第15話 夫の秘密。妻の秘密。
「なんか……面白い二人だったね」
「そうだね」
雑草生い茂る夜の公園に涼やかな風が吹く。
それはさやさやと葉擦れの音を響かせて、薄く見える黒い靄達を夜空に飛ばしていた。
あたしと祥太郎さんは黒い綿毛が舞い上がる中、刑部さん達が消えた道を並んで眺めている。特に会話が必要だと思わないこのひと時、お互いの胸にあるのは、きっと安堵と嬉しさなんだろう。
良かった。浮気じゃなくて。
勘違いしたあたしが悪いんだけど。
でも本当に、良かった……。
いつの間に手を繋いでいたのか、あたしは無意識に祥太郎さんの大きな手に自分の手を重ねていた。
掌には先程堪能し損ねたしっとりと盛り上がった筋肉と浮いた筋の感触がある。たぶん、ハグ(と言う名のホールド)を外して貰った時に、名残惜しさで知らず手を掴んでしまったんだろう。我ながら夫が好きにも程があると思う。
そんなあたしに何を思ったのか、祥太郎さんが頭上でクスクスと笑い声を零した。
それから、見上げたあたしに微笑みかけると、赤くなっていた瞳の色に半分だけ元の茶色を滲ませて、公園の中にある古ぼけたブランコへ遠い目を向ける。
「……ここで、俺は咲良に出会ったんだ」
「え? ここで?」
「そう。まあ、俺はまだ『俺』じゃなかったから、咲良は覚えてなくて当たり前なんだけど」
祥太郎さんが、ほんの少しだけ苦さを含ませて言う。
その言葉に、はて一体どういう意味だろう? と祥太郎さんとブランコを交互に見ながら考えた。
けれど、やはり思い当たらない。むしろこの公園には今日初めて来たのだと思っていたし、あたしの中にそれらしい記憶は無い。
確かに今日は偶然にも二度もこの公園に辿り着いたけれど……果たしてそれは、本当に偶然だったんだろうか?
そう、ふと考えたところで、今生い茂っている雑草は、元は無かった物なのだと気がついた。
そして古ぼけたブランコも、錆び付いた滑り台も、何年も前は真新しかった物なのだと『思い出す』。
「あ……」
靄のかかる記憶の中で、薄ぼんやりと浮かんでくる映像に、あたしは小さな声を漏らした。
夕暮れ、伸びてくる大きな人の影と手。
そしてそれを飲み込む『黒い靄』。
人が生み出す陰の気と、陰の気から産まれる『化生達』。
その化生達を宿した『あの人』の顔は、この公園に逃げ込んでブランコに座るあたしの目の前で……掻き消えたのだと。
その瞬間、あたしの心に沸いた感情。
恐怖でもなく、絶望でもなく、胸に浮かんだのは―――今と同じ『安堵』だった。
「ごめん、咲良。嫌な記憶を思い出させたね。忘れていいよ。俺が忘れる事は無いけれど、君は忘れていた方が良い―――……」
祥太郎さんが、大きな手であたしの顔を覆い隠す。
それと同時に、今浮かんだばかりの記憶がゆっくりと薄れていった。
黒い靄に飲まれる誰かの顔が、段々と朧気になっていく。
それはある懐かしい日の、夕暮れの記憶。
この公園がまだ真新しく、ブランコも滑り台も多くの子供達に使われていた当時の記憶。
―――自分の父親が目の前で靄に飲み込まれたというのに、笑っていたあたしの記憶。
どうしてだったっけ……と薄れゆく記憶の中で考えた瞬間、当時の自分の『両腕』が見えたことでその意味を理解する。
まだらもようのはだ。
こいむらさきいろと、うすいのと、なおりかけのきいろいの。
―――ああそっか。
だから、あたしは化生達が恐くないのか。
だから、祥太郎さんが大好きなのか。
だから、彼を失う事の恐怖にわけがわからなくなって、ストーカーまがいの事や、突っ走った行動をやらかしたんだ。
「やっぱり……祥太郎さん、だったんだねぇ……」
消えていく記憶を引き留めずに、あたしは『今』の自分しか言えない言葉を口にした。
すると祥太郎さんは「覚えててくれたんだ」と顔は見えないけど、まるで泣き出しそうな潤んだ声で返してくれる。
……そりゃあね。覚えてるよ。
だって祥太郎さんが、助けてくれたんだもん。
気付かないわけないよ。例え記憶が『消されて』いても。
初恋、だったもの。
忘れないよ。
たとえ他の『誰』を忘れても。
祥太郎さんの事だけは、忘れたりしない。
―――ねえ祥太郎さん。
あたしね。
あの時あの瞬間に……貴方に、恋をしたんだよ。
「咲良、咲良」
「ぅほぇっ?」
肩をゆさゆさ揺さぶられて、はっと気がついた時には、祥太郎さんの綺麗な茶色い瞳が目の前にあって驚いた。
あり? あたし今一瞬意識飛んでました? 何だか頭がぼけーっと……ええと、確か刑部さん達を見送って、ええと、祥太郎さんと手を繋いでて……って、ん?
「あ、祥太郎さん通常モードに戻ってるっ。ダークサイドヒーローバージョンじゃないっ」
「咲良それ言いづらくない? 流石にあの姿のままじゃ通報されかねないからね。それに家に帰るなら、こっちじゃないと色々まずいでしょ」
「確かに」
元のスーツ姿で背中から羽根も生えていない、手も普通の人と同じになった祥太郎さんに頭を撫でられ、あたしはふむと頷いた。
確かにあの状態では、マンションに入る前から大騒ぎだ。
幾ら昨今のアニゲーブームでコスプレイヤーさん達が街中を闊歩しているといっても、彼らはちゃんとルールを守って行動しているし、イベント以外で衣装を着て歩き回るなんて事は無い筈だ。よって、やたら意匠を凝らしたレイヤーさんだと見て貰うには中々難しいだろう。
「うーん、勿体ないなぁ……。あ! じゃあまた家に帰ったらあの姿になってもらってもいい?」
思いついた名案を、ここぞとばかりに口にすれば、祥太郎さんは苦笑いしつつも「いいよ」と了承してくれた。
特に嫌がってはいないようなので、内心ほっとする。
だってあの某鬼の先生的両腕の触り心地とか、黒い羽根ばっさぁな祥太郎さんの格好良さとか、二度と見えないなんて勿体なさ過ぎるもんね……!
言質は取ったし、これで今後は堪能出来るぞ、と上機嫌になったあたしに、祥太郎さんは通常モードでもやっぱり大きめな手であたしの手をぎゅっと握って「帰ろうか」と微笑んだ。
祥太郎さんの色素薄めの茶色い髪が、星と月の瞬く紺藍の夜空に映える。
彼の肩越しに、ふわふわと風に舞う黒い靄達が見えた。
あたしの、愛しい愛しい旦那様。
見た目は草食系で、あたしは知ってるけど、人には言えない秘密を持ってる。
そんな旦那様が、あたしは愛しくて仕方が無い。
彼が封じてくれた記憶は、二度目なせいか前ほどは薄れていないけれど、今のあたしはそれでも大丈夫だと断言できた。
だって、世にも美しいお姫様や、伝説級のお狐様だって押さえ込んじゃう彼だもの。
光の矢だって銀の針だって、本当は誰が『止めた』のかあたしは知ってる。
そんなやり手なゴーストハンターさんでもある彼がいるから、あたしはきっと大丈夫。
貴方の秘密はあたしの秘密。
だれにも知られたくない、あたしだけの……夫の秘密―――
***
「ところで、どうして祥太郎さんはその……あんまり……」
マンションの部屋に戻ったあたし達は、普段と同じようにお風呂に入り、寝仕度をして、そして普段と同じようにベッドの上にいた。
ってまあ……ちょっと普段と違うのは『あたしの居る場所』だったりするんだけど。
それは置いといて。
ヘッドボードを背もたれにして、なぜかあたしを膝の上に座らせた祥太郎さんはあたしの質問に少し困った表情をした。茶色い眉が下がる様子を、いつもとは上下逆の位置になって見下ろす。
「うーん……満月期はね、抑えが効かなくなるんだよね」
「えーと、そりはもしや……あの、回数的な?」
彼の言いたいことを汲み取って、続きを促すように口にすれば、祥太郎さんはちょっとだけ目尻を赤く染めて、ふいっと視線を逸らす。
なんだ、この可愛い生き物は。
「そう……回数的な、です」
しかも、もの凄く恥ずかしそうに、そんな事を言われました。
あれおかしい。突然動機息切れが始まりました。どなたか○心をお持ちじゃ無いですか。
「大事な咲良を……壊しちゃうわけには、いかないでしょ……?」
……むしろ壊しちゃってっ!
などとは、萌えと勢いに任せて言えなかった。
祥太郎さんの言いたいことは、あたしにだって何となくわかる。彼はたぶん普通の人間とは力加減が異なるのだろう。恐らく、普段もほぼ手を出してこなかったのは、その部分に理由があったんだろうと察せられた。
だが、駄菓子菓子!なのですよ祥太郎さん……!
夫婦なんですよ?夫婦なんだから一生しないってわけにもいかないっていうかそれはあたしが嫌だ。
人間挑戦は大事です。子供時代に先生によく言われたけれど、大人になったからってチャレンジ精神は忘れちゃいけません。何事も挑戦あるのみ!ですよ。
と、いうわけで。
「あの……あたしちょっとは体力ある方だと思うし、その……」
「咲良?」
草食系(だと思ってた)の祥太郎さんに合わせてあたしが選んだ、インテリっぽい濃いブルーのパジャマの胸元に、そっと両の掌をつく。
体重は掛けないように、ベッドに置いた膝にちょっとだけ力を入れて、顔を下げて祥太郎さんと視線を合わせる。
そして、想いよ伝われ、と言わんばかりにちゅ、と初めて自分から口付けをした。
やってしもうた……! やってしまいましたよ、祥太郎さん……!
いやああ恥ずかしくて顔見えないいいっ。
あたしは痴女です捕まりたくありません、夫にならば捕まりたいですが、とわけわからん言い訳を脳内でしていたら、体温爆発状態の頬にそっと大きな手があてがわれました。
キタコレ! と思った感触は、やっぱり祥太郎さんのあの良い感じにいかついお手々で。
あたしは恥ずかしさと嬉しさで、頬ずりを高速すりすりに切り替えてしまいました。
「本当に……いいの?」
「う、うん」
困ったような、だけどすごく喜んでくれているような、複雑な表情をした祥太郎さんが茶色い瞳にまた赤い色を混ぜて確認の言葉を告げる。それにあたしは頷きながら、自分の頬を撫でている大きな手にそっと触れた。
今は薄くぼやけた、だけど決して消えない記憶の中。
あたしを唯一守ってくれた人。
そして、今も守り続けてくれている人。
そんな貴方にだからこそ、あたしは何をされてもいいと思える。例え『あの人』のようにその身に飲み込まれようとも、悔いは無い。
「……咲良は甘過ぎるね。だから俺みたいなのに捕まって、逃げられなくなるんだよ」
逃げるつもりはないので全く問題無いですよ、と見返せば「離婚届」とぽつりと言われ、うっと固まった。
いや、まあちょっとばかし好きな気持ちが暴走して反転して、危なかったけど。本当は逃げたいなんて微塵も思ってなかったし、と弁明しようとしたところで―――……
あたしの身体がベッドに沈み、上からは、赤い瞳と黒い翼、そして普段の何倍にも質量を増した……彼の腕が見えた。
―――そうしてあたしは、また一つ『夫の秘密』を知ったのだった。
終
夫の秘密 〜草食夫の秘された正体〜 国樹田 樹 @kunikida_ituki
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