姫+桜=「」

吾輩は藪の中

第1話

 俺のベッドは、初めてのデートで彼女が見せてくれたあの笑顔よりも、喜々ききとして微笑みながら、鳴いていた。


 見知らぬ男の靴と下卑げびた2つの声を聞きながら、『雅薫みやび かおる』は自宅の玄関を後にする。


「またかよ……クソっ」


 彼女による浮気はこれでだ。さすがにもう我慢できねぇ、こんりんざいあいつとは関わらない、そう胸に強く誓った。


 ――夕焼けがひどくまぶしい。


 追い打ちをかけるように、その丸い赤は体を焼いていく。


 燃えるような気分だ、いっそ燃えながらダンスでもしてぇぐらいに頭はグラグラだよ。


「初めて浮気された時も、夕方のこの時間で、俺のベッドだったなっ」


 彼女がくれたお揃いのペンダントを見ながら、ひとごとむなしくつぶやく。


「当分は、夕焼けとか見れねぇな。無性に腹が立ってくる」


 想い出のそれをポケットにしまい、重いあたまでトボトボとあるき始めた。


「…………脚なげぇなぁ、俺」


 長くなった金色の前髪を直しながら、影を見る。脚のながさを気にするのは、浮気が起きた時に自分自身に価値があるかどうかを見改める為。


 為っていうか、単純に……俺みりょくなかったかな……とか考えちゃうからなんだけど。


 ネガティブになりながらも、ほどけそうになった後ろ髪のゴムを直す。低めに結いであるからやりづらいって思う時はあるな。


「顔とかさ、結構良いって言われるから自信もって頑張ってるんだけどなぁ……」


 スマホのカメラを起動する。


 目は切れ長で、眉毛は凛々りりしく、鼻も高くて、唇も大人の色香いろかただよわせている。なーんて言われる俺の見た目。


 みんな嘘だったのかよって思っちまうくらいに、今は俺のこの見た目が恨めしい。


「ん、なんか通知音鳴った。なになに……『あなたもこれを飲めば、女子からモテモテ間違いなし! さらば独り身ライフ!』だとぉ〜」


 通知を指でスライドして消した。気分としては空の彼方まで飛ばした感じ。


「こっちはたった今、浮気現場を目撃して、トラブルになるのを5回目もひよって逃げてきたとこなんです〜。あ〜むかつくっ」


 1度立ち止まって、自宅を眺めた。


 家は昔ながらの閑静な住宅街の中にある為、人通りは少ない。その代わり車はよく通る。


「車……」


 あの鉄のかたまりに打ちのめされたら、どれだけ痛いだろうか。生きる事を諦めたくなくなるのだろうか。


 わかんねぇ。


 んん、重い頭の割には色々と考えれるな。いや、重いからこそなのかこれ。


 5回目は絶対にブチギレてやるって思ってたのになぁ〜、これじゃ腰抜けだよ。


 それに、慣れが出ちゃったのも怖い。動揺してるようでまぁまぁ冷静だ。


 とりあえずコンビニ行って頭ひやしたら、別れ切り出す話しねぇとなぁ。


「……あれ? せんぱいっ! 先輩じゃないすかぁ!」


 ん、なんだよ先輩って。もしかして、俺のこと? 


「薫先輩! チッス! 俺さっき仕事おわったばっかなんですよ〜奇遇ですねぇ〜」


「その声は、『華唯かい』か?」


「そですよ〜かいくんで――うおっ! 先輩どうしたんですかその顔! 雪より真っ白に青ざめてますよ?」


 振り返ると、そこには『橘華唯たちばな  かい』がいた。部署が今年から変わって勤務時間がちがうとは聞いていたが、まさかこっちが遅くなるとはな……。


「いや、まぁな。ちょっと色々あって頭ひやしに行こうとした所だよ」


「そうだったんですか、あっあの、俺で良かったら話ききますよ?」


 短く爽やかにされた黒の短髪が、風に揺れる。さっきまで見たくなかった夕日を橘がさえぎっているからか、そんなに眩しくなかった。


 いや、ある意味では、橘が夕日の変わりにまばゆく光っていたと思う。


 愛嬌のある大きな目と、犬みたいな幼い顔立ちのあいつが、何故か俺の不幸で愚かな身の上話について興味津々にしていたんだ。


「いやでも、いいよ。大したことじゃないし」


「大したことじゃないのに、そんなに猫背だったんすか?」


「え、おれ猫背だった? マジか」


「めっちゃしてました! それに……そこ!」


 そう言った目の前の初々しい坊やは、俺の首元を指さした。


「いつもしてる彼女さんとおそろいのペンダント! 全然してないっすもん! 絶対なんかあった!」


「あぁ〜…………」


 しまった。さっき、悲しさのあまり外しちまったんだ。やらかしたなぁ〜。


 悲しいのバレバレじゃねぇかよ……。


「俺んち、ここから近いんで行きましょ!」


 俺の腕を掴んで、あいつは己の家路へと急がせようとする。


 そう言ってもなぁ……帰らなかったら、それはそれでなんか言われるかもしんねぇし……。


「彼女と同棲してるんだ……帰らなかったら何か言われるか――」


「絶対ないすよ。今日、1日は連絡きませんよきっと。俺はわかってるんですから」


 被せ気味に橘は言い、その強引さを更に加速させていく。スーツにしわがよりそうだった。


「た、橘っ。おいって」


「……せんぱい、今日の晩飯。塩味の卵焼きいっぱい出しますよ」


「………………それ、俺の好物。なんで覚えて……」


 一旦立ち止まり、腕を掴みながらニッコリとあいつは笑う。


「尊敬してる薫先輩の好物くらい、覚えるのが当たり前じゃないっすか??♪」


「……………………ははっ、負けたよ。……なぁ橘」


「んー? なんですかー?」


 振り返らずに答える橘。


 俺は、あいつにバレないように手を強く握りしめて、声が震えないように繊細に気を付けながら言った。


――――」


 突き刺さっていた夕日が、ゆっくりと抜けていくような、そんな気がした。


 今のあの赤は、優しく俺を撫でているようで、なんだか少しキレイに思えた。


「お前に会ってからだよ」


「んー? なんか言いました?」


「いいや、別になんもないさっ」


「それなら良かった、へへぇ」


 どこかの家で音漏れしていた、音楽が聴こえてきた。



『いつの日か 忘れなかった 肌に触れる愛しき手に 体温が無かった事を』








○●○●






 

 なんで俺……橘と手を繋いでるんだ?


 俺とお前、どうして上半身裸なんだよ。


 分かんねぇ、なんだこれ。


「先輩ぃ……それは卵焼きじゃなくてクリアファイルっすよぉむにゃむにゃ……」


「そんな間違いしねぇよっと。あーそだ、スマホ見なきゃ」


 せせらぎが聞こえてきそうな、涼しくもぬかるんだ朝だった。


「………………結局通知ゼロか。まぁ、分かってた事なんだけどさ」


 スマホをベッドの脇に置こうとしたその瞬間、通知がなった。


「ん? …………彼女からだ。……はっ?」


 スマホには、こんな通知がきていた。



が送られています』

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