世界との噛み合わなさ

 幼少期に気づいたことがある。私は世界と噛み合っていない。

 世界不感症という感覚である。驚いたり、いいなと思ったり、そういう感性が働いていないのではと、幼い私は思った。母親が指し示してくれる世界の素晴らしいものに、私の心はつゆも動かなかった。幼稚園の頃の映像を見てみると、他の園児が楽しそうにしているなか、私は真顔ですんとしていた。大人びているといえば聞こえはいいが。良く言えば落ち着いた子どもだった。

 しかし、こんな私にも好きなものはあった。お絵描きと言葉である。おままごとやお人形遊びには興味が湧かなかったのだが、言葉には強い執着心があった。ラ行が好きで、そういう綺麗な言葉だけでセンテンスを構成したがった。一人遊びが得意な子どもだった。

 閑話休題。世界との噛み合わなさは、主に会話において発生する。多くの人は、ぽんぽんとしっかりした言語構成で会話をしているが、私は、思考が明後日の方向に飛んだり、固有名詞が多く含まれたセンテンスに面食らったり、早すぎて聞き取れなかったり、勝手に内に籠もり違うことを考え始めたりする。真っ直ぐ歩く他人と、寄り道をしまくりな私。こんな感じだから、他人が返事をしてほしいときになんの言葉も浮かんでこなかったりする。その時のために、私はいくつか定型文を考え、あたかも感情が乗っているかのようにそれを発話する。ごまかせているのか分からない。たぶん鋭い人は「上っ面だな」だったり、「虚ろだな」だったり思っているのだろう。噛み合わなさを、後天的に補っているようなものである。しかし、今のところ、それ以外にどうやったら噛み合っているように見せかけられるのか分からない。忌憚なく噛み合えばいいのだが、とかく私の脳は自由気ままな散歩が好きなので、人と会話すると不都合なことになる。だから人と会話することがそんなに好きではない。会話すればするほど、他人との価値観や考え方の違いが浮き彫りになるし、それを感じると私は不快になるのである。「これじゃない」と。だから、当たり障りのないことばかりを話したほうがいいのだろうな。

 ここまで読まれると、読者諸君としては「この人アホの子なのでは?」と思われる向きもあるだろう。しかし、私は学校の勉強はよくできた。関西の私大で一番偏差値の高いところに通っていた。なぜ勉強はできたかというと、あれは自分のペースで覚えられるものだったからだ。授業は噛み合わないが、板書さえ取れ、後は教科書さえあったら、どれだけマイペースでも頭には入る。一度で入らなくても、何度も繰り返せるので、それでだいたい覚えることができる。勉強はマイペースな人間にとっては最高の救済措置である。私はこの散歩癖により、学校では無口な目立たない子として生きていたが、勉強は比較的できたので、いじめられることもなかった。ありがたいことである。いじめはダメ、絶対。社会に出たら噛み合わなくてはやっていけない世界が広がっていたので、心身の調子を壊し、紆余曲折あって今は契約社員として働いている。やはり最終的には噛み合わなくてはならない世界が待っていたというのは、私にとって少しばかりの絶望であったが、しかしそれでも生きていかねばなるまい。そう考えて今もマイペースに頑張っている。


 最後に言いたいのは、噛み合いにくいマイペースな子どもたちは、早めに得意なことを見つけたほうがいいということだ。これだと思う道を早めに見つけ、それに邁進することが、この世を渡っていく術の一つであると思う。私は今茨の道を歩いているので、上手くいくかどうかはまだ分からない。学生生活を通じて、私はどうやら国語が得意で好きだと気づいてから、社会人になっても文章をよく書いている。まだそれが職業にはなっていないものの、いつかはなるのではないかと希望を抱いている。しかし、もっと上手いやり方もあっただろうと諦念もしている。例えば、大学生の時点でライターの道に進むとか。日本文学科に入るとか。芸大の小説家コースに進むとか。私はいっときの興味で史学科を出た。ここにも、寄り道好きという悪徳が関わっている。はぁ。しかし仕方がない。なんらかの意味があったのだと思う。いつか振り返ると、史学科を出たことがかけがえのない意味を持って輝いていることもあるだろう。今はそれを信じて生きていこう。以上。

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エッセー はる @mahunna

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