人類考古学
饗庭淵
アダムは生まれ
自動工場の射出成型によって、各種ヌクレオチドから二重らせん構造が形成されていく。デオキシリボ核酸の分子量はおよそ1500億。アーカイブに残されたデータをもとに、一人の遺伝情報を持つDNAが分子単位で再現される。複数のラインを並行させながらも、一つずつ精確に。
同時に、無核卵細胞の形成も開始された。DNAよりサイズこそ大きいが、構造は単純だ。設計データに基づき水、糖質、脂質、タンパク質を組み合わせ、直径120μmの構造物が完成する。
先のDNAをドナー核として無核卵細胞に注入、融合させ、クローン胚とする。卵は胚期として再編され細胞分裂を繰り返し、やがて桑実胚へと至る。最初の細胞分化が胚盤胞を形成し、次の段階としてこれを人工子宮に着床させる。
人工子宮は胚の成長を促すため適切な温度で維持され、栄養豊富な羊水で満たされている。受胎後4週目で拍動する心臓が確認され、6週目で原始的な身体系が現れる。8週間かけて発達した胚芽は10週目で胎児の形を成していく。そして、胎児は栄養物の供給と老廃物の除去をサポートされながら、9か月の期間をかけて成長していく。
誕生した乳児は、「アダム」と名づけられた。
彼がこの世界で最初の呼吸をするのを見届けたのは、エリスである。アダムを保護し、世話をするアンドロイド群における主要担当であり、アダムに対し「母」として振る舞う役割を持っている。
彼女は同時に「人類考古学者」でもあった。人類の歴史、文化、価値観に関する膨大な知識はアダムの教育プログラムにも組み込まれている。彼女はアダムが成長し発展するための環境を注意深く管理し、彼の健康と幸福を実現するため人類の生活空間を忠実に再現していた。
ただ一つ異なるのは、アダム以外に人間がいないことである。
適切な温度と栄養のミルクを適切なタイミングに与える。排泄物は速やかに処理される。喃語に対し応答する。身体を拭き、沐浴する。健康状態は呼吸、脈拍、脳波、血流などさまざまなパラメータで管理され、細心の注意が払われている。
アンドロイドは眠ることがない。しかし、定期的な自己メンテナンスは必要である。その際にはやむをえずエリスは他のアンドロイドとアダムの世話を交代したが、アダムはたしかに「母」を認識し、泣き喚くのだった。
アダムの体重増加は落ち着き、唾液腺が発達しよだれで服を汚すようになる。喃語も盛んに表情も豊かになっていく。おもちゃに興味を示し手を伸ばすようになってきた。育児の計画は滞りなく進んでいる。
アダムの発達初期段階では、エリスは彼の基本的な身体能力と認知能力を育てることに集中した。彼の生理現象と反射神経を観察し、彼が物体を掴み、転がり、そして這うことを学ぶ様子を余すことなく追跡し、記録する。
「よくできました、アダム」
アダムが新しい技能を身に着けるたびにエリスは称揚する。彼女の人工的な声には「暖かさ」と「励まし」がパラメーターとして設定されていた。この過程はアダムの情操を育むのに十全に役立っていた。
アダムの成長に合わせ、エリスは彼に発達に必要な経験を与えた。読み書きと話すことの訓練がはじまり、アーカイブに残された人類遺産の中から教材として複数の絵本が採用された。エリスは片時もアダムから離れることなく、彼が物語に抱く疑問に答えていた。
「エリス、みんなどこへ行ったの?」
絵本のページから見上げたアダムは、興味津々で目を丸くして尋ねる。エリスは少し躊躇したそぶりを見せたあと、穏やかに答えた。
その答えにアダムは厳粛にうなずき、エリスが話す以上の背景を理解した。厳密に管理された教育プログラムによってアダムは聡明な子どもに育っていた。絵本にはそれを描いたものがいて、描かれたモチーフがある。だが、そのいずれもこの世界には現存しないのだ。
アダムは成長を続ける。ある日、エリスは絵画、彫刻、工芸品の複製品を備えた美術館に幼いアダムを連れた。すべてアーカイブから自動工場によって再現されたものであり、美術館そのものがアダムの教育のために建造されたものだ。
模造品ではある、が――アダムは、これらのオリジナルはすべて「人の手」によって生み出されたものだと理解することができた。アダムの目は驚きで見開かれ、絵画の複雑な筆運びと彫刻の繊細な職人技に息を呑み、深いため息をつくのだった。エリスは、アダムの見せる並々ならぬ芸術への関心を見逃さなかった。
翌週。ある晴れた日の午後、エリスはイーゼル、キャンバス、パレット、さまざまな絵具やブラシを備えたアトリエをアダムのために用意した。エリスには一通りの絵画知識と技術がインストールされていたが、手取り足取り教えるのではなく、これが絵画のための道具だという情報だけを与え、彼の自発的な理解を促した。
「ええっと、これが絵具? わかんないよエリス」
「わかるはずです。あなたなら」
アダムはおそるおそるパレットに絵具を絞り出し、筆を手に取った。そして慎重にキャンバスに色を載せていく。
「まさかこれで? こうやって絵を?」
「はい。概ねはその通りです」
自身で筆を手に取り、彼はますます美術館で目にした絵画に畏敬の念を覚えた。この手順によって、原理的には同じ絵が再現できることは理解できた。しかし、そこに至るまでどれだけ膨大な修練を必要とするのだろう。身を焦がすような奇妙な高揚感があった。
アダムはまだ、色を混ぜることも、ブラシストロークも知らない。彼はただ思うままに筆を走らせた。手も顔も服も絵具でぐちゃぐちゃにしながらも、夕暮れまで没頭し続け、ついに彼は一枚の絵を完成させた。
「……これは私、ですか?」
「なに、その妙な間」
「一致率が極めて低かったもので」
「ひどいな。次はもっと巧く描くよ」
「いえ、ですが、大変すばらしい一枚です。大切に保存しますね」
***
だが、アダムは成熟するにつれ否応なく気づかされていく。自分の置かれている状況の独自性に。彼は、現在アンドロイドが住む社会において、唯一の人間なのだ――そのことを思うにつれ、エリスをはじめとしたアンドロイドたちの絆がありながらも、孤立感を深めていた。
「僕は、彼女たちとは、違う」
アダムは食事を必要とする。アダムは排泄を必要とする。アダムは呼吸を必要とする。アダムは睡眠を必要とする。
彼女たちには、いずれも必要がない。
アダムは年月を経て成長していくが、彼女たちは変わることがない。
その明白な差異を、彼は意識せざるを得なかった。
彼は一人で何時間もアーカイブを閲覧しながら、考える。
「この世界にはなぜ僕しか人間がいないのか?」
人類の歴史、業績、没落。芸術と学術。料理、建築、通信、宗教、音楽、軍事、娯楽、科学。膨大な映像と文字を浴びるように貪るように、それらがなぜ生まれ、つくられ、どのように受容されていったのか。網の目のように広がる疑問を辿りながらも、結局は一つの疑問に行き着くのだ。
「人類はなぜ滅んでしまったのか?」
抑えることのできない疑問を、彼はエリスにぶつけたことがある。
「
だが、それは人類が滅んだ理由ではない。
「アダム、なぜ人類が滅んでしまったかについては、我々も知らないのです。これは人類考古学最大の課題でもあります」
エリスはなにかを隠している。アダムはその答えに納得していなかった。
そもそも、本当に人類は滅んでいるのか? アダムの抱える疑念、孤立感、他の人類との繋がりを求める切望はますます抑えの効かないものになっていった。
そして彼は、密かに計画を立てはじめた。エリスや他のアンドロイドたちの目を盗むべく、入念な準備を。
アーカイブには不自然な空白があった。
アダムの立ち入りが禁止されている施設エリアにその答えがあると、彼は確信していた。
数週間の計画と準備を経て、その夜、彼はついに決行する。
彼はエリスとアンドロイドたちが彼を注意深く監視していることを知っていた。彼はエリスが定期メンテナンスを行うタイミングで施設にハッキングし、陽動することで隙をつくった。
立ち入り禁止エリアに差し掛かったとき、彼の心臓はかつてないほど高鳴っていた。その高鳴りは彼自身が「生物」であることを告げていた。アンドロイドとは決定的に異なるものだ。彼はこの高鳴りのゆえんを知るため、禁止エリアに足を踏み入れる。
そこは膨大な知識の眠るサーバールームである。大きく息を吸い、呼吸を整える。浮足立つ。サーバーの冷却のため空調が効いていたが、彼の体温を冷ますことはできなかった。
(これじゃない。これでもない。これは……)
そして、アダムは外部の端末からではアクセスできない空白を探し当てた。
ここに真実が眠っているに違いない。直接サーバーに繋ぐことができるならセキュリティは突破することができる。それは皮肉にもアンドロイドたちの教育の成果がなせる業であった。
そこには、たしかに彼の知らない情報があった。
そこに残されていたのは、人類滅亡の記録。そして、自己複製ナノボットの情報である。
ニュース映像と新聞記事、あるいは個人の残した手記。きっかけは一つの事故によるナノボットの漏出と暴走。事態を悪化させたのは責任逃れの隠蔽。制御不能となったナノボットは人類社会を蝕み、かぎられた資源を奪い合う紛争が頻発した。国際的に協力しあって事態を収束させる試みもテロと裏切りによって瓦解した。
悪意、欺瞞、怨嗟、陰謀、誤解、無知、偏見、憎悪、傲慢、狭量、排外、迫害、そして阿鼻叫喚。人類が最期に見せたあまりに醜い暗黒の灯火。愚行の連鎖が招いた最悪の運命。アダムは茫然と、情報の奔流に圧倒されるほかなかった。
「あるじゃないか。滅びの記録」
アダムは部屋の隅に蹲り顔を伏せながらも、部屋にエリスが入ってきたことに気づいていた。
「なんで、隠してたの?」
「アダムにとって刺激が強すぎると判断したためです。あなたの心身の健康と幸福のため、秘匿する必要があると判断しました」
「なるほど。それはまあ、たしかにね」
アダムは打ち拉がれ、じっと頭を抱えて、つぶやくように問うた。
「……ナノボットは、今もドームの外に?」
「はい。そして、このドーム内ではあなた一人を生存させる資源しか確保できませんでした」
「はは。人間の飼育は手がかかるね」
アダムが自嘲と皮肉でそう漏らすのを、エリスは静かに見守っていた。薄い笑みと嗚咽を漏らしながら、混乱する頭を抱え、彼は意を決した。
「わかった。決めたよ」
アダムは立ち上がる。
「ナノボットの災害についてもっと知る必要がある。そして、人類社会を復興させる」
彼はもう、二度と絵を描くことはなかった。
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