第八章 流星丸

01.

「ぎゃあああああ!」


 島の上空で、慈風坊さまは前触れもなく急降下をお始めになった。

 空に取り残されそうになる。

 必死に慈風坊さまの装束にしがみつく。

 江ノ島が見る見る大きくなる。

 あたしはここで死ぬ。


 不意にふわりと宙に浮く感触。風の音が止んだ。


「着いたよ」


 慈風坊さまのお背なから降りるようとしたら、かくんと膝が抜け、あたしは尻もちを突いてしまった。

 立ち上がる気力が湧かない。

 地に身体をつけることがこんなにも心地のよいものだったなんて。


 振り返ると、紫乃はまだ飯綱さまの背中におぶさったままだった。

 飯綱さまは子どもをあやすように「ようしよし」と背中を優しく揺すっている。

 覗き見ると、紫乃は目を半開きにし、ぽつんと口を開けていた。

 魂を空に忘れてきたようだった。


 降り立ったのは島の入り口、参宮橋の袂だった。


 昨日は紫乃に手を引かれ人混みをかき分けて渡った参宮橋。

 今その橋上には人っ子一人見当たらず、上ったばかりのお天道さまに照らされ眩くその形を露わにしている。


「江ノ島に来るなんて何年ぶりかな。昔の橋はこんな丈夫そうなものじゃなかった気がするな」


「岩本坊さまは昔この島にいらしたのですね」

 飯綱さまがお尋ねなさると、慈風坊さまは「ええ」と首肯なされた。


「そう聞いています。僕が弟子入りした頃にはもうとっくにここを離れていましたがね」


 飯綱さまは紫乃を膝枕で寝かせたまま話している。

 慈風坊さまは青銅鳥居の周りを歩き回ったり、灯かりの落ちたお土産屋さんを覗き込んだりしている。


 やがて参道の向こうから人がやってきた。

 もちろん見知った顔も多い。誰も一向に近寄ろうとはせず、遠巻きに様子をうかがっている。

 何しろ山伏姿の天狗面と烏面。ただならぬ雰囲気である。


 暫くして弁天楼夫妻と金子姉さまが現れた。


「銀ちゃん!」


 駆け寄ってきた金子姉さまに、力いっぱい抱きすくめられた。

 おじさまとおばさまは地に膝を突き、かしこまって名乗りでた。


「某、当代弁天楼にてございます。娘たちがご迷惑をお掛けしたご様子。平にご容赦いただきたく存じ上げます。お二方とも名のあるお柱かとお見受け申しあげまするが、何れのご神明にてあらせられますでしょうか」


 慈風坊様が肩を竦める。


「君が弁天楼か。ということはだ、紫乃くんのお父上だな。よくできた娘さんをお持ちだ。さてさて、問われれば答えよう。あちらにおわすは信濃の国荻野が無道天狗、飯綱三郎さまである。小生は高尾山薬王院に住まう外法天狗、人呼んで慈風坊と申す。弁天楼殿、以後お見知り置き願おう」


「畏まりましてございます」


「はいそこまで!」

 と慈風坊さまが手を打った。


「堅苦しいのは抜きにしようぜ。一応君ら霊薬師の顔を立てて挨拶をしたけどさ、僕はこういう形式張った言葉を使っていると背筋を毛虫が這っているような心持ちになるんだ。君らの名前を教えてくれよ。おっと、こうした場合先に名乗った方が君らも名乗りやすいかな。僕は真の名を『如清風』という。気軽に呼んでもらって構わないよ。まあ君らにとっては気軽とはいえないことかもしれないけどね。それは僕の知ったことじゃない。さて、君らの名前を教えてもらえるだろうね?」


「は、それは」

 梅鶴おじさまは面食らい二の句を継げずにいる。

 千里おばさまは黙って頭を下げ続けている。

 大人たちのやり取りは実にまどろっこしい。


「あちら、梅鶴おじさまと千里おばさまです。ついでにいうと、こちらが姉の龍神庵金子です」


 立ち上がったあたしは、形式を放っぽりだし、さっさと大人たちの紹介を済ませた。

 すると、顔を上げた千里おばさまにきっと睨まれた。

 そんな顔をしないでもらいたい。

 このまま放っておくと、戸惑った梅鶴おじさまと喋り続ける慈風坊さまとで、延々と平行線を辿り続けるのが目に見えているではないか。


「そうかそうか、弁天楼の梅鶴くんと千里くん、そして龍神庵の金子くんだね。うん、覚えておこう。僕の記憶なんてあまり当てにしないでほしいところではあるけどね。それでは諸君、もし君たちさえよければ中津宮に案内してもらえるかな。あそこにはかつて僕のお師匠がいたんだよ。もちろん知っているだろうが、岩本坊さまだ。中津宮は空座となっていると聞いた。明日までそこに居座らせてもらっても構わないだろうね?」


「は。それではご案内奉ります。時に慈風坊さま。明日までと申されますが、此度のご来訪はやはり大黒審判のためでしょうか」

 頭を上げた千里おばさまが問うた。


「いやいや。千里くん、そうじゃないよ。大黒審判なんて珍しくもない。執り行われるのは五年おきだったかな? 君たちにとっては生涯に数えるほどしか立ち会えないものかもしれないけどね、僕たちにとっては満月朔月と変わらぬくらいありふれた催しに過ぎないよ」


「左様でございますか」


「うん。お目当ては他にある。僕たちはね、『万象丹』の復活に立ち会おうと思っているんだよ」


「は」

 千里おばさまと梅鶴おじさまとが揃って目を見開いた。


 二人はもちろんその名を知っているのだろう。

 『万象丹』は今も弁天楼に伝わっているはずである。

 あたしの側にいる金子姉さまは分かっているのか分かっていないのか、ぽかんと口を開いている。


「あなた。紫乃さんがお目覚めですよ」


 飯綱さまに支えられて立ち上がった紫乃だったが、すぐにふらついて倒れそうになった。

 慌てて駆けよった梅鶴おじさまが両手で紫乃を抱きかかえる。


「詳しい話は銀子くんと紫乃くんから聞いてもらおうかな。僕たちは少し休みたい。中津宮は確か参道の奥だったね?」


 慈風坊は勝手知ったると言わんばかりに仲見世通りを登り始め、紫乃の頭を軽く撫でた飯綱さまがそれに続いていった。

 慌てて千里おばさまが立ち上がり、お二方を追い越して先導を始める。


「……ここはどこですの?」


 ぼんやりした声の紫乃を見下ろした梅鶴おじさまが大きくため息を吐いた。

 それからあたしの方を見遣り、腹の底で響くような低い声を出した。


「どういうことか、説明してもらおうか」

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