04.
支度を整え、あたしたちは空へ飛び立った。
慈風坊さまはあたしを、飯綱さまは紫乃を、それぞれのお背なにおぶってくださった。
つい先日、龍神さまのお背なに跨がり、雲の上にまで飛んだときのことを思い出した。
あのときは、海から空へ海水を巻き上げるような力強さを感じた。
天狗さまの飛翔はそれとは違い、天空こそが己のあるべき場所であると宣わんばかりに、重さや力を感じさせない飛び方であった。
山頂とは違う方向に向かう様子を見て「山頂には行かないんですか?」とお尋ねすると、慈風坊さまはその理由を毎度のごとく長々と説いてくださった。
「そうだよ。高尾山の山頂は草木に埋もれているからね。天狗のひげはだね、精々が十センチに届くかといったくらいの背が低い樹木なんだ。確かに人間の目線でいえば山頂は空に近い。しかしだね、天狗のひげにとってみればだよ、空に一番近いのは、他の草木が生えないようなところなんだな。つまりだ、岩肌がむき出しになった崖なんかで、風に吹きさらされているところ、天狗のひげはそういったところに生えるのさ。武蔵野の辺りではね、崖のことを『まま』や『のげ』、『はけ』と呼ぶ。『ひげ』とは『はけ』が訛ったものではないかと、僕なんかはそう思っているよ。ところで銀子くん。人間は山に登るとき、南北のどちらから登るか知っているかい?」
「え。どちらから?」
「多くは南面から登る。北面から登るのは物好きだけだ」
あたしが考えているうちに、慈風坊さまはさっさと話を先に進めてしまわれた。
「南面は日の当たりがいいだろう。故に草木が繁茂する。するとだね、その根っこが土をしっかり懐に抱きかかえるんだな。雨が降ってもその水は土に吸われ草木をより茂らせる。だから南面は土にしっかり覆われている。これが北面だとね、そうはいかない。草木が少なければ少しの雨でも表の土が流れていってしまう。すると山の骨格たる岩肌がね、むき出しになるわけだ。山の北面は崖だらけになる。世界的に有名な登山の難所の多くに『北壁』と名が付いているのはそれが理由なんだ。アイガー、グランドショラス、マッターホルン。名前はもちろん知っているだろう? 世界三大北壁と呼ばれる難所たちだ。もしも君が命をかけて山を征服しようという野望を裡に秘めている物好きでないのならね、覚えておくといい。山に登るときは南面からだ」
そう仰るそばから、慈風坊さまは高尾山の北面、崖の上に着地された。
ここは確かに風が強い。
「ご覧、あれが天狗のひげだよ」
慈風坊さまの指さす先、崖の半ばに黒い線がへばりついているのが辛うじて見える。
今度はお二方に脇を抱えられ、あたしと紫乃は天狗のひげの採取にあたった。
天狗のひげは、それぞれ三十センチメートルくらいの間を置いて群生していた。
お互いが近すぎては風を全身に受けられなく成るのだろう。
崖の上に戻り、天狗のひげを舐めるように回してみるが、やはりどうしても薬草に見えない。
「ひげというよりひじきですね」
「……銀子」
紫乃が呆れ声を出した。
「ひじきか! 参ったね、それはいい。有り難みがまるでないところが実にいい。君は龍神庵の娘だろう? これと似たものを知っているはずなんだけどな」
「あ! なるほど!」
慈風坊さまのお示しになった方便の意図に気づいたあたしは、爪でその表面を引っ掻いてみた。
「どうだい? この美しさに比肩するものは世に二つしかないはずだけどね」
黒い表皮の下には、虹色の木質が詰まっていた。
間違いない。
これこそが龍涎香、蓮華の夕露と並ぶ霊薬の約種、天狗のひげである。
あたしが窺うと、紫乃もこちらを見た。
そして頷き合う。
「さあ、それでは島に送ろう」
そう手をお打ちになり、慈風坊さまは再びあたしをお背負いになった。
飯綱さまが「さあ紫乃ちゃん、行きましょう!」と妙にはしゃいでいる一方で、紫乃は「……はい」と浮かない表情を浮かべていた。
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