04.
歩き始めからしばらくは、これが本当に山登りの道なのかといった風情だった。
確かに傾斜はある。
しかし道の両側は民家とおみやげ屋さんでいっぱいだ。
これでは江ノ島の仲見世通りと大差ない。
数分も歩くと家屋の代わりに杉林が道の脇に並ぶようになった。
道はぐねぐねと左右に曲がり、ときには百八十度ぐるりと回るようなところもあった。
濃い緑のおかげで日差しは届かなかったが、それでも背中には汗が浮かび始めた。
「こんにちは」
「こんにちは!」
最初は戸惑ったが、行き交う人からの挨拶に返事をするのにも慣れた。
前を行く紫乃は挨拶もそこそこに先へ先へと急いでいるようだった。
後ろから見ていても分かるくらい肩の上下する幅が大きくなっていき、挨拶の声は次第に小さく萎んでいった。
「ねえ、紫乃」
「……何ですの」
「少し休まない?」
「疲れましたの?」
「ううん。あたしは平気」
「でしたら休みは後です。少し先に展望台があるはず。そこで休みましょう」
疲れているのはあんただろう、とは言い難かった。
言ったところで紫乃が素直に聞き入れるとは到底思えなかったし、ここは好きにさせてやろうとあたしは様子見を決めこんだ。
「こんにちは!」
「はいこんにちは。……ちょっと、君たち。待ちなさい」
曲がり角の道端で腰を下ろしている老夫婦に挨拶をすると、旦那さんの方があたしたちを呼び止めた。
「今から上まで登るつもりかい? もういい時間だよ」
旦那さんはそう言って自分の腕時計を示した。
今は十六時。
確かに、お天道さまは天頂を離れて久しく、空気は紅味を帯びている。
鬱蒼と茂った杉林のせいかもしれないと思っていたが、間違いなく辺りは暗くなってきている。
「大丈夫ですわ。今日は山頂には行きませんの。薬王院までですから、日没までには下ってこられますでしょう。ケーブルカーもその頃までは動いているはずですし、危ないことはありませんわ。お気遣いありがとうございます。実はわたくし、前々から山登りに憧れておりましたの。見知らぬ者同士がすれ違いざまに挨拶を交わしたり、ときにはこうして助け合ったり、人情味が溢れておりますわ。それもこれもお二人のような心お優しい方々お一人お一人のちょっとした心がけからきておりますのね。わたくしも将来は強く優しくたくましい殿方と、二人仲よく山に登るような夫婦となりたいものですわ」
「やあね、そんな大したもんじゃないのよ、本当」
「参ったね」
老夫婦は時間のことも忘れ、小遣いをおねだりする孫娘に接するかのようにめろめろになってしまった。
ついさっきまで低い声でぼそぼそつぶやいていたのが嘘のような饒舌っぷりである。
以前、弁天楼を訪ってきた老紳士に、これと似たようなおべっかを使っているのを見た記憶がある。
もしかしたらこの話の持って行き方は紫乃の持ち技の一つなのかもしれない。
ともあれ、これで紫乃が先を急いでいた理由ははっきりした。
日没が近い。
時間の余裕がないのだ。
たっぷり五分はしゃべり続けた後、紫乃はちゃっかり弁天楼のビラを老夫婦に手渡してから、頭を深く下げてその場を辞した。
「……ほら、急ぎますわよ」
「うん」
そこから展望台まではすぐだった。ケーブルカーの終着駅である高尾山駅、その周りにおみやげ屋さんと食べ物屋さんが立ち並ぶ。
そこから見上げると、急峻な坂道の上に、横置きにしたバームクーヘンのような形の展望台が立っていた。
ここもまた江ノ島の展望台を想い起こさせた。
あちらはエスカーの終着点、こちらはケーブルカーの終着点といったところまでよく似ている。
ガラス張りの展望台には惹かれたが、側面のガラスには「ビアマウント」の文字が並んでおり、無料で入れるのか分からなかったため、今日のところはその下の見晴らしがよいベンチで我慢することにした。
「はい。お茶と、お団子」
「ありがとう」
座り込んだ紫乃に、近くで買ってきたペットボトルとお団子の串とを手渡す。
「三福だんごだってさ。大福、幸福、裕福。縁起がいいからこれにしちゃった」
「あなたにしては悪くないセンスですわ」
疲れの溜まった全身に、団子の甘味とくるみ味噌の塩気が染み渡る。
眼前には空が広がり、眼下には地が広がっている。
すぐ手前には緑に萌える樹々が凸凹と海にうねる波のように起伏を描き、その先には白亜のビルが林立している。
人里の白い波頭は遥か遼遠まで絶えることなく続いている。
景色の遠さに直近の焦りを忘れたあたしたちは、ぼんやりとした会話で頭と身体を休めた。
「さっきそこに猿園があったよ」
「何故こんなところにそんなものが」
「何でだろうね」
「また来たいですわ。今度は、もっとゆっくり」
「そうね。別の道も歩いてみたい。滝があったりするんでしょ」
「ええ。沢登りのルートもありますわよ」
三福だんごの串を捨てて戻ってくると、紫乃は片手にスマホ、片手に駅でもらったパンフを広げていた。
時計と地図で今後の行程を見積もっていたようだ。
「今が十六時半。三十分もあれば薬王院に着くとして、それから一時間で天狗のひげと調薬方をもらってくれば、何とか日暮れには間に合いそうですわね」
「帰りはケーブルカー乗ってみたいな」
「わたくしは構いませんが。けちなあなたにしては珍しいですわね」
「面白そうじゃない。それに、島に帰ったらまた忙しくなるんだし、体力温存しとかないとね」
「ま、一理ありますわね」
紫乃はパンフを折りたたみ、スマホと一緒にしまって立ち上がった。
「そろそろ参りましょう。急ぎませんと」
展望台を出発し、アスファルトの道を歩く。
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