第12話
カフェの後は、予定通り海辺に向かう。時間は十五時。
今日の探索場所も、岩場が隆起してばかりいる。幅も広くもないから、そのぶん、海が近くて波も来る。足下の岩場の隙間には、波が流れ込んでいる。
そんな岩場をイサナはためらいなく進んでいた。見ていて危なっかしいのはこの際、仕方がない。こういう場所を調べて回るのだから、そういうのは承知の上だ。
それでも、大事には至らないだろうと思っていた。はっきり言って、油断していた。
油断。そう、正しく油断だった。慣れてきたころが、一番危険だというのに。いつものように変わらないと。単に、何も見つからないだろうと思っていた。
イサナの様子がおかしいと気づいたのは、偶然だった。
海へと突き出た岩場の上で、彼女は足下を見て、口を手で抑えていた。まるで、何かを……それこそ、死体でも見たような様子、といってもおかしくない、そんな雰囲気。
「お、おい! 何かあったのか!?」
俺がいた場所からでは、イサナの視線の先は見えない。それに、イサナは俺の言葉が聞こえてなんかいないみたいに、逃げるように後ずさりしている。そのまま後ずさりしていけば、反対側から海に落ちてしまう、そんな状態だ。
流石に、それはマズいだろう。俺はイサナの方へと走ったのは、咄嗟のことだった。それがギリギリのタイミングだった。
目の前で足を滑らせたイサナ。彼女に手が届く距離に俺がいた。
手を伸ばし、掴み、引っ張る。勢いのまま入れ替わる。俺は反射的に、イサナを庇っていた。
どちらも無事ならよかったが、そこが俺の限度だった。入れ替わるようにして庇ったから、俺の背後には受け止めるものも何もない。勢いづいて、そのまま水面に落ちていく。身体は勢いよく、海の中に放り出される。
背中を打ち付ける岩場がないのは幸いだった。海だって少しばかりは深さもある。
どぷん、と沈む音。同時に、口の中に塩水の味。
覚悟していた背中への衝撃は、ほとんどなかった。目を閉じて、浮力のままに水面から顔を出す。
溺れるなんてことはなかったが、目や口に海水が入った痛みで、その場から中々動けずにいた。
「だ……大丈夫? 怪我はしてない?」
上から、イサナの声が聞こえた。呼吸を整えてから、やっとの思いで返事をする。
「し、死んでないから大丈夫だ」
「変なこと言ってないで、ほ、ほら、早く上がって!」
まだ視界も定かで花田舎で、腕を引かれる。焦っているのかもしれないけれど、もう少し優しくゆっくりしてくれると嬉しかった。
それにしても、慌てるイサナという、面白いものと遭遇した気がする。それだけで元が取れた気になるほど、刹那的には生きてはいないけど。
とりあえず陸に上がる。びしょ濡れだ。こんなことになるなら、タオルや着替えくらいは持ってくるべきだったな、と思う。
「ほら、これ使って。持って来てたから」
考えていれば、水瀬から大きめのタオルを差し出される。断る理由もない、大人しく受け取って、顔を拭く。タオルからは、嗅いだことのない甘い匂いがした。
「服、脱いだら? 今日は風もあるし、帰りまでには乾くと思う」
「いや……うん、まあ、そうだよな」
今日は九月も半ばなのに、日差しが強い。風もあって、岩場にでもかけておけば、上の服くらいはすぐに乾きそうだ。
ただ一つ、問題があった。それは、ごく個人的なことで、だからこそ躊躇った。
「……男の上半身を見せられたって、私、別に気にしないわよ? 流石に下まで脱がれたら、困るけど」
中々脱がない俺に対して、イサナは怪訝そうに言ってくる。
今更か、と思う。それに、イサナに取り繕うのも、それはそれでおかしい気がした。
「あー……変なもの見ても、気にしないでくれよ?」
俺はシャツを脱いでおく。別に、面白いものなんて何もない。至って普通の身体。
ただ、唯一違う点があるのなら。
「……その、ごめんなさい、茶化したりして」
「いや別に、そういうのは大丈夫だから」
俺の背中には、大きめの傷跡がある。人には見せるようなものではない、朱色に広がる一筋の線が残っている。
事情を知らずとも、一目で事故によるものだと見えるもの。
素直に謝られたのは、拍子抜けだった。それが、たぶん当たり前の反応だからだ。
それから、水瀬は、口をつぐむ。想定通りだけれど、想定通りの反応をする水瀬が何故か面白い。
何も話さずにいれば、漣の音だけが聞こえてくる。
俺は、中途半端だ。
「俺も、昔、事故に遭って、親が死んだんだ」
だから、口を割ってしまった。
「そのときについたんだよ。まあ、死んだものは仕方ないし、痣が残ってることも、俺はそんなに気にしてない。生きてるだけでラッキーな方だしな。問題があるとすれば、海とかプールには入れないことだ。こんなもん見せられたら、盛り下がること間違いなしだからな。なあ、イサナもそう思わないか?」
どうにか努めて軽く言ってみたけれど、流石の水瀬でも「なんだ、そんなことだったのね」とは返してこないらしい。
言葉のリレーは続かない。俺は、視線を彷徨わせて、しかし結局は足下へと戻す。
「これで、お前の妹の話と釣り合うか?」
俺は、イサナを一方的に知ることに、勝手に罪悪感を抱いていた。だから、代償とばかりに話してしまった。なんの利益もないことだ。引っ越してからは、こんな自分語りなんて、誰にもしていない。
それでも、水瀬イサナなら、と打ち明けてしまった。
果たして、
「そんなこと、気にしなくてもよかったのに」
水瀬から、何でもないことのように返されたそれに、俺は心底安堵した。それが、期待していたものだったからだ。それが危惧していたものではなかったからだ。
同情を求めているわけでもない。起きてしまったことは変わらない。いなくなったものは仕方ない。なのに、周囲はかわいそうなものとして扱ってくる。
それが、どうしても耐えがたい。
記憶のない俺に、両親の死の実感はなかった。
受け入れない水瀬に、妹の死の実感はなかった。
「私たち、同類ね」
「そう、かもな」
境遇に近似はある。一方で、同類と言い切れるほどに、俺は水瀬のことを分かってはいない。
だから、知りたいと思った。それが、ごく当たり前であるように。
「水瀬はさ、なんでバイクをとったんだ? やっぱ、妹関連か?」
「……そうだけど。その通りだけど? 妹が、後ろに乗りたいって昔、話してたの。だから免許も取ったし、買ったわ。変?」
「妹のことが大好きなのはもう驚かないから……」
「本当は、妹以外を乗せる気はなかったわ」
「それはそれは……光栄で?」
「ありがたさを心に刻んで置きなさい」
軽口の調子が戻って来る。この調子なら、聞いても構わないか、と判断。
「そういや、さっき、なんで驚いてたんだよ。なんか見つけたのか?」
「……別のものと、見間違えただけよ」
水瀬は立ち上がり、歩を進める。俺も後についていく。
岩礁の間、そこに隠れていたものは、死体だった。
人ではない、魚か何かだ。それも人の大きさほどもあるそれが、白い腹を出して倒れている。
その姿に、生きている雰囲気はない。
「たぶん、座礁したクジラ……だな。このあたりには、たまに出るみたいだから、珍しいけど別に特別でもないっていうか」
「……これ、どこかに連絡した方がいいの?」
「まあ、一応しとくか……あとで俺がするから、イサナは気にしなくていいよ」
そう、とイサナはその場から離れていく。死骸なんて、まじまじと見るものではない。俺もその場から離れる前に、俺はもう一度振り返ってしまう。人と間違えるようなものでもない。
それでも、イサナはそこに何かを見たのだろう。
「妹じゃなくて、よかったな」
俺は、死骸に背を向け座るイサナの背中へ、言葉をかける。
「……そうね」
見つかることを望んでいるわけではない。エビスを見つけたって、幸福にはなるわけでもない。
イサナが岩場の陰に腰を下ろす。俺はズボンも乾かさないといけないから、正面の日向の場所に。目の前のイサナはいつものような表情だ。
「あと一ヶ月で、終わりにしようと思うの」
潮騒の音に隠れた声で、イサナはそう言った。
あまりにも自然にいうものだから、反応ができなかった。
「いつまでも、鳩羽くんを拘束するのも悪いし。それに、来年は受験だからね」
「……水瀬も、受験のこととか、考えるんだな」
「私をなんだと思ってるの。普通のか弱い女子高生よ」
「……か弱い女子高生は、か弱い男子高校生を脅したりはしないんじゃないか」
「ふふ、そうかも。でも、安心して。動画もちゃんと消してあげるから。これでもうすぐ、鳩羽くんは晴れて自由の身。どう、うれしい?」
なんとか返す言葉を出せた。
ただ、受け入れがたいと思ってしまっていた。
イサナから、受験という当たり前の言葉が当たり前のように出るのが信じられずにいる。そもそも、区切りというものを想定していなかった。
水瀬に脅されて、水瀬の双子の妹の死体を探すことになった。異常は、いつしか日常になっていた。それだって、終わりはいつか来る。学校生活だって、なんにだって終わりはある。
そんな当たり前が、どうにも許しがたい。
「別に、わざわざおしまい、なんて言わなくてもいいだろ」
自分でも理解しがたい強い憤りのために、口をついてでてきた。
「来年でも再来年でも、来たいときに来て、探したいときに探せばいいだろ。そんな物わかりのいいことを言う人間かよ、水瀬イサナは」
「……それも、みんなのイメージ?」
「俺が水瀬イサナに、そうあって欲しいだけだよ。何か悪いかよ?」
勝手なことを言っている自覚はあった。
ただ、終わりを、惜しいと思ったのだ。
何より、ありえないことを話していたはずのイサナが、当然のことを言いだした事実に、腹が立っていた。
「鳩羽くんがいなくなるときは、ちゃんと一言言いなさいよ」
否定も肯定もせずに、イサナはそれだけを返してきた。
「……覚えてたらな」
別れは突然来るもので、告げる時間があるのかも分からない。
それを知っている俺は、気休めと知っていても、言葉を返すのだ。
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