浮いてるやつ
「いい加減にしてください」
体重計の1キログラムに満たない数値を見て、看護師は苛立たしげに言った。
その声はリノリウムと消毒液の香りに覆われた部屋に響き、対角でサックスブルーのガウンを着た男が左腕を血圧計に突っ込んだまま、こちらを振り返ったのが見えた。比較的和やかな健康診断の空気は一瞬間張り詰め、儀礼的無関心の下に再び弛緩した。
足元のディスプレイに表示された7セグメントは静止から緩やかな減少に転じ、間もなく0.0を示した。
「すみません、ふざけてるわけではないんです……」
僕は意味もなく謝罪した。
「いいからもう一度乗ってください」
彼女は、先程よりも幾許かは落ち着いた、けれども腹立たしさを隠さない声で、僕に指示した。
僕はわずかに逡巡し、言われたとおりに一度体重計を降り、再度乗った。もはや足裏に測定台の冷たさを感じることはなかった。
秤はゼロを示したまま動くことはない。
「どうなっているんですか」
今度は動揺を孕んだ、つぶやきにも似た言葉が彼女の口から零れた。彼女は体重計を前にしゃがみ込み、手で押して正しく計測ができることを確かめている。こわれてない、という音を含んだ吐息が漏れた。
「僕、浮いちゃうんです。周りから浮くと……昔からそういう体質で……」
僕がそう言うと、彼女は睨むとも懇願するともつかない目で僕を見上げた。沈黙が僕と彼女の間に落ちる。
僕は近頃、自分が参加しているインターネット上のコミュニティから浮き始めたことを自覚していた。
可処分時間が減ったことや、もとよりズレた言動が多かったこともあるだろう。要因はいくらでも考えられる。とにかく僕はコミュニティから孤立し始めていて、結果として僕の体重は数百グラムとなってしまった。
僕は沈黙を取り繕うために言葉を探した。口をついたのは卑屈な弁解だった。
「でも僕が悪いんです。最近ちょっと馴染めてないから……すみません」
情けないなと僕は思った。望んだわけでもない体質に、なぜ僕が何度も謝らなければならないのか。
しかし、と僕は脳裡でその憤りを即座に拒絶した。確かに体質は望んだわけではないが、コミュニティに打ち解けるか、さもなくば一切のコミュニティから距離を置けばこの事態にはならなかったはずだ。そのどちらも選択できない僕の貧弱なコミュニケーション能力と帰属願望のアンビバレンスが、目の前の他者を不愉快にさせているのだ。
そしてまた、僕はその自罰的な心性と媚を含んだ自らの言葉に嫌悪感を覚えた。
「……とにかく、体重が測れないのでは困ります。体重をもとに診断結果を判断するものも多いですから」
彼女は立ち上がって膝の汚れを払った。
「体重が測れるようになったら、またいらしてください。これ以上は無意味です」
彼女は嘆息するように言った。
僕は、そうですかすみません、お手数をおかけしました、などと会社員生活のうちで培った謝罪のフレーズを唱えて、すごすごと引き下がった。
クリニックを出ると、街は人で溢れていた。耳元で往来する人々の多種多様な会話が流れていく。断片的な言葉の数々は、僕の脳内で意味を形作ることなく、泡沫のように霧散する。僕は人混みに紛れるように歩き出した。
完全に浮いてしまった僕は、通行人の肩が触れるだけでも吹き飛ばされかねない。細心の注意を払って一歩ずつ雑踏を踏みしめる。厳密には、中空を踏みしめた。
先程のやり取りもあって気疲れしたため、一息付きたい心地だった。僕は数十メートル先にスターバックスコーヒーのロゴを見つけ、目標に定めた。
大通りに面した店舗ということもあってか、店内も比較的に混雑していた。僕は油断することなく、数人が列をなすレジカウンターへ向かう。
無事に最後尾についた僕は周囲の注意を集めない程度の溜息を吐いた。列に並ぶという行為は、集団の目的と自身とを合一することだ。緩やかな流れに揺蕩う安らぎがそこにはあった。
しかし、いつまでもその安寧に浸ることはできない。列とはいわばモラトリアムなのであって、必ずその終わりが訪れる。僕はこの猶予期間のうちに、来たるべき終焉に備えなければならない。
スターバックスラテ、トールサイズ、ホット。僕は記憶と、カウンターの上部に取り付けられたメニュー表を見比べ、商品の呼称や注文手順に変化がないか繰り返し確かめた。
僕はスターバックスでスターバックスラテのホット、トールサイズ以外を頼んだことがない。当然、カスタマイズなどは考えたこともない。
他のビバレッジに興味はないのかと問われれば、飲みたくないわけではないと答えるだろう。しかしながら、殊にスターバックスのような独自の注文体系を持ち、かつ市民権を得た店においては、レジでの些細な淀みは店員と後続の客の注意を集める結果となり、僕の浮遊に直結する。自身の欲求を満たすことよりも、ただ衆目を集めずすべてを無難に熟すことこそが、唯一の行動規範なのだ。
スターバックスラテ、トールサイズ、ホット。これが僕自身が開拓して、幾度となく踏み固めた唯一の安全な道なのであった。
「お待たせいたしました、ご注文をどうぞ」
緑色のエプロンを下げた店員が、バリスタとしての誇りを湛えた笑顔で僕に言った。
僕は、ここで焦ってはいけない、と自分に言い聞かせた。僕が成すべきなのは自然な注文なのであって、注文RTAではない。
僕はカウンターに置かれたメニューを目で上からなぞり、自分の気分に合致するドリンクを探すように装いながら、接頭辞のようにフィラーワードを使ってスターバックスラテを頼んだ。
「あー、スターバックスラテ、ホットで」
このとき全ての注文を言い切らないほうがよい。捲し立てるように告げられる言葉は如何にも慣れていないように聞こえるうえに、聞き返される可能性も高くなる。そのため初手はドリンク名とホットかアイスか、もしくはドリンク名とサイズに留めるべきだ。そうしておけば、自然と次の質問が発生し、会話のリズムが生まれる。
「サイズはいかがなさいますか」
「じゃあトールで」
「トールで、かしこまりました。以上でよろしいでしょうか」
「あ、はい」
「スターバックスラテのトールがお1つで、お会計が418円頂戴いたします」
僕は財布から小銭を取り出す。
完璧と言って良い出来栄えだった。ほとんど予期した通りのやり取りを行い、滞りなく注文を済ませることができた。幾度となく繰り返したやり取りであっても、その回数が僕の緊張を和らげることはない。当たり前の結末を得るために、僕は最善を尽くし続けている。
僕は会計を済ませ、受け取りカウンターでスターバックスラテを待った。しばらくするとスターバックスラテのホット、トールサイズが運ばれてきて、僕は恙無く受け取った。
壁に面したカウンター席に空きを見つけ、身体を人や物にぶつけることに気をつけながら移動して、席についた。ここまで来てしまえば、よほどのことがない限り注目されることはない。僕はカメレオンのように店の背景として溶け込んだ。
僕は熱すぎるラテに口をつけながら、僕は自身の体質を呪った。
差し当たり、業務命令だった検診ができなかったことについてどう会社に説明するか、僕は考え始めた。
気づくとラテは最後の一口程度にしか残っていなかった。
ぬるくなったそれを呷り、僕は帰宅を決心した。
空になった紙製のカップを片手に、コンディメントバーに併設されたゴミ箱へと向かう。
コンディメントバーでは客がゴミを片付けていた。僕はその作業が終わるのを待った。
その時、突如僕は背中に強かな衝撃を感じた。「あっ」という声が背後から聞こえるとともに、僕は文字通りに吹っ飛び、激しく身体を打ち付けた。金属製のゴミ箱が甲高い音を立て、店内に響き渡った。僕は痛みと驚きに蹲った。
ぶつかってきたらしい男はぶつかったままの姿勢で唖然として僕を見ている。ゴミを片付けていた客も、氷を捨てるためにカップを傾けたまま、静止して僕を凝視していた。
店内は静まり返った。皆、僕を見ている。
僕がゆっくりと身体を起こそうとすると、我に返ったように店員が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!」
僕は自らが徐々に浮き上がるのを感じた。
「大丈夫です、大丈夫です」
慌てる店員を僕は宥めるように言った。店内は騒然とし始めた。その中心にいるのは僕だった。また、浮遊感が僕を襲う。不安と焦りが心の内を占める。
駆けつけた二人目の店員が、お怪我は、などと尋ねる。僕は大丈夫ですから、と言って立ち上がり、逃げるように店を出た。
高ぶった心拍は治まらないまま、僕は通りを歩き出した。ここを離れなければという焦燥が僕の足を早める。
しかしあまりに急ぎすぎては不審がられる。冷静にならなければならない。
「あの、すみません!」
足早に歩く僕の背後から女性が声をかけた。少し息が上がっている。
年は僕と同じくらいで、肩上で切りそろえたボブがよく似合う、整った顔立ちだった。
手にはスターバックスの例の奇妙なロゴが描かれたカップが握られている。店内から、僕を追いかけたようだ。
「違ったら申し訳ないんですが、」
彼女は少し間を置いて続けた。
「……あなた、浮いてませんか」
彼女の言葉に僕は狼狽した。誤魔化そうかとも思ったが、観察してわかることを誤魔化しても仕方がない。
しかしここを上手く切り抜けなければ、僕は再び浮いていくだろう。今はまだ、遠目に見て気づかれない程度で住んでいるが、これが10センチ、20センチとなったらどうか。人々は僕が浮いていることに気づき、驚くことだろう。そして僕はそれを受けてさらに浮く。僕の上昇に歯止めがきかなくなる。止まる頃には僕は人々の視界に入らないほどの高さにいるに違いない。
僕が次の一手を探していると、出し抜けに彼女は言った。
「私もなんです」
僕たちは人の密度が低い公園に向かって歩いた。
お互いに、自分以外の浮遊体質に合うのは初めてだった。道中ではお互いの体質についての経験について話をした。
今日の健康診断を断られた話。学生時代に困ったこと。以外に便利な側面。
同じ境遇を過ごした僕たちは、瞬く間に意気投合した。
僕の話に彼女が共感し、彼女の話に僕が共感する。僕と彼女はそのたびに、体重を少しずつ取り戻すのを感じた。
僕は初めて誰かと分かり合うという経験をしたようにも思った。
僕と彼女の異なる歩幅が、徐々に歩調を合わせていく。幸福が、僕の身体を貫いた。
僕たちは公園に着くとベンチに腰掛けた。
「今日はありがとうございます、声を掛けてくれて」
僕は言った。
「いえ、こちらこそ、私も仲間ができたようでとても心強いです」
仲間。
仲間。
仲間……。
僕はその甘美な言葉の響きを何度も反芻した。この体質が表れて以来、僕はどこにも上手く馴染むことができなかった。
しばらくは誤魔化しが効いても、いつかはそれが破綻して、僕は徐々に孤立する。それが常だった。
僕はそういう星の下に生まれた人間なのだと思った。確かに体質が人を遠ざけた面もある。しかしながら、僕は本性として、溶け込むことが苦手なのだ。根本原因はそこだった。
しかし、今、僕は同じ苦しみを分かち合う仲間を見つけた。持たざる者として生きてきた僕の二十数年間が報われたように感じた。
彼女と、人よりも少ない僕たちの体重を支えながら生きる。出会って数時間も経っていない相手に対して、そんな妄想をするのは、軽薄なのだろうか。
「もう優勝~~~~~って感じですね」
彼女は言った。
「え?」
「あっ、すみっ、すみません私!私油断しちゃうとオタクみたいな喋り方になっちゃうんですフヘヘいやなんかシチュエーションがそれなんてエロゲ?みたいな感じでちょっとこうこっ興奮しちゃってッヒヒあれですね私にもとうとうみっ岬たんがやってきた気分で!作りますか一緒にエロゲ?あ待ってこれなんかこれプロポーズみたいじゃないですかヌッフ君と僕とで二人のエロゲを紡ごうみたいなあっあっ気持ち悪いですよねフフ止まらなくなっちゃうんですよこれちょっと待ってくださいあのちょっと落ち着くのでアッやばいちょっと」
彼女はそのまま浮かび上がった。止まることなく上昇し続ける彼女は、間もなくして僕の視界から消えた。
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