re第9話
「悪いな、花井さん。こんなことまでしてもらって」
「いえ、店長さんのためですから。どうですか、あたしのテクニック?」
「でも、たいしたもんだな。花井さんがそんなに上手いとは知らなかった」
「こう見えて、経験豊富なんです、あたし。きゃっ、痛っ」
「おいおい、大丈夫か?」
「あ、はい。大丈夫です、血は出てませんから」
そう言って、花井さんは苦笑する。
ここは、エンジェリア一号店の事務室兼控え室。
花井さんはパイプ椅子に座って、俺のベストのボタンを付けてくれている。
うっかり針を刺してしまったようだが、軽くつついた程度だったらしい。よかった。
「店長が服装に乱れがあったら、スタッフに示しがつかないもんな。危ないところだった」
「店長さんは接客もお掃除も熱心にやってますから、服が傷むこともありますよ」
花井さんはニコニコと笑ってる。
自分のベストのボタンが取れかけていることにも気づかなかった俺を、馬鹿にしてる様子はかけらもない。
「花井さんは、いつもご機嫌だよなあ……」
「え?」
「あ、すまない。つい、思ったことが口に……」
俺は慌てて手を振る。
「やっぱ接客業やってると、どうしても愚痴が出るもんだろ。俺もバイト時代はお客の悪口とか言っちゃってたな」
店長になった今は、スタッフの前で愚痴などは絶対に言わない。
愚痴や文句を言うとしても、それは自分より上の人たちの前でだけだ。
くだらない愚痴を言う上司ほど、部下にとって目障りなものはないだろう。
「あたし、あまり怒ったりしなくて。のんびりしすぎだって、親にはよく呆れられるんですけど」
「いや、いいことだろう」
飲食店の店員としては、理想的だ。
不機嫌そうな店員に接客されたら、せっかくの美味いメシも台無しになってしまう。
宇津木さんなんかはクールだが、決して雰囲気は尖っていない。
常に気を遣って接客していると、お客さんにも伝わっているんだろう。
そして、花井さんの優しいオーラは間違いなくお客さんに好ましく思われている。
「花井さんがいると、店の雰囲気が良くなるんだよな」
「そ、そんなこと……!」
花井さんが、真っ赤になって凄いスピードでボタン付けを進めている。
照れ屋なところあるからな、ちょっとストレートに褒めすぎたか。
「……というか花井さん、手慣れてるな」
「あたしの家、手芸店なんです。小さい個人のお店ですけど」
「へぇ、それは初めて聞いたな」
そりゃボタン付けも軽いだろうな。
「お店ってどこの――」
「あっ、できました。店長さん、着てみてください」
「あ、ああ」
俺は頷いて、花井さんが差し出してきたベストを受け取る。
考えてみれば、店の場所を聞いても手芸店に行くことなんてないだろうしな。
事務室に置かれている鏡の前で、ベストを着て服装チェック。
「ありがとう、助かったよ、花井さん」
「いえ、お安い御用です。あ、すみません、ホコリがここに――きゃっ」
「うおっ」
花井さんが俺のベストに手を伸ばしかけ、またつまずいて――再び、俺は彼女を抱き留めてしまう。
信じられないくらい、柔らかい感触が伝わってくる。
胸以外は細く見えるのに、なんてふかふかした身体なんだ……!
しかも髪から甘酸っぱい香りがして、鼻をくすぐってくる。
「あの、店長。たまごとツナのサンドイッチですけど、軽いお食事くらいは――」
そこで、事務室のドアが開いて、トレイを持った宇津木さんが入ってきた。
そして、完全にフリーズしてしまう。
「……お店のバイトで女子高生。二重の意味でアウトです、店長。今、出世の道は断たれました」
「冷静に言わないでくれるか!?」
「ち、違うんです、宇津木先輩! ただ、店長さんがあたしを抱いてくれただけで!」
「抱いてくれた……?」
「言葉通りの意味ってだけだからな!」
抱く、に深い意味はない!
「バイトの女子高生とイチャついて、いいご身分ですね、店長……私にはなにもしてこなかったくせに」
「え? 最後、なんて?」
「この失態は業務日誌につけておきますと言ったんです!」
「待ってくれ、日誌は本社で確認されるんだから!」
出世どころか、この若さで窓際に追いやられる!
「許せません……」
ヤバい、宇津木さん、口調は冷静だけど、マジギレしてる顔だぞ。
もし仮に俺が花井さんと付き合ってても、こんなトコでイチャつくわけないのに!
本当に瀬名さんは、昔からわけのわからんところでキレるんだよな。
今日もなんとか一日が終了――
愛車を運転して、自宅へと直行する。
今日はわかふじには寄っていない。
さすがに毎日閉店後の店でメシを食わせてもらうのも悪いし、今日は昼メシが遅かった上に、夜にも適当につまんだから。
俺はわかふじには行ったり行かなかったりで、行く場合は夜十時くらいにLINEを送っている。
愛車をガレージに入れ、ドアを開けて家に入る。
父親はほぼ休みなしで出勤しているので、とっくにいないだろう。
「あ、ヒカ兄、お帰りー」
「えっ……!?」
家に入ると、ぱたぱたと廊下の奥から――紫香が小走りに寄ってきた。
長袖のTシャツにショートパンツというラフな格好だ。
「おかえりなさいのハグぅー!」
「お、おいっ」
まだ靴脱ぎに立っている俺に、紫香が飛びつくようにして抱きついてくる。
髪から甘酸っぱい香りがして、胸の柔らかさと華奢な身体の感触が。
花井さんの甘ったるい香りと、ふかふかした柔らかさとは違う――って。
「……紫香、なんでいるんだ?」
「夕方、おじさんがお仕事行く前にお願いして、入れてもらったんだー」
「もらったんだー、じゃねぇだろ」
ウチの父親も、紫香には甘い。
娘のように――というより、孫を甘やかす祖父のようだ。
父親にとっては、親友だった夫婦の娘でもあるんだよな……。
「もう十一時過ぎてんぞ。こんな遅い時間まで待ってなくても」
「むしろわたしが文句言いたいよ。毎日毎日こんな時間までさあ……あと、帰りが遅くなるときは連絡してって言ってるでしょ?」
「奥さんか!?」
「まだ三年先だよ、それ」
「…………」
確定した未来みたいに言うなよ。
そんな重要なこと、簡単に決められねぇよ。
とりあえず、玄関で夫婦コントをやっていても仕方ないので、リビングへ。
「あなた、お疲れさまでしたー」
「だから、新妻ムーブやめろ」
紫香はニコニコと、俺のスーツの上着を後ろから脱がしてくる。
こいつ、楽しんでんな。
「ヒカ兄、晩ご飯、なに食べたの?」
「えーと……なにかは食べた」
マジで覚えてない。
ディナータイムのファミレスは戦場であり、食ったものを記憶することに脳のリソースを費やせない。
「そんなの、食べたって言わないよ。まだお腹減ってるんじゃない?」
「あー……軽くカップ麺でも食うかな」
「お店のスープとバゲット、パクってきた。おじいの目を盗んできたよ」
「おいおい」
いや、じいちゃんは絶対気づいてると思う。
あのじいちゃんは、店内のことは調味料の一粒のことまで把握してるぞ。
「これ温め直して、バゲットもオーブンで焼くよ」
「マジか。助かる……」
「いいってことよ」
紫香は嬉しそうに言って髪を後ろで結び、エプロンを着ける。
すぐにスープとバゲットを用意してもらい、ダイニングでいただく。
わかふじのスープは上品な味で、疲れた胃にも優しい。
香ばしいバゲットはそのまま食ってもよし、スープに浸して食っても最高。
「ふう……美味い」
「そりゃ、愛情込めてあっためてますから」
「その愛情には応えないといけないな」
「えっ……? え、えっち?」
「そうじゃないっ」
女の子もえっちなことがしたい――
衝撃的すぎて忘れるわけもないが、紫香に襲いかかるには俺は疲れすぎている。
「そうじゃない、なんか続けて世話してもらってるしな。今度、なんとか日曜に休みを取ってみる」
「え? 店長は日曜に休み取るの難しいって前に聞いたよ?」
「俺、そんなことまで話したか。でも、なんとかする」
俺は、やるときはやる。
やるべきことはやる。
「紫香と付き合い始めたんだ。仕事が忙しいからって放っておくつもりはない」
「え、じゃあヒカ兄――」
「デートするか、紫香」
「うんっ!」
紫香は嬉しそうに、こくこくと何度も頷く。
俺だって紫香と遊びたいし――こいつを喜ばせてやりたいもんな。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます