雛祭さんは帰りたい 4
現在、時刻は十八時。
おれたちは沖縄から、地元の学校へと、無事に到着していた。
学校解散とのことで、ちらほら親が迎えに来ているところもある。
おれの家はまだふたりとも仕事だろう。通常なら、快人といっしょに途中まで帰るか、となる流れなのだろうが、今回はどうやら違うようだ。
不満そうにふてくされている快人が、ずかずかとおれの前にやってきた。
「お前な。もうタイムリミットだぞ」
「な、なんの話だろうか……」
「雛祭さん、帰っちゃうぞ。もうすぐ母親が迎えに来るってよ」
「そ……そうか……」
「無念、みたいな顔してんじゃねーっ。今しかないぞ! ほら! 呼んどいたから」
「は?」
おれの背中を押す快人へ、必死に呼びかける。おい、お前なにした。
「校舎裏、呼んどいたぞ。さっさと行け。待ちかねてるぞ~」
「お、お前な~~!!」
余計なことしやがって!
表では、そう文句をいいながらも、内心ではじわじわと、緊張と少しの高揚感がにじんできていた。
雛祭さんのことを、ニックネームで呼べるかもしれない。その自分への期待を感じずにはいられなかった。
さっそく校舎裏に行くと、雛祭さんがイチョウの木を見あげていた。そのきれいな横顔に、思わず見とれてしまう。
しかし、すぐにおれの存在に気づいてしまい、イチョウを映していたひとみは目の前の人間を映し出す。緊張して、そわそわしているおれだ。
「鯉幟くん。何か、ご用でしたか」
「へっ……?」
「海野くんから、いわれたんです。鯉幟くんが、わたしに用事があるみたいって」
快人のやつ、丸投げか。くそう。
「あの、鯉幟くん。実はわたしも……鯉幟くんに用事がありまして」
「え、おれに?」
「はい」
こくりとうなずき、一歩、おれのそばに寄ってくれる。その距離だけで、心臓の動悸がワンテンポ早くなる。
「お父さんのことも、オリオン座流星群のことも、本当に嬉しかったです。わたしにとって、忘れられない修学旅行になりました。あのとき、お父さんに着いて行かなくて、よかったなって思えます」
「そんなの、気にしなくていいのに。だって、おれが嫌だっただけだから」
「嫌って……?」
「雛祭さんと、国際通りに行けなくなっちゃうし、オリオン座流星群も見られなくなる。いっしょに帰るまでが、修学旅行だろ。雛祭さんだけが途中リタイアなんて、あんまりだって思ったから、ひとりで勝手にだだこねてただけ」
「でも、わたしは本当に、救われた気持ちになりました」
「そっか。なら、おれもよかったなって思う」
イチョウの木が風に吹かれ、ぶわりと舞いあがる。はらはらと散る黄金色のイチョウ。そのなかで、雛祭さんの丸い瞳だけが、鮮明に見えた。
「あのさ、おれ……雛祭さんにお願いがあるんだ」
「はいっ、何でもいってください」
「えっと、その……今から雛祭さんのこと、あだ名で呼びたい、と思ってて……その」
「もちろんですっ。なんと呼んでくださるんですか?」
「うえっ、いいの?」
「はいっ!」
「ひ、『ひな』とか……でも?」
とたん、雛祭さんの目が、大きく見開かれる。
「ひ……な……?」
「え?」
「ううッ……頭が……」
頭をかかえ、雛祭さんがうめきだす。
そのまま、イチョウの黄金色が広がる絨毯のうえに、うずくまってしまった。
「雛祭さん!!」
「あ、あたまが……」
「でんわ……!! いや、先生か!? 待ってて、今すぐに……」
「いえ、大丈夫です……。もう……」
イチョウのうえ、両足をそろえて横座りしている雛祭さんは、たしかにもう、どこも痛くなさそうだ。さっきの、あれはなんだったのかと思うほど、平気な顔をしている。
だが、どことなく違和感があるのは気のせいだろうか。
さっきまでの、ぽわぽわした雰囲気が、まるですべてがリセットされてしまったかのようになくなっている。
そのキリッとしたたたずまいは、まさに記憶を失くす前の、まじめ美少女だった雛祭さんそのものだ。
「ああ……記憶がなくなっていたころのことも、きちんと覚えているものなんですね」
「ん?」
「鯉幟くんには、ずいぶんとご迷惑をかけていたみたいで、すみませんでした」
「へ? あ……いや……」
「でも、もう大丈夫です。ちゃんと、ぜんぶ思い出しましたから。十七年分の、雛祭ちかなの記憶を」
「えっ……」
雛祭さんが記憶を失くして、八日目。ついに彼女は、記憶を取りもどしたんだ。
でも、なぜだろう。『取りもどしてしまったのか』と思ってしまう。
うれしいことのはずなのに、さみしいと思ってしまう。
「あ……でも、いちおう病院に連絡したほうがいいよな……あと、先生と、ご両親にも……」
「鯉幟くん」
すべての記憶がある雛祭さんに、ここまではっきりとした声で名前を呼ばれたのは、初めてのような気がする。それほどまでに、おれたちに接点はなかったのだ。
だから、素直に驚いてしまう。
「はっ……はい?」
「―――ひな、は嫌です」
「え?」
「したの名前がいいです。あなたにニックネームで呼んでもらうなら」
「……え?」
壊れたおもちゃのように、言葉にならない感情しか、口から出てこない。雛祭さんにいわれたことで、頭が一気にパンクして、どう答えたらいいのかわからなかった。
「他に何か、ありませんか? わたしのいいニックネーム。ねえ、鯉幟くん」
「……じゃ、じゃあ『かな』とか」
「いいですね。じゃあ、それでお願いします」
「雛祭さん」
「何ですか?」
「記憶が、戻ったんだよね」
「はい、鯉幟くんのおかげで、もどっちゃいましたね」
「どうして?」
「……あなたがわたしのことを『ひな』なんて呼ぶからですよ」
「え……?」
「鯉幟くんは、わたしが作った呪文『イット』を唱えてしまったんです。気づかないうちに」
呪文? イット?
また、異世界転生の話か?
それをおれが唱えたから、どうしたっていうんだ?
「『ひな』は、『17』でしょう。アルファベットにすると、『IT』に似てる、だから『イット』。異世界っぽくて、かっこいいでしょう」
そう話す雛祭さんは、おれの知っているまじめな雛祭さんではなく、異世界から来た雛祭さんに見えた。
記憶があっても、なくても、雛祭さんは雛祭さんなのは正直、うれしい。
だが、気になることはまだまだ山積みだ。
「どうして『ひな』を呪文に?」
「わたし、お父さんが……苦手なんです。知っていると思いますけど」
「ああ……」
「中学生のころはお父さんと同じ『雛祭』って名前すら嫌な時期があったんです。だから、『ひな』から呪文を作ったんですよ」
なるほどな。それじゃあ……。
「イットって、どんな呪文なんだ?」
「復活の呪文、ですよ」
「なんで、おれが唱えたら、呪文がきいたんだ? そんなこと、ありえるのか? きみは記憶喪失だって、医者から診断されたんだよな? 雛祭さん———きみは本当に、記憶喪失だったんだよな?」
「質問が多いですね、鯉幟くん。わたしがいえることは、ただひとつです」
雛祭さんが、「ふふ」と笑う。それは、まるで本物の魔法使いのようで、おれはつい、錯覚してしまう。
雛祭さんは、本物の異世界転生者なんじゃないかと。
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