孤独を託つ(フーミン(松任谷不実)谷の冬)

 時計が部屋に時を刻んでいる。


 昼間は傍らの線路をけたたましく往来する電車もいつしかその姿を消し、窓の外は生命の気配を絶った都会の冷たい宵闇が深閑としている。

 七畳一間は秒針のステップのあわいにますます杳さを増していくようだった。私が寝返りを打つと安物のパイプベッドは苦しげに軋み、その音は悄然と霧散した。

 どれほどの間、私はこうして身体を丸めているのだろうか。眠ろうという焦燥にも似た欲求が、逆説的に精神を現(うつつ)へと繋縛している。

 時計は絶え間なく時を打つ一方で、私の時間への感覚は茫漠とした暗がりに溶け出してしまっていた。

 ただ、現在が過去へと溶接されたこの幽遠な空間で一人、際限なく自らの意識に沈潜することを、私は強いられていた。


 東京で働き初めて3年の月日が経った。


 空なのかアスファルトなのかわからない鈍色の街並みを過ぎ、直立もままならない満員電車に揺られ、Visual Studioの黒い背景へとコードを並べる作業。コーディングとGitへのpushのリズムが1日を形作る日々。

 休日はインターネットと書籍で無聊を慰め、アルコールがもたらす甘い痺れに耽りながらただ翌日を待っている。


 私は何かを期待して東京へ来たわけではなかった。むしろ、私はこの緩慢に死へと向かうイテレーションを望んで受け入れてきた。


 就職面接のため訪れた東京は、歯車が互いに噛み合うように、人々が街を行き来していた。

 隣で上司らしい相手に電話で謝罪するサラリーマンの会話は意識しなくても聞こえるし、地雷メイクの女はSNSにポストするセルフィーの編集工程を後ろから観察されることを意に介さない様子だった。

 皆、肉体の生々しい熱気を感ぜられるほどに近接しながら、それでいてその相手のことはまるで生命として見なしていない。街には他者の肉感が存在する間隙はまるでなかった。

 私はその寒々しい無機質な生命に魅了されたのだ。雑踏の中で街というシステムに自らが組み込まれることに、私は揺籃のような安心を覚えた。


 私は、自らの生活の中から個としてのテクスチュアを意図的に排してきた。

 通勤と労働、退勤の単調な日々も、何事も起こらない休日も、私が望んで手に入れたものだ。

 人々を抽象化し、個別的なものを捨象したときに残る一般的な要素だけで構築された生活。私は自身が70億分の1であるという、統計的な事実をドグマとしてきた。

 どこかの誰かが私と突如入れ替わったとして、何ら不自然なところはない、外れ値のない日常。


 元来、人は孤独だ。

 精神と精神は際限なく隔たっており、交わることはない。ただ、身体や言語といった極めて不完全で頼りない媒体だけが私達には与えられている。私達はそれらを繰ることで、満たされることを知らない他者への飢えを凌いでいる。それはあたかも血肉を求め彷徨うリビングデットのようだ。


 私は弱い人間だった。

 この幽闇な孤独にも、他者を求める自らの腐臭にも、耐えることができなかった。

 だから私は社会や世間といった第三者の審級に縋った。

 第三者の審級の下で本質的には無限遠としか表しようのない他者との距離を、プロクルステスが寝台に人を押し込めるように、計測可能なものとして措定してきた。こうして私は真綿で首を絞めるような緩やかに死へと向かう毎日と安寧を得たはずだった。


 四半世紀にわたって積み上げた色彩に欠ける人生。それによって私は自らの存在について、それが自らであるという特殊性を希薄化させた。何者も私のこの薄さを脅かすことはないようにも思えた。

 しかし、この存在というもの。絶望的なまでに深く、巨大で、果てのないもの。

 もがけばもがくほどに足を取られる流砂のように、そこから逃れ出るための行動はむしろ、その桎梏を重くした。

 私自身が、その存在の支配者として、全き統治を行っているようでいて、しかしながら主従は逆だった。

 私の存在はこの不眠の夜暗のように私を覆い、孤独が私を圧倒している。どれほど偏執的に身体を洗い流そうとも拭えない臭い、それが私の存在なのであった。

 私は今、私であることを強いられている。


 閉ざしていた瞼を薄く開けると、ローテーブルの上でロックグラスとウイスキーの飲みさしが息を潜めているのが見えた。溢れんばかりのクラックドアイスは見る影もなく、滴った水滴がグラスの足元に小さな水たまりを作っていた。

 決して広くはない部屋に整然と、あるいは無造作に配置された家具はそれぞれ深い影を落としている。影は静寂を湛えて、ただぼんやりと蠢いていた。

 私は再び寝返りを打って深く目を瞑った。


 私は今日も一人、安価なベッドの上、時計の針が一秒ごとに立てる音に慄きながら、ただ耳をそばだてている。

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