に似て非なるもの。未だ為し得ぬ願望の流星群だった。

 すなわち、未だ見ぬ男性との逢瀬。


 手を繋いで買い物したり、お互いの服を選び合ってはしゃいだり、話題の劇場を観に行ってポップコーンをシェアしたり、感動して流した涙を拭ってもらったり、お洒落なレストランでディナーを楽しんだり、酒精の援軍を得て大胆に迫ってみたり――。


 そんな多くの願いが、シャボン玉のように浮かんで消えていった。


 したいこと、まだ全然していない。していないのに。


(こんな、こんな所で、私は……!)


 竜の怪腕にとって、メリッサもシャボン玉も大差ないのだろう。一瞬の激痛が過ぎ去った後は、永遠の無痛が待っている。

 無限の願いまだが圧縮された時間の中で、メリッサは無念に目を固く閉じて絶命の一撃を覚悟した。


 振り下ろされた力を――――受け止める力があった。


「……え⁉」


 大地を揺らす衝撃と、硬いもの同士がぶつかる強烈な音波。しかしそれは、メリッサの命と引換えに生まれた振動ではない。

 メリッサは信じがたい物を見た。

 彼女よりほんの少しだけ大きい人影が、竜の爪を受け止めていたのだ。

 時間差で襲ってきた吹き下ろしの突風が彼女の長い髪を散らすが、メリッサは瞬きもしなかった。それどころでは無かった。

 人が竜の腕を剣で受け止めていたのだ。


「誰……⁉」


 激痛と脳震盪で暗転しようとする意識を何とか保ちつつ、メリッサは問うた。

 相手は応えない。人影は外套を頭から纏っており、その顔を見ることは出来なかった。


「ぬ、ゥうん!」


 裂帛の気合とともに、剣が竜の腕を弾き返した。

 低い声だ。何故かはわからない。その音程に、メリッサは体の芯が疼いたのを自覚した。


「……な、何をしてますの! 早くお逃げなさい! 逃げて、竜が出たと国に――」


「黙ってろ。今、良いところなんだ」


 言うと、人影は剣を正眼に構える。いや、よく見ると剣ですら無い。

 枝だ。木の枝だった。

 少女なら誰でも拾って振り回した覚えがある……剣のような、良い感じの木の棒だった。


 おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‼


 竜の怒号は、その音量だけで突風を巻き起こす。

 しかし音波よりメリッサを震わせたのは、竜から発せられる強烈な殺気だ。

 初めて見せる戦闘態勢への以降。今の今ままで、自分たちは竜にとって敵じゃなかったのだ。

 圧倒的な生物格差を見せつけられ、メリッサ達は恐怖に震え上がった。


「……悪くない。いや、最高だ。生まれて初めての実戦……正真正銘の死合だ」


 だというのに、目の前の人影は微動だにしない。それどころか、僅かに見える口元には笑みすら浮かんでいる。


(……あれ、ワタクシ、なんで……?)


 何故だろうか。メリッサは言いようのない胸の高鳴りを覚えた。胸が邪魔だから少し頑張って抑え込まないと聞こえない心臓の音が、強く耳元で脈打った。

 はためくボロい外套にすらトキメキを覚えてしまうほど、メリッサは高揚していた。

 その感情の名前を知らないまま、メリッサは竜へ走り出した影を見つめていた。


 もう何がなんだか分からない。頭を打ってしまったから、幻覚でも見ているのだろうか?

 幻覚は戦いが終わるまで続いた。


 そしてその幻覚は、色褪せない伝説として世に永く語られる事になる。


 ・

 ・

 ・


 決着がつく頃には、すっかり日も落ちていた。

 メリッサを始め、ラージファム家の戦闘侍女達は一言も話すこと無くその一部始終の証人となった。

 歴史に残るような巨大な竜をたった一人で討ち果たした。それも木の枝の剣で。

 信じられない。そんなもの草紙の中か、酒に酔ったババアの浅い夢の中だけだ。いっそ自分の目と耳の方が疑わしい。


「……よし」


 崩れ落ちた竜を人影は残心で見送り、その生命が完全に燃え尽きたことを確認して、ようやく枝剣を下ろした。


「もう大丈夫らしい。怪我はどんなモンだ?」


 人影は振り返り、頭を覆っていた外套を下ろして素顔を晒す。

 瞬間、メリッサ達は竜に襲われたとき以上の衝撃に襲われた。

 視覚から入った衝撃は身体の中心を真下へ疾走し、下腹部辺りで折返して脳天にゴールする。


「ほぉゥわヮァホワン…………」


 信じがたい美青年だった。今まで出会った誰よりも、歴史上に存在したどんな美男子よりも麗しいと確信出来る。

 クリクリとした瞳、艷やかな髪、少年から青年へと移ろう途中にある愛らしくも凛々しい顔立ちは、メリッサの心を一瞬で鷲掴みにする。そのまま巣に持ち帰ってムシャムシャして下さいまし。


 彼女の部下たちも同様だろう、ポカンと大口を開けて彼の姿に釘付けだった。怪我の手当など二の次三の次、男の次である。

 いつの間にか昇っていた月ですら、彼の尊顔を拝そうと木々の間を通ってきたかのように思えた。


 男だ。紛れもなく男だ。

 しかも窮地を助けてくれただけでなく、優しい言葉まで掛けてくれる。

 巨乳に優しい男なんて、本当に実在したの? もしかしてワタクシ達やっぱり死んでた? 天国はイケメンで溢れているという噂は本当でしたのね。


「……あの、どうした? 大丈夫か?」


 困惑した様子で月光の君(メリッサ命名)は声をかけてきた。

 ハッと現実へ帰還する。

 そう、現実だ。眼の前の少年は夢や幻ではなく、現実の存在だった。誰だ現実は排泄物などと宣わった奴は。不見識にも程が御座いますわ。


「耳が妊娠しましたわ責任取って結婚してくださいまし」


「……は?」


「し、失礼! ちょっと動転して……オホン! 貴方様こそ、お怪我などはございませ――」


 ばきん。ぷるん。


 鎧の胸当て部分が壊れて、乳房が溢れてしまいましたわ。


「……」


「……」


 たゆんたゆん。


「……」


「……」


 やらかしましたわー! な、なにもこんなタイミングで壊れなくともー!


「ご、ごめんなさい! ちょっとお待ちになって!」


 慌てて隠そうとするも、立派過ぎる乳房は主の指の間から脱走しようとする。

 よりによってインナーまでも剥がれてしまい、我らの救世主を布は失われていた。


 かつて年上の男性を死の淵にまで追いやったというトラウマが、メリッサを青くした。


 今より背も胸も10センチは小さかった頃、メリッサは王国の有力な男性に面会する機会を得たのだ。

 男性は当時55歳という年齢でありながら、精力的に活動する魅力的な方だったと、メリッサはよく覚えていた。

 男性の平均寿命が50歳未満という現代において、初老(過去の時代の形容詞を用いるのならば)の域に達した者は敬愛の対象だった。

 それだけ生命力に溢れているという証明であり、繁栄の象徴なのだ。

 異性からも同性からも慕われ、彼のような男性と知り合いたい、彼のような生涯を歩みたいという皆の輝ける目標だった。


 無論、メリッサも例に漏れない。

 有名な初老紳士イケオジに会える事を楽しみにしており、会う何日も前から念入りに準備していた。


『握手とかしても大丈夫かしら! サインをお願いしても大丈夫かしら! ちょっとお髭とか触らせて貰えないかしら!』


 そんな甘い願望を打ち砕いたのが、他ならぬメリッサのバストだった。

 イケオジを怖がらせないよう、念入りにサラシと露出の少ない服で封印したのだが、メリッサがイケオジに会釈した途端、それらは破裂してしまった。

 千切れたドレスから現れたのは、若く未だ成長の途中にある豊満なバスト。

 シミも傷も一つとして無い白い肌に、ピンクパールのような両先端。女性の最も代表的なシンボルが風もないのにプルンプルンと弾み、イケオジの目に晒されてしまった。


 紳士は泡を吹いて倒れ、そのまま入院した。


 幸い命に別状はなかったが、眼の前で白目を剥いて痙攣するイケオジの姿は、まだ15歳だったメリッサの心を深く傷つけた。

 世の男性が巨乳を怖がっているのは知っていたが、これはアンマリだ。

 泣きっ面に蜂だったのが事後処理の大変さだった。

 下品なデカパイでごめんなさい。カエルの内臓みたいな色の乳首で申し訳ありません。などという反省文を100枚書かされ、諸方に届けて回ったのは苦い思い出だ。


(せめて乳首だけでも! 乳首だけでも隠さなくては! 乳晒し罪で、今度という今度は爵位を剥奪されてしまいますわー!)


 メリッサは半泣きになりながら己の身体を隠そうとする。しかし布も鎧も長さとか面積とか足りないので、汚れた手の平で隠す他ない。

 なんてことですの手ブラですわ。わたくし、完全に犯罪者の格好ですわ。


 終わった。


 数年ぶりの生男との邂逅。しかも、超が山程つくイケメンで更に強力な剣士。今後、これほどの殿方とは出会えそうにも無い。

 メリッサは己の恋が始まる前に死んでしまったことを知った。

 絶望と悲嘆と憤慨に、メリッサは己の乳房に爪を立てていた。このバカチチが、お前のせいでワタクシの人生は真っ暗ですわ!


(……あら? 何かしら、この良い匂いは……)


 嗅覚の鋭い彼女は不意に芳しい香りを感じる。竜の血の匂いでも、焼け焦げた樹木の匂いでもない。

 嗅いでいるだけで体の芯が甘く痺れていく、芳醇なアルコールにも勝るフレバー。

 発生源は目の前の殿方からだ。

 メリッサは顔を上げて男の顔を見る。顔を見つめるだけで心臓が跳ねるが、劇的な反応を寄越したのはむしろ相手の方だった。


「あ! ぁ、いや、す、すまん……」


 男は慌てて顔を背けた。気の所為じゃなければ、頬と耳を真っ赤に染めている。

 どういうワケか男はメリッサの溢れてしまったバストに視線を固定させていたらしい。

 それからも男はチラチラと目を寄越してくる。遠慮がちに、それでいて興味を抑えられないというようにメリッサのバストを注視していた。


「……」


 メリッサの中にあるトラウマが、俄に湧いた期待と好奇心に一瞬だけ塗りつぶされる。

 良いかしら? でも、ただ怯えているだけだとしたら、追いポロリで更に怖がらせてしまうのでは? でも確かめたい。それにもう見られてしまってるし、一回も二回もそう変わらないのではないかしら?

 ええい、ままよ!


 意を決し、メリッサは胸を隠している手の平の、指と指をなるべく自然な形で広げてみる。


 ちらっ。


「おおっ……!」


 さっ。


「は……⁉ お、オホン」


 ちらちらっ。


「おおおおっ……!」


 さっ、ちらちらっさっちらっさらっ。


「ぅおおおおおおおおおお……っ!」


 ――この世の女性達の嗅覚は、男性の比ではない。


 男性達の性欲が枯れ果てて幾星霜。彼らの貴重な発情のタイミングを逃さないため、女性の五感は鋭く進化した。

 そうしないと生殖すらままならなく、跡継ぎを授かることも出来なかったからだ。


 メリッサも、また周りの侍女たちも同様だった。同様だったが故に信じられない。

 デカいばかりの醜いバストを見て、あっという間に発情する殿方がいるなど。


(こ、この方……! わ、わたくしのダスト(※駄目なバストの事)を見て、は、ははははははは発情しておりますわ!?)


 死神の両眼と胸の先端だけは見たくない。そんな常套句が流行るほど疎まれている肉体なのに、この男は明らかに劣情を抱いている。

 なんなら、ちょっと前かがみになってもいる。え、マジ? あの股間で膨らんでいるの剣とかじゃなくて? あちこちから生唾を音が聞こえているということは、わたくしだけが見ている幻覚じゃないということ。


 目まぐるしい状況の中、メリッサの疲れ切った脳は都合の良い答えを導き出した。


(て、て、て、)


 女性我々よりも遥かに戦闘力の劣る殿方が竜を倒せるはずがない。女性の肉体に興奮する男など居るはずがない。

 従ってこの男は、この世界の住人ではない。


 つまり……。


(貞操観念逆転世界からの、来訪者ですわぁああああああああああ!)


 ・

 ・

 ・


 貞操観念逆転物。

 それは淑女たちの間でも人気のジャンルであり、価値観が現実の男女とは真逆という前提で描かれた読み物などの事だ。

 すなわち、男の方が女に情欲を抱くという有り得ない価値観でなりたっている。


 メリッサの推しジャンルの一つでもある。

 最近のお気に入りは、主人公が異世界に転移しモテモテハーレムを築くというものだ。

 物語の舞台である異世界は男女比が1:1であり、男も管理されておらず、誰もがほとんど平等に恋愛できるという、ちょっとやりすぎな設定だった。


 主人公はメリッサと同様、美貌を持ち、ソコに深いコンプレックスを持っていた。

 主人公は元の世界では不幸を極め、ある日謀略によってその生命を落とすことになる。

 彼女が目を覚ましたとき、別の世界にいたのが物語の冒頭だ。

 元いた世界と似ていることもあって、彼女は己の運命を早速に諦めた。

 またどうせ……と、主人公は異世界でほそぼそと暮らすことを決意する。


 しかし主人公は忌避されるどころか、出逢うほとんど全ての男達を魅了してしまう。

 愛を囁かれるなど日常茶飯事。毎日届けられるラブレターの数が、二桁を下回ったことも無い。ワタクシが囁かれるのは呪詛ばかりなのに。


 服のボタンを止め忘れても男達は泣き出したりせず、くびれたウエストや引き締まったヒップを見ても、嘔吐もしないし青くなって気絶もしない。


 むしろ男達は良いものを見たといった風に、顔を真赤にしてしまうのだ。

 メリッサの推しであるツンデレ王子が主人公の裸に欲情してしまい、夜中に自らを慰めてしまったという描写を、もう何度読み返したかわからない。


 やがて主人公は、作中のイケメンたちとイチャイチャしたり、エッチなハプニング――しかもこの場合、双方にとってのラッキースケベ――を起こしたりしながら、魅力的な男達と関係を深めていく。

 大国の王子、大商会の御曹司、大精霊の御子、大勇者、大魔王まで、なんかのつく肩書を持つ誰もが主人公の虜になってしまうのだ。

 主人公は彼らにコンプレックスを癒されながら、やがて世界で一番のモテ女として女神のように愛されるようになる――という物語だ。


 羨ましくて仕方ない。あり得ないとは分かっていても、貞操観念の反転した異性をメリッサは夢見ていた。


 そうでもないと自分は一生殿方と恋仲にもなれない。

 生涯未婚率が9割を超えるこの世界で、メリッサのような巨乳(しかもイケオジに危害を加えた前科持ち)など、相手にされるはずもない。

 ラージファム家は自分の代で終わりなのだ。そう覚悟も決めていた。


 だが、なんということだ。千の千乗載一遇の運命が、メリッサの前に訪れてしまった。


(キタキタキタキタキタキタ来ましたわーーーーーー! わたくしの時代がーーーーーー! 誕生日プレゼントは、健康で逞しくて女性が苦手じゃなくて色々エッチな事をさせてくれて、更にわたくしの事が大好き(になってくれるかもしれない)な殿方ですわーーーーー!)


 メリッサはこの日、自分が運命の勝利者であることを知った。


 更にこの晩、屋敷に招いた彼に夜這いをしようと悩んでいたら逆に夜這いを仕掛けられて狂喜乱舞する事になるのだが、彼女はまだ知らなかった。

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