波瀾万丈人生に慣れた姫君は順調な今世を信じきれない
ちぐ・日室千種
第1話
カチェリーナは、階を一番上まで登ったところで促されて、静かに後ろを振り返った。
光を溶かし込んだ緑柱石のような目に、よく晴れた空と凪いだ海が遠く映った。折り重なって広がる農園、灰色がかった木々の森、遠くの小高い丘には山羊の群れ、そして景色を斜めに横切る、白銀に煌めく河の流れ。
なだらかな丘陵が広がる土地に目立って空高く聳えるのは、遷都したばかりの帝都の中心、皇宮内は執政宮に備え付けられた鐘楼だ。その周囲には未だ建築途中の建造物が目立つが、さらにその外側を取り巻く居住区や商業区には遠目にも人が溢れている。すでに朝から祝いの旗があちこちに揚がり、普段は落ち着いた煉瓦の街並みが、赤や青に彩られていた。
その帝都から、河の流れがもう一本増えたような煌めく道がこちらへと伸び、今し方登ってきた広い階の下まで続いている。今日のために、砕いて磨いた水晶を撒いたのだと聞いた。
水晶の道沿いには着飾って花を抱えた大勢の民が立ち並び、途切れることなく花を揺らし祈ってくれている。その間を通って階の下まで馬車でやって来た時には、警備の兵たちを押し退ける勢いで大声で祝ってくれた。帝都から今も人の波がこちらへと向かっているのが見えるのは、これから行われる儀式の後、カチェリーナたちが帝都へ戻るのを見守るためだろう。
「見える限りすべての土地と海、そして人が、帝国だ。君が将来私と共に背負ってくれる国だ」
カチェリーナは、隣に立つ男の言葉に華奢な体を震わせた。
男は、その帝国の皇太子。カチェリーナは今日この男の妻となり、皇太子妃となる。
「怖い?」
「はい、少し」
「心配いらない、二人なら。それに私の力の及ぶ限り、君の不安を取り除くと約束しよう」
真摯な言葉だ。
カチェリーナは、そっと頷いて、隣を見上げた。彼の言葉が心からのものだと知っている。彼がその言葉にふさわしい力を持つことも。
けれど。
今見下ろしている帝都から、もし煙が立ち上り、炎が渦巻いたなら。
海に黒点が現れ、見る間に軍船の群れとなって襲撃してきたなら。
私の方が皇太子妃に相応しい、と叫ぶ女に今突き飛ばされたら。
……そんなありとあらゆる荒唐無稽な負の妄想を抱える女だとわかって、捨てられたら。
この記念すべき祝いの日にまで、カチェリーナの胃は重たく鈍い熱を持った。痛みはまだないが、この熱さはよくない兆だ。今すぐに山羊の乳を飲んで、静かに養生したい。
けれどカチェリーナは痛みを意識から切り離し、笑顔を浮かべた。結婚の日にふさわしい、とっておきの笑顔だ。
一度だけ、きゅっと手を握られた。
それから、皇太子は堂々と反対の手を挙げた。カチェリーナもそれに倣った。
階の下に押し寄せた人々が、わあ、と歓声を上げた。
…+*+..+*+..+*+..+*+..+*+…
あのう、失礼いたします。みなさんごきげんよう。
わたくし、カチェリーナと申します。
突然申し訳ないのですけれど、転生、というものに造詣の深いと聞くみなさまに、ご相談したいことがあるのです。
まだ今ならこの部屋にわたくしひとり。誰も聞く者はおりません。今のうちに、どうか、お知恵を拝借させてくださいませ。
そうですわね。まずは、わたくしのことを少しお話ししたほうがいいですわね。
名は、申し上げましたわね。カチェリーナと申します。
髪は栗色でありきたりですが、目は緑柱石のようだと誉めていただくことがあります。お顔の造作はあまり考えたことがないけれど、醜くはないのではないかしら。同世代の方より少し細身なことは少し気にしております。ええ、特にお胸の辺りが。……こほん。母や祖母を見る限り、まだ成長は期待できますわ。
わたくしの住むのはバビルンという国です。
領土拡大の意欲が振り切れた
ほんの二年ほど前のことですわ。
いやなものです、戦争って。守るためならまだしも、どうしてわざわざ外へ戦争をしにいくのでしょう。男のかたにとっては、出世の糸口なのでしょうけれど。
命と、お金がかかるのですよ。
まだ、戦争が職業軍人たちのものだけに留まって、ようございました。
幸いと言っていいものか、もともと穀物の実り豊かな土地が多い恵まれた国ですから、戦いに赴くことのない民は、どばどばと出ていく戦費に気がつかぬまま、かろうじて日々生き延びることはできておりました。外征が終わっても、属州の統治にはこれまた莫大な費用がかかるのですけれど。
わたくしが生まれたウェッテ家も国内で有数の穀倉地帯を所領のひとつとして持ち、その土地アンブロシーを治める爵位を名乗っております。今の当主は父ですわ。ですからわたくしは、伯爵令嬢、いえ、正式に名乗るのであれば、アンブロシー伯爵ウェッテ卿の息女、だったのです。
ええ、だったのです。
今日、結婚して、カチェリーナ・バビルンになりましたの。
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