第16話

 消毒液のにおいが鼻腔をくすぐる。目を開けると、見慣れぬ形の照明が私を照らしていた。

「あれ…。私…」

 重い頭でなんとか記憶を探ろうとする。ここはどこなのだろうか、一体なにが起こったのだろうか。

 周りを見渡す。自分が寝かされているこの寝台、そこには『呼び出し』と書かれたボタンがついている装置が置かれていた。起き上がって背後の壁を見てみると『酸素供給』などと書かれた穴のようなものまである。多分ここにチューブか何かを差し込んで使うのだろう。

 どうやら自分は病院に連れてこられたようだ。部屋の雰囲気からして間違いない。

 何が起こったかも思い出した。道端で倒れたのだ。その後、誰かが私のために救急車を呼んでくれたのだろう。

 カーテンを開けると日は殆ど沈んでいた。もう十分も経たないうちに真っ暗になるだろう。

 病室…そういえば、初めて自分の母と“会った”場所も病室だった。私が“生まれた”場所と言ってもいいかもしれない。

 私の頭に残っている最初の記憶はこんなもの寂しい場所でのものだった。

 八歳の頃、頭に大きなけがを負って記憶を失った。といっても目覚めたばかりの頃は失ったことすら知らなかったから、何も違和感はなかった。ただぼんやりとしながら辺りを見ていたような気がする。

 頭の傷がズキズキしている中色々な人に話しかけられた。看護師さんとか、お医者さんとか、刑事さんとか。

 『どうして怪我したの?』

 『あの時のことを覚えている?』

 『辛いことだろうけど、思い出せないかな?』

 どの質問もよく分からなくて、『分からない』としか言えなかった。そうしてると最後は皆可哀そうなものを見るような目で去っていった。

 しばらく時間が経ってから、綺麗な女の人がやってきた。表情は動いていないけど、体はブルブル震えていて、寒いのかなと子供心に思ったような気がする。

『ユイ…?』

 その人の声からは私のことを思いやる気持ちが一杯伝わって、だからその人のことを知りたかった。

『だあれ?』

 私がそう言うと、女の人は膝から崩れ落ちてボロボロと涙を零し始めた。その時はなんでか分からなかったけれど、すぐに入れ替わるように入ってきた看護師さんが答えを教えてくれた。

『あの人はあなたのお母さんなんだよ』

 病院から退院してそれから今までずっと、お母さんはあまり私に話しかけてくれなかった。事務的な会話ばかりで、すぐに背を向けてしまう。写真に写っている昔の私には笑顔を見せていたのに。

 私が忘れてしまったから怒っていたのだろうか。あの時、私が悲しませたから。でも私だって覚えていられるなら、覚えていたかったのに。

「……」

 ベッドの上から立ち上がる。本当なら誰かを呼ぶべきだったのかもしれないが、そんな気分じゃなかった。

 病室の椅子に着ていた上着がかけられていた。それを羽織って部屋の外に出る。誰かに見咎められるかもしれないと思ったが意外にも声はかけられなかった。皆自分の仕事で忙しいのだろう。

 廊下をグルグルと彷徨っている内に談話スペースという場所を見つけた。ソファが何個も置いてあって、外の景色がよく見えるように大きな窓がかけられている。公衆電話まで設置されていた。電話してもいい場所らしい。

 ポケットの中にある携帯電話を取り出して、翼に連絡する。彼はもう家に着いているのだろうか、私がいなくて心配していないだろうか。

 コール音がもどかしい。早く声を聴きたい。

「翼…?」

『えっと、唯』

 あまり電話することがないから、機械を挟んで聞く彼の声は少し新鮮だった。

「…もう家にいる?」

「ああ、実はまだ…って待った。唯は家にいないの?」

「急に倒れちゃって、今病院に…」

『病院!?』

 翼の声が裏返る。やっぱり心配してくれるんだ。胸の中に暖かい感情と僅かな痛みが広がる。

「…ちょっと気分が悪くなっただけで、大したことはないからそんなに心配しないで」

 ホントは一杯心配してほしいけど、それは言わないでおく。

「…そうだ。親切な人がいたの。茶髪でスラっとしてる、お喋りで変な男の子。多分、その人が助けを呼んでくれたんだと思う」

『茶髪、お喋り…そいつ、どれくらいの歳だった?』

「…え、高校生くらいじゃない、かな」

『へー…ふーん…』

 なんだか不満そうな雰囲気が伝わってくる。なにか変なことを言ってしまっただろうか。

「…今度お礼を言わないと」

『いや、そんな奴には礼を言う必要はないね』

「…どういうこと?」

『いいから、この話は終わり』

 まるで意味が分からないが、言われた通り口を閉じた。確かに今はそれより重要なことがある。藤田のところへ早くいかないと。

「…翼、藤田のことなんだけど…」

『ええっと、その…あのう』

 やけに歯切れが悪い。一体なんだというのだろう。そして電話越しに聞こえるこの風の音。彼は外にいるのか。買い物に行くと言っていたが、まだ終っていなかったのだろうか。

「…翼、今どこにいるの?」

『あーそれは…』

「翼?」

 何を隠しているのか。段々と分かってきたような。あの時から怪しいと思っていたのだ。勢いで押し切られてしまったけど。

「本当は買い物なんて行ってないんでしょう?」

『…バレた?』

 開き直ったような声が返ってくる。コイツ、まさか。

「じゃあどこにいるの?」

『怒らないで聞いてくれる…?』

「…話次第」


『って話なんだけど…』

「…………は?」

 自分でも驚くほど低い声が漏れた。要約するとこの男はこう言ったわけか。独断専行したあげく、犯人への最後の手がかりを潰してしまったと。

『えっと…』

「私を騙して、勝手に一人で行って、その挙句失敗するなんて…」

『…あはは』

 正直な話、失敗したこと自体はどうでもよかった。相当な痛手ではあるが、それでも仕方ないことと受け入れられる。

「翼言ったよね?二人一緒って。あれは何だったの?口から出まかせ?嘘?」

『唯…オレも…』

「私、すごい嬉しかったんだよ。それなのに…」

 許せないのは、私を置いていったことだ。どうせ殺人犯と会わせるのは危険すぎるとか、そんなことを考えていたのだろうが。私を信用してくれなかったのが悔しい、恨めしい。

『本当にごめん。唯…』

「…なにそれ、今更…」

『傷つけたことは謝る。だけど、オレは自分のやったことを後悔してない』

「なっ…」

『…唯にあんなやつの心を覗いてほしくなかった』

 それだけで何が言いたいかは分かった。藤田が仮に犯人ではなかったとしても、強姦を常習的に行ってきたことには変わらない。その記憶を読むことが私の負担になることは疑いようがないことだ。

「…でも、だからって」

『分かってる。ただの我儘だ。恩に着る必要はないし、怒る権利はある』

 何も言えなかった。ただ黙って彼の言葉を聞く。

『…それに、もしやり直せたとしても、多分同じことをやると思う』

「……」

 全く反省していないみたいだけれど、噓偽りのない呆れるほど真っすぐな声で語られていた。ズルい。そんな風に言われたら、許しちゃうに決まっているのに。

『でもごめん。唯』

「…もう、分かったから」

 少し前まで炎のようにジリジリと頭の中を焦がしていた怒りが噓のように消えてしまった。こうなってしまってはもう文句を言う気になれない。

 それに次は騙されなければいいだけだ。私を置いていくような素振りを見せたらすぐに心を操って無理やりでも連れて行かせる。

「…えへへ」

『なんか怖い笑い声が聞こえるんですけど…』

「…そんなことより何が起きたかを教えて。それ次第ではまだどうにかできるかも」

 翼からことのあらましを説明された。藤田にも傷がついていたこと、犯人を知っていたこと、神田さんのこと。

「…私が付いていれば、誰が犯人か分かったのに」

『それは…ゴメンナサイ』

 藤田は犯人ではなかった。女を道具としか思っていない殺人鬼。世間一般のイメージにぴったりで、第一の犠牲者と関係もあり、警察からも一時期疑われていた男。

 けれど、私はそこまで驚いていなかった。藤田は犯人ではないとはっきりとではないが、分かっていたからだ。

 第一の殺人までならまだ分かる。神田さんに対する性的暴行の露見を恐れてふとした拍子に衝動的に殺してしまったとか。

 だが、第二、第三、第四の殺人はおかしい。いくら自分から疑いの目を外すためとはいえやりすぎだ。その目的なら二回で十分だろうに。

 それに経歴から見える藤田という男の人物像と殺人はどこか結びつかない。ああいう男はもっと小賢しいやり口で悪事を働くものだ。

「ねえ。どんな風に殺されたの?藤田は?」

『…右足を切られてから、胸のど真ん中から、上下に裂かれた』

「…それは」

 あまりにも残酷な殺し方だ。想像するだけで怖気が走る。見なくてよかったかもしれないとすら一瞬思ってしまった。

「…傷って言っていたけど、どんな傷?何でつけられたの?」

『手紙に仕込まれていたカミソリで掌を切られていた』

 やはり傷を負わせなければいけないというのは間違いないみたいだ。直接じゃなくてもいいということまでは予想できなかったが。

 他は手の甲だったのに藤田は手のひら。部位は何処でもいいということなのか。

 その後も703号室で起こったことを細かいところまで質問したが、犯人に直接繋がるような目新しい情報はなかった。

 藤田はおそらく犯人を知っていた。神田の次は自分が殺されると思い、ホテルに逃げ込んだが、逃亡の甲斐なく殺された。殺し方と言いすさまじい執念だ。相当恨んでいるとみて間違いない。

「藤田、神田…」

 この二人だけは傷のつけられ方、殺され方が他の被害者たちと大きく異なっている。ここをもっと詳しく詰めていけば犯人の正体に近づけるのではないか。

 今度はインカレサークルが起こした例の事件の捜査関係者から情報を抜き出さないといけなさそうだ。分かってはいたことだが一朝一夕というわけにはいかない。長丁場になることを覚悟しなければ。

『そういえばさ、唯、また見えなかったんだよ』

 通話中だというのに思索にふけっていた。慌てて返事をする。

「ごめんなさい、何?」

『あの怪物のことだよ。最初の一回だけで、それっきり見えないんだ。なんでなんだろう?』

「…藤田も見えてなかったんだよね?」

『うん』

 あの黒い怪物、その姿を見ることが出来る条件、それがよく分からない。翼が一回しか見えていないことから、同じ人間でも時と場合によっては見えないことが読み取れる。それが原因で法則がいまいちつかめなかった。

『唯だけはいつだって見えるのに、不思議だな』

 その言葉で思い出す。私自身、最初はあの怪物は自分にしか見えないものだと思っていた。実際、私以外であれを目にできた人間はほとんどいないのだ。けれど

 映画館前のあの事件、あの時だけは居合わせた全員がその姿を目にしていた。…あの日だけしか起こっていないイレギュラー。何故…何故か。

 そういえば怪物が現れる直前、私の力が暴走して大勢の人が巻き込まれていた。私の力は色々なことが出来るが、基本は心を繋げることだ。それはつまりものの見方も共有するということ。あの日あの場所にいた人間は私と同じ視座を一時期に手に入れていたということになる。

 そう考えれば、辻褄が合う。やはりあの怪物は私にしか目に出来ない……

「…………」

 あの怪物、初めて出会ったとき感じたのは恐怖ではなく、親近感だった。どこか自分に似ていると思ったことを思い出す。

 だから藤田のような男があの影の持ち主であることは有り得ない。いやあってほしくないとさえ思っていた。

 大体藤田にはあの犯行は物理的に出来ないのだ。藤田は仮釈放されてからずっとホテルに籠っていたようだと翼は言っていた。なら他の被害者たちに傷を負わすことなどできない筈だ。それに藤田のような男がいきなり近づいて切りつけたのなら、彼女らの記憶に残っていない筈がない。

 なら本物の犯人はどうやって傷をつけた。相当な隙を晒していなければ手の甲に傷をつけるなんてことは出来ないはずだ。

 交際相手…?ちがう。三人共通の交際相手などいない。友人や家族もそれと同じ理由で除外。

 犯人はこの三人とは全く接点のない人間…。そんな人間に若い女性が無防備な状態を晒すだろうか。

 チクタクと時計の音だけが聞こえる。何の意味も感情も含まれていないはずの機械音なのに妙に私の心をかき乱す。急かされてるみたいだ。

「無防備、無抵抗……?」

 そういえば…。私もそんな言葉を口にしていたような…

 首筋に触れる。今は出血していないが、三日前、怪我をした箇所だ。薄皮一枚しか切れていないようなほんの小さな傷。だというのに未だに塞がっていない。

 あの時、翼に言われるまで気づきもしなかった。…あれは

 心臓が悪寒で高鳴る。熱くもないのに汗が流れ落ちる。口内が緊張で渇き始めた。

 眼球だけを動かして首の辺りを見る。“それ”が気づかないように、静かにゆっくりと。

 金属質な刃が一対私の首を挟むように置かれていた。悲鳴が漏れるのを必死に抑える。

『唯、どうしたの…?』

 携帯から聞こえる翼の声。それが合図になったのか鋏がピクリと動いた。もうこれ以上は待てない。

 勢いよくしゃがみ込むのと同時に金属同士が擦れる音が聞こえた。震える手で首がまだ繋がっているか確認する。大丈夫だ。けれど…

 振り返って後ろを見る。そこには予想通り、アイツがいた。

「…!」

 黒い影のような怪物。それが巨大な鋏を携えてこちらを見つめていた。躱されたことに驚いているのか首を有り得ない角度に傾けている。何故かと問うように。

『唯!?どうした!?』

「…今ここに来た。アイツが…!」

『は!?一体どういう』

「すぐここに来て!!」

 廊下を走り出す。壁には3Fと書かれていた。N市大病院と書いてある。

『どの病院なんだよ!?』

「N市大病院!」

 必要な情報をすべて伝えきれたわけではないがこれ以上話している余裕はない。耳元に当てていた携帯をポケットに入れる。腕を振り回して必死に逃げる。

「ちょっと!!廊下は…」

「ごめんなさい!」

 看護師の制止にも応えず、走り抜けた。病院の中を全速力で走り回るなんてマナー違反だと自分でも思うが、今は勘弁して欲しい。

『ウゥゥゥゥゥ』

 怪人は鋏を引きずりながら歩いていた。走っては来ない。私を舐めているのか、それとも移動速度は大したことがないのか。

「でも、これなら…!」

 なんとか逃げ切れるかもしれない。だが、そんな甘い期待はあっさりと裏切られた。

「え?」

 怪物は看護師の手から車椅子を奪い取り、そしてそれを片手で高々と掲げる。

「あ」

 ブンと風切り音が鳴る。咄嗟に右に跳んだが、すさまじい衝撃が左肩と頭を襲った。

「――!!!」

 体が時計回りにぐるりと一回転し、床に倒れる。視界の隅で車輪が転がっている。車椅子を投げつけられたのだ。

 声を上げることも呼吸することも出来ない。左腕は自分の体じゃないみたいに感覚がなくて、奇妙な形に折れ曲がっている。動かそうとすると激痛が走った。

 転んだ時に頭も割れたみたいでこめかみからどくどくと血が漏れている。傷口がズキズキと脈打つたびに命の源が、体から出て行ってしまっているような気がして、歯がガチガチと音を鳴らす。

 体中が痛みと恐怖で麻痺しているというのに、怪物の笑い声と足音は鳴りやまない。どんどんこっちに近づいてくる

「…っ!ぐぅっ!」

 歯を食いしばって立ち上がる。怖くてたまらないのに立ち上がった。だけどもう限界だ。走りたくない。これいじょう痛い思いをしたくない。子供みたいにうずくまって大泣きしたい。けれど、今そんなことをやっていたら確実に死ぬ、殺される。だから逃げ終わった後散々泣きわめいてやろう、弱音も文句も全部そこで吐き出してやる。

「…………ふふっ。っ!ははっ!」

 逃げ終わった後。この後のことを想像している自分の能天気さに驚いた。だってそうだろう。こんな目に遭っているというのにまだ生き延びられると思っているなんて。大馬鹿もいいとこだ。焼けるような痛みのせいで涙は止まらなかったが、それでも笑みを抑えきれない。

 左腕をかばいながら、踊り場にたどり着く。下に降りるか、上に登るか。

 私は迷わず上を選んだ。普通に考えれば逃げ場のない屋上に行くのは愚策だ。選択肢として有り得ない。

 だけど、あの人は高いところが好きだから。きっと、そこに行けば会える。私を助けてくれる。

 屋上は一フロア上にある。たったそれだけの距離を上るのも、今の私には重労働だった。

 視界が悪い。貧血のせいで周りがぼやけて見えるし、流れた血が左目に入って、開けていられない。

 足が重い。走り疲れて鉛みたいになってるのに、震えは止まってくれない。階段を踏み外してしまいそうだ。

 ようやく屋上に出るための扉にたどり着いた。幸いなことに鍵が掛かっていない。

 扉を開け放ち、屋上に出る。自分以外は誰もいない。冬の凜とした空気も相まって、静謐な雰囲気を湛えていた。

 重たい足を引きずってなんとか前に進む。丁度この空間の中央の辺りで体力が切れた。膝から力が抜けてそのまま床の上にへたり込んだ。

 息を長く吐くと、白い靄が空に消えていく。見上げると薄ぼんやりと月が光っていた。

「…」

 ゴンと鉄をぶつけたような重い音がした。ゆったりと振り返ると、怪人は手を伸ばせば届くくらい近い位置に立っている。

 怪物は不思議そうな表情を浮かべていた。いや、表情が分かるほど顔の輪郭はつかめないが、そんな顔をしているような気がしたのだ。走るのを止めたことを疑問に思っているのだろうか。

「…疲れたし。もう走る必要がないから座ってるの」

 体はボロボロで、もう一歩も動けないけれど、それを感じさせないように堂々と答える。

 私の見え透いた痩せ我慢に怪人は顔を近づけ音を立てて笑った。嘲りと憐れみが混じった複雑な音。

 この怪物は人を殺す前にいつも笑っていたけれど、楽しいからそうしていたわけじゃないことは最初から知っていた。苦しんでいることを隠すために虚勢を張っているだけだ。そういうことをする気持ちは私にも分かる。

 間近で見た怪物の目はやはりどこか寂しそうで悲しそうだった。いつか鏡で見た自分の目によく似ている。

『フフフッ、グフフフッ』

「…無理して笑わなくていいよ」

『?』

 怪物の笑い声が止まる。体が石のように固まった。

「アナタが誰かはもう分かってるから――」

 この怪人の正体、裏で操っているその人物の名前、それを口にし終えた瞬間怪人から黒い触手が、いや髪の毛が伸びて私を吊り上げた。

「あっ、ぐ」

 怒りか恐怖か、それとも羞恥からか、怪物の息が荒くなる。不気味な笑みは顔から剥がれ落ちて、剥き出しの殺意が私に降りかかった。

 彼女は取り乱したように鋏を私の頸にあてがった。少し力を加えるだけで私の命はあっけなく消えるだろう。そんな状況だと言うのに不思議と心は穏やかだった。

 目を瞑り静かに待つ。諦めたからじゃない。信じているからだ。

 たった数ヶ月、ほんのわずかなときしか共に過ごしていないけれど、この世の何よりも信じられる私のヒーロー。きっともうすぐ助けに来てくれる。


『ガアッ!』

 獣のような咆哮とともに刃は無慈悲に閉じられた。

『……ウ?』

 怪物は気づいた。血飛沫も肉を断つ音もやってこない。刃は空を切り、爆発的に伸びた頭髪は千切れ落ちていた。

 前方を見据えると、そこには少年がいた。先刻まで手許にいたはずの金髪の少女を抱きしめて、息を切らしている。

「……大丈夫?」

 か細く震える少年の声に、少女は涙を流しながら微笑む。

「…うん。来てくれるって分かってた」

 少年も泣きそうな顔をして笑い返した。


 間一髪、間一髪で間に合った。連絡を受けてすぐに駆け出し、病院に向かったが、どの病室にいるかも分からない。屋上から屋上へ跳ぶような奇特な習慣が自分にあって助かった。そして、それを唯が理解してくれていたからこそ間に合った。

 ここに来るまではそれこそ無我夢中でほとんど何も考えないようにしていたが、緊張の糸が切れて今更体が震え始める。

 映画館で死んだ相川さんの死骸、ついさっき目にした藤田の残骸、それがフラッシュバックして唯の姿と重なる。

 もし一秒でも遅かったら、唯も、あの時見た、死体みたいに

「下がって!!」

 声が響き、反射で後ろに跳んだ。ものすごい速さで首元を何かが掠めたみたいだ。風切り音で辛うじて分かった。

 やはり見えない。いくら目を凝らしても視界には何も映らない。

「避けて!!」

 叫び声。指示に従いまた飛び跳ねた。先ほどまで立っていた場所に大きな亀裂ができる。コンクリートの破片があちこちに散らばった。直撃すれば無事では済まないだろう。

 しかし、攻撃される瞬間に指示してもらえば、ギリギリで躱すことは出来る。

「うっ…!いっ!」

「唯!?」

 苦しそうな息遣いと青ざめた顔。何があったか聞く直前異変に気付いた。

 左の肘関節が砕けて前腕がだらりと垂れ下がっている。頭が割れているのは抱きかかえたときから分かっていたが、こっちには気づかなかった。

 じっとしていても相当だろうに、この状態で動かすなんてどれほどの痛みが走るのか想像もつかない。

「…大丈夫、だから」

 唯はそう言っているが、とてもそうには見えない。すぐにケリをつけなくては。でも、どうやって。

 逃げるか。いや、全力で走ったら唯の体が耐えられない。それに早乙女さんは家の中まで追跡されて殺された。逃げたって何も解決しない。

 でも、見えない敵をどうやって倒せばいい。どうすれば。オレに何ができる。

 焦りが高まって段々と狭まってきた視界、それを冷たくて滑らかな白い掌が覆った。

「ちょ、唯!?」

 意図を問う前に手は離れる。すると、目前にはあの日目にした怪物が立っていた。

「え?」

 驚いて思わず腕の中にいる彼女に視線を向ける。その顔はわずかに赤みがかっていて、はにかむような笑みを見せていた。

 温かくて締め付けられるような想いがオレの中に流れ込む。それはあの夜、彼女と手を繋いだ時に感じたものとよく似ていた。

「…翼なら大丈夫。絶対勝てるから、焦らないで、いつも通り」

 小さな声だったけれど、その言葉には強い信頼と安堵の気持ちが込められていた。

「…分かった。ありがとう」

 肩から力が抜けて、いつもの調子を取り戻した、と言いたいところだが、むしろ気持ちが昂ってきた。熱が駆け巡って体中に力が漲る。好きな子に応援されたんだ。いつも通りにというのは無理な話だ。

「唯は下がってて」

 頷いた彼女を腕からそっと下ろす。重たげな足取りでオレの後ろを走っていった。

『ウゥゥゥ!!』

 咆哮が耳を劈く。それと同時に怪物は肉食獣のような速度で駆け出した。狙いがオレではないのは向いている方向で分かった。

 そのまま唯に襲い掛かろうとしている。オレのことは意にも介していない。オレに興味がないのかそれとも見えていないと高を括っているのか、そもそも攻撃できないのか。どちらだろうと構わない。彼女のおかげでその薄気味悪い姿も甲高い奇声もハッキリと認識できている。

『ガァ!?』

 右脇を通り過ぎようとした瞬間、怪物の無防備な腹に膝蹴りを入れた。まるで人のような呻き声を上げる。

 急所に“入った”感触が膝から伝わってくる。人間ではないからどれほど効いているかは分からないが、反応は悪くない。

 腹を押さえながら怪物はたたらを踏んで後退する。ようやくオレを敵と認識したようだ。首を勢い良く曲げこちらを睨みつける。そして黒い糸、いや頭髪を伸ばして体を捉えようとしてきた。

 以前は驚かされたが、それは前にもう見ている。一跳びで大きく後退して距離をとった。十メートル以上離れたのに髪の毛は一尺ほど手前まで伸びている。だがそれ以上は近づかない。それが限界なのだろう。

 着地してすぐ、走り出す。長引かせるつもりはない。蹴りのダメージが残っている内に終わらせる。

 一息で怪物から一メートルの距離まで詰めた。獲物の反応は遅い。二メートル大の鋏もここまで近づかれては大した意味がない。

 鋏を振り上げる間も、後退する間も与えずに拳を土手っ腹にもう一度叩き込んだ。ずぶりと体の内側にまで腕がめり込む。人間とは違ってその中には何も詰まっていなかった。

『イ、イッ、イ……タぃ…』

 ガランと音を立てて鋏が地面に落ちる。怪物の体が崩れ落ちてオレにもたれかかるような格好になった。

「…軽いんだな」

 威容を誇っていた怪物の体は以外にも軽く脆い印象を受けた。まるで痩せ細った枯れ木のようだ。

 雪が解けるようにボロボロと体が崩れ落ちていく。あっという間に人の形を失くして塵の山になった。

 強い風が吹いて塵は暗い空に消えていく。何人も殺した化け物だが、その散りざまはどこか哀れなように思えた。

「ふう…」

 隠れていた唯がフラフラとした足取りで近寄ってくる。その表情も動作も何もかも愛おしい。

「翼…」

 倒れそうになった彼女を慌てて抱き留める。改めて見ると酷いけがだ。左頬が血で真っ赤に染まっている。早く手当てをしてもらわないと。ここが病院で良かった。不幸中の幸いだ。

「唯、下に行って診てもら…」

「うっ…怖かったぁ…痛かった…よぉ…!」

 人形のように綺麗な碧眼からポロポロと涙が零れる。緊張が和らいで感情を抑えきれなくなってしまったみたいだ。

 こんなに怖がっていたのにオレが来るまで気丈に振舞っていたんだ。その事実に胸が熱くなる。

「…頑張ったね。もう大丈夫」

 体温がある。胸の中で泣いている。ちゃんと生きている。

 助けられた。間に合った。それを確かめたくて抱きしめる腕の力が強くなってしまう。

 泣き声が止むまで、ずっと二人で抱き合っていた。



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