第12話

 「う、ん…うわっ!!ってあれ…?」

 早乙女琴理は自らの悲鳴で飛び起きた。冬だというのに背中にぴったり衣服が張り付くほど汗をかいている。

 嫌な夢を見てしまった。きっと昨日のアレのせいだ。

 「なんだったんだろう…?」

 昨夜、とても奇妙で恐ろしい体験をしたことを思い出す。友達と二人でカラオケに行った帰りのときだった。

 そろそろ本気で大学受験のことを考えなければとか、そんなことを考えて歩いていた時、突然足音が聞こえた。

 振り向いた先には誰もいない。むしろ夜道はぞっとするくらい静かで、自分以外生きているものがいないと思わせられるくらいだったのだ。

 恐怖を誤魔化すためにため息を吐いたのと、自分の視界が反転したのは同時だった。ものすごい力で手足が締め付けられて、逆さ吊りにされていると気が付くまで十秒以上かかったような気がする。

 悲鳴をあげようとしてもかすれ声しか出てこなかった。本当に怖いときは声が出ないものだということが嘘ではないことを、心の底から思い知った。

 逆さになった頭で思い出していたのは一昨日の事件のことだった。若い女の人が衆人環視の中で宙づりにされて首を切られてしまった、恐ろしいというより荒唐無稽に思える怪事件。

 カラオケボックスの中でだらだらと歌ったり他愛のない世間話をしたりした。買いたい服のこと、最近行った美容院のこと、クラスの恋愛事情。そんなことを話している内に誰かが面白い動画があると言った。

 その動画には巷を騒がしている首切り殺人、まさにその瞬間が記録されているのだという。なんでもその場にいた人が撮影していたらしくそれがアングラなサイトに載せられていたのだという。

 私達は趣味が悪い、嘘っぽい、とかなんとか文句を言いながら結局その動画を見ることにした。皆口にはしなかったが興味を抑えきれなかったのだ。

 手振れが酷い映像だった。画質もお世辞にもいいとは言えないし、おまけに雑音塗れで何が起こっているのかもよく分からない代物だった。けれど、最後に聞こえた女の人の悲鳴と巻き上がった血しぶきだけははっきりと撮れていた。

 聞けばその場所には黒い怪物のようなものがいて、そいつが女の人を殺したらしい。映像には映っていないけれど、その場にいた大勢の人が見たと証言しているそうだ。

 気分は悪くなったけれど、同時にこんなことが現実で起こったんだと興奮もした。帰るころにはもう忘れていたけれど。

 他人事だと思っていたことが自分に降りかかっていることに気づいて、頭が真っ白になった。無我夢中で暴れていたが、途中で意識を失った。いつの間にか私は倒れていて、体に自由が戻っていた。

 空を見上げるような形で倒れていた私の顔を小さくてきれいな髪の色をした女の子と背の高い男の子が覗いていた。顔立ちからして自分と同い年くらいに思えた。

 起きた直後は混乱して逃げ出そうとしたのに女の子に触れられた瞬間、急に冷静さが戻った。魔法をかけられたみたいに不思議な感触だった。

 最近変なものを見なかったかと聞かれたが、思い当たる節がなく、首を振ることしかできなかった。女の子の方は少し残念そうな表情をしていたような気がする。

 初対面だというのに二人は私を家まで送ると言い、私もそれに疑問を持たずに歩いた。思い返してみても何故自分があの子たちをそこまで信用したのか分からない。

 家に帰って普段通りご飯を食べ、お風呂に入り、眠って、今に至るわけだ。

 あの夜に起こったことを親や兄には伝えていない。言ったとしても信じてもらえないだろうし、自分の中でもまだ整理がついていないからだ。

 「寒い…早く着替えよ」

 濡れた衣服が空気に冷やされてますます冷たくなっていく。風邪をひいてしまいそうだと思い、上着を脱ごうとしたとき、小さな異変に気付いた。

 「あれ、まだ治ってないの…?」

 手の甲につけられた一本の赤い線、小さな傷はまだ残っていた。

 傷は二日前についたもので原因は覚えていない。いつの間にかついていたし、いつまで経っても塞がる気配すらなかった。

 普通ならかさぶたになって、そろそろ塞がっているはずなのに。血小板が機能していないのだろうかと不安になる。

 「絆創膏張りに行こ」

 ベッドから立ち上がる。あくびがこみあげて大口を開いた瞬間、視界が落ちた。

 ただ貧血で倒れたわけじゃないということはすぐに分かった。何故なら景色がくるくると回っていて、首から下が動かせなくて、血の匂いに部屋一面が包まれていて、頭がなくなった不格好な人体がベッドの傍に倒れていたのだから。

 悲鳴を上げる間もなく頭の中が黒く冷たい闇に塗りつぶされていく。最後に考えたのは家族のことと、何で死なないといけないのかというちっぽけな疑問だった。


 七時を回ったころ唯が相変わらず頭に寝癖をつけて居間に駆け込んできた。テレビのリモコンを慌てた様子で掴み取り電源を点ける。チャンネルを何回か変える内に信じがたい文章が液晶に映る。

 首切り殺人、三人目

 被害者の名前はまだ公表されていないが、映像に映っている建物と年齢から昨日の早乙女という少女だということは分かる。

 他の犠牲者ならまだ受け入れられた。オレたちは警察じゃないし、不眠不休でパトロールするわけにもいかない。遠いところで誰かが殺されても仕方がないことだと、少なくともオレは割り切れる。

 けれど顔を知っている相手が殺されるのは後味が悪い。助けたと思っていたのだから猶更だ。

 唯は隣で口を押えながら、顔を強張らせていた。悲しんでいるというより驚いているという方がしっくりとくる表情だ。

「…なんで…?そこまでして…」

 そう言って倒れるように椅子に座った。独り言は尚もやまない。考えをまとめるためというのは傍から見ても分かった。

「やっぱりあの人が殺されたのは変な気がする…」

「変って、そんなこと今更じゃないか…」

「そういうことじゃなくて…執拗すぎると思わない?」

 執拗、唯はそう表現した。一度失敗して、その場から逃げたというのに家にまで押し入って殺害する。確かにそれは普通じゃない。

「余程恨みがあったのか…いや、多分」

 しばらく黙り込んだ後彼女が口を開いた。

「…ねえ、翼。そもそもどうやってあの怪物は獲物を選んでるのかな?」

「え?」

 思いがけない質問だった。自然現象のようなもので特に法則があるなどとは思いもしていなかったから。

「さあ…強いて言うなら若い女の人…?」

 三人の被害者を思い浮かべて見出した共通点と言えばそれくらいしかなかった。オレの回答に満足がいかないのか唯は曖昧な頷きを返す。

「かもしれない…けどそれにしてもどこか…」

 再びの沈黙。しかしそれはさきほどのものよりは短く終わった。

「…ごめん私、出かけてくる」

 唯はよろめきながらも立ち上がり身支度をし始めた。行き先を聞くと苦虫を噛んだような表情で答えた。

「…早乙女さんのマンション」

 当然オレもついていくことにした。何をするつもりなのかは分からないが彼女一人ではどうにも不安だし用事もなかったから。

 目的地までには地下鉄を使ったのだが、懸念通り唯はマンションへの行き方を覚えていなかった。どうにも方向音痴の気があるらしい。

 電車に乗っている間、彼女は少し顔色を悪くしていた。何かに堪えるように口許を引き締めてオレの袖を掴んでいる。

「大丈夫?」

「…人が多い場所に来るとよくこうなるの。気にしないで」

 会話が途切れ、手持ち無沙汰になった。スマホを取り出す。ネットを漁ってもなにか益があるとは思えないが事件について僅かな情報でも目にしておきたかったから。

 ネット上では怪物が引き起こした殺人事件についての書き込みが大幅に増えていた。一般人はもちろんメディアも注目しているらしい。記事がいくつも出されていた。動画サイトでも怪しげな大人達が事件について話していた。殺人犯の正体は怨霊だとかUMAだとか果ては政府の陰謀だとか好き勝手言っている。

 SNS上では二日前の事件の映像が流出しているという噂も流れていた。大多数の人間は忌避感を示していたがグロテスクな好奇心を隠しきれていないものも見受けられた。

「…嫌な感じだな」

 三人の命が理不尽に奪われた。それは当事者にとって間違いなく悲劇であり耐えがたいものだ。けれどそれは世間という水溜まりに流れた時薄まり、濁って、変質してしまう。

 誰かの体験した悲劇は誰かの手に移る度に形を変えて娯楽にまで落ちてしまう。そしてそれは珍しいことじゃない。所詮他人は他人だ。感じたことをそのまま受け取ることなんで出来ないしそんな義務はない。

 分かりきっていることではあるがチリと胸に走った不快感はすぐには消えなかった。

 結局大した情報も得られずに画面から目を離した。最初から期待などしていなかったが徒労の上に不快感までついてくるとなると思わずため息をつきたくなる。

 駅から出て早乙女さんが死んだ場所に向かって歩いている最中オレは彼女に理由を質した。なぜあんなところに足を運ぶのか。

「…知りたいことがあるの」

「前みたいに被害者の家族とかから情報を引き出すってこと?でもまた空振りかもしれないし今は多分警察が…」

「…だからだよ。警察の心を読むの。」

 耳を疑うような発言だった。警察の心を読むだって。一体何のためにそんなことを。

 「…本気?」

 「…うん。本気。ニュースでもやってた。警察は三つの事件を連続殺人として扱ってるって。なら、私たちが知らないようなことも掴んでるかもしれない。少なくとも新聞紙とネットニュースよりはマシな情報が手に入るはず」

 「でも唯、あんなのが相手じゃあ何を調べたって手がかりなんて掴めないよ。警察に期待したって」

 無駄だ、そう言おうとした瞬間に彼女は人差し指を立ててオレの言葉を遮った。

 「…昨日言ってたよね。あれは幽霊なんじゃないかって。でも違うんだよ」

 「違うって…どういうこと?」

 「あの黒いのと何度も繋がったから分かるの。あれは幽霊でも何でもない。人間なんだよ」

 あまりにも突拍子がなくて言葉を失った。人間?あんなものが?

 唯は少し間を置いてから顔を俯けた。そして懺悔室の中にいるかのように重々しく言葉を吐き出した。

「…翼は心の底から人を憎んだことある?」


 心の底から人を憎んだことがあるか、そんな不愉快な質問に彼は嫌な顔一つせず真面目に答えてくれた。

「…どうだろう。痛い目に遭えばいいと思うことくらいはあったかもしれないけど、そこまではない、かな」

 想像通りの答え。安心するのと同時に少し寂しさを感じた。

 「…私はたくさんあるよ。死んじゃえばいいって思った」

 隣にいる翼がどんな表情をしているのかは分からないし、見たくないから顔を逸らした。

 「…似たような気持ちをあの怪物からいつも感じる。あれは生きた人間がどこか離れた場所から操ってるんだよ」

 繋がった時に感じたあの渦巻くような情念。アレは生身の人間から発せられているものとしか思えない。

 「人が操ってる…?そんなこと、出来る訳が…」

 その先の言葉はなかった。彼自身、普通なら有り得ないことをやってのける人間だし、隣にいる私が同じように常識を無視できることを知っているからだ。

 「…私達みたいな人間が他にいるっていう方が幽霊よりは自然だと思わない?」

 だからこそ、この場所に、今朝殺された彼女のマンションに戻ってきたのだ。

 予想通り、いや予想などするまでもなく、警察はこの場所でも捜査を行っていた。鑑識官や刑事が出入りしているのが遠目でも分かる。

 物の怪や獣ならともかく、人が人を殺すのなら動機や傾向があるはずだ。そしてそれを調べるプロが警察という集団だ。

 警察の誰かから記憶を盗らなければいけないが、そのためには時間と場所が必要だ。昨日斎藤さんにやったときにも気絶させたうえで四、五分かかった。

 もちろんそんなことを公衆の面前でやることは出来ない。倒れている人がいたらすぐに救急車を呼ばれて騒ぎになってしまうだろうし、応急処置のためにどかされてしまう可能性も高い。

 監視カメラと人の目が多い建物の中で記憶を読むのはかなりリスキーだ。第一私たちはこのマンションの住人じゃない。普段ならともかく今勝手に入って妙なことをしたら警察に目をつけられてしまう。下手したら今度は捕まるのかもしれない。

 「…そういうことだから、翼は帰って。巻き込むわけにはいかないから」

 私のエゴにこれ以上付き合わせるわけにはいかない。社会的地位なんてないに等しい私と違って翼は真っ当な学生だ。警察に世話になるようなことがあれば将来に影響が出る。

 そのことを伝えても、翼は普段と変わりない表情をしていた。これから私がやることがどれだけ大変か説明したというのに。少しくらい心配そうな顔をしてくれてもいいだろう。

 「…翼、聞いてた?」

 「うん。一緒に行けばいいって話だろ。聞いてたよ」

 「聞いてないじゃん!」

 「今までより難しいことなら尚更オレの協力が必要なんじゃないか?キミ一人でどうやってやるつもりなのさ」

 「…それは、そのアレをこうして…とにかく行ってから考えるの!!」

 「………」

 翼は無言で私を見つめる。ニヤついた顔は言葉よりも雄弁に小馬鹿にしていることを伝えてくる。

 「ぐぬぬぬ…」

 不満と苛立ちのあまり唸り声を上げたが翼は肩をすくめて軽く流した。ますますムカつく。

「落ち着いてよ。唯だって言ってただろ。二人で事件を止められたらって。あれはただの出まかせ?」

「…言ったけど」

 昨日の夜、寝ぼけながら口にしたことを思い出して、顔が熱くなる。確かにそんなことを言っていた気がするがあれはあくまで願望であって、要求ではないというか。

 「…いいの?私がやりたいだけなんだよ。翼が付き合う必要なんて」

 「質問に質問で返すけど…唯こそなんでここまでするの?殺人をキミがやっているわけじゃないってことはもう分かったんだろ?目的はもう果たしたじゃないか」

 私は善人ではない。謙遜なんかではなく本気でそう思っている。関係のない人の命を守るなんてそんなの柄じゃないことは分かっている。

「…私、今までいつ死んじゃってもいいって思ってた。楽しいことなんて何もなかったから」

 父親は最初からいなくて、母親は私に向き合ってくれなかった。

 記憶のないまま放り出された社会は知らない人と知らないことで溢れていて、ついていくことが出来なかった。

 心がまだ成長しきっていないのに体は大人になっていくのが気持ち悪かった。

 色んなことが人と違っていて、いつも寂しかった。孤独だった。

 それでもなんとか生きてきたけれど、心はとっくに限界を迎えていた。ギリギリで保っていた危うい均衡は大切なものを壊されたせいで完全に崩れてしまった。

「私はいつも苦しんでいるのに平気そうに笑っている他人のことが理解できなかった。傷つけられることはあっても助けられたことは一度もなかったから、誰がどうなっても気にならなかった」

 要は自分を含めて命というものに価値があると思えなかったということだ。本当に傲慢極まりない考え方だったと思う。

「でも、最近ようやく生きていることが楽しいって思えはじめた。他の人も自分と変わらないことにも気づけた。だから人が死ぬことをどうでもいいなんて、もう思わない」

 大切な人が一緒にいるだけで嬉しいことを知って、失ってしまうことがどれだけ苦しいかも知った。そしてそういう感情を誰もが持っていることも。

「……今まで散々人を傷つけておいて虫がいいことを言っているって分かっている。自己満足だっていうことも。それでも間違っていたことをそのままにはしたくないの」

 彼は一言も口を挟まず、静かに私の言葉を聞き届けてくれた。僅かな沈黙の後、微笑んで私の手を握った。

「分かった、じゃあ一緒にやろう。成績はキミより悪いけれど少しくらいは手伝えるさ」

 皮肉交じりの軽口だったけれど真剣に考えてくれているのが肌から伝わってくる。さっきは一人でやると虚勢を張っていたが、やっぱり彼の存在は何よりも心強い。

「…うん。ありがとう」

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