05.

「もしもし」


「……」


「あの」


「……」


「まいったなあ。おーい!」


「……ぐぅ」


「あ、また! ちょっと姉さま! お客さま、お客さま! 起きて! 起きてってば!」


 店の方から話し声が聞こえてくるから何ごとかと覗いてみれば、金子姉さまはまたもや昼間っから夢を見ているところであった。


「あら、銀ちゃん、もう晩ご飯?」


「全然まだよ! お客さまだってば!」


「あら、本当。いらっしゃいませ。本日は何のご用でしょう。あ、なるほど。育毛剤ですねえ。すみません。うちでは取り扱っていないんです」


「……まだ何も言うとらんのやが」


「うふふ。言わなくても分かりますよう。わたし、人の病を見る目は確かなんです」


「どこ見て言うとるんや!」


 姉さまの接客を見ていると鼻血が出そうになる。


「すみません、お客さま! このお馬鹿、今ちょっと寝ぼけてまして、ほら、目が開いてないでしょう!」


 あたしは姉さまの頭をがしっと掴み、お客さまの前に突きだした。


「えー。お姉ちゃん、起きてるよ。しっかり見えてますよ。眩しいよう」


「……もうええ。ったく、わざわざ島の奥まで来て、とんだ無駄足やわ。空いてる方がええかと思うたらこれやもんな。閑古鳥が鳴くにはそれなりの理由があるいうこっちゃな」


 このお客さまは、どうにも聞き捨てならないことを言い出した。


「最初っから弁天楼に行きゃよかったわ」


 あたしの脳天から怒りの奔流がほとばしった。


「おんどりゃ黙って聞いてりゃつけあがりやがってこのすっとこどっこい! 好き放題言ってくれるじゃねえかハゲちゃびんのエロがっぱ! そんなに弁天さまがいいってんならさっさと向こうにいっちまえ! 店ん中でハゲ散らかされると抜け毛の掃除がめんどくせえんだよ! 三つ数えるうちに失せて消えな! ほら、ひとーつ!」


 あたしが塩を投げつけると、お客さまは「何やこの店は!」と叫んで走り去っていった。


「おとといきやがれってんだ!」


 勝った。

 何にだ。

 やってしまった。

 またもお客さまを追い払ってしまった。

 また店の評判が悪くなる!


 帳場机に額を打ちつけていると、頭に優しく温かい手が置かれた。


「銀ちゃん、お客さまにハゲちゃびんとか言っちゃ駄目よ?」


「……姉さまが、それを言うの?」

 泣きたくなってきた。


「とにかく、お塩を片づけましょう」


「ああ、だったら白金兄さまにやらせといて。あたし、まだ伝票の処理残ってるし」


「あら、兄さまは今お休みになってるから無理よ?」


「叩き起こして! 今すぐ!」


「でも、昨夜は怪物に襲われている村を救って疲れたからって」


「ぶん殴って! 今すぐ! ていうかあたしが殴る!」


「村の英雄を殴ったら駄目よ?」


「それネットゲームの話だから! あの人の言うことをまともに聞いちゃ駄目!」


 そのとき、店先からじゃりという音がした。


「邪魔するぞ。む? 何だこれは」


 すわ新しいお客さまか、と思ったがその期待は外れた。


「塩を撒いたのか。なめくじでも出たか?」


 現れたのは弁天楼の長男、当麻数之進。

 長身に、真面目くさった七三に分けた黒髪、黒縁メガネ、むすっとした切れ長の目と、妹の紫乃とは雰囲気がまるでちがう。

 立ち襟の白シャツに絣の着物、柿渋色の袴という近代の書生めいた格好は「この方がお客さまに受ける!」と紫乃に着せられているものだ。


「あらあら、数さん。どうしたの?」


 土間に下りた姉さまはからころと下駄を鳴らして数兄に駆けよっていった。


「うむ。紫乃が帰ってこないのだ」


「え、そんな!」


 大袈裟に驚いた姉さまがよろめくと、数兄はさっと腕を回して姉さまを抱きとめた。


 嫌な展開だ。

 この流れは実によくない。


「あの子、何をそんなに思いつめて!」


「……俺にも分からん」


「もしかして、あたしたちのことで思い悩んで……」


「っ! そんな! ……そう、なのか?」

 額に手をやり、苦しげに顔をしかめる数兄。


 さて、店先に散らばるお塩を片付けなくては。


「俺のせいだ。俺は、気づいてやれなかった。あいつが、あいつがこんなにも苦しんでいるというのに!」


「いいえ、数さん。あなただけのせいじゃない」


「……金子」

「一人で背負いこまないで」

 抱き合う二人。


「はいちょっと失礼」

 竹箒で土間を掃くあたし。


「……やはり、許されないのか、俺たちの愛は」

 店先の往来でしゃがみこみ、天を仰ぐ数兄。


「数さん、諦めないで! きっと、きっといつかは……!」

 数兄の胸に抱かれたまま悲痛な声を出す金子姉さま。


 二人は、どうしたわけだか、自分たちのことを両家の確執により結婚を許されない悲劇の恋人たちだと思っている。

 数兄は、真面目な風貌そのままに頭の切れる秀才であるし、若くして才を発揮する霊薬師でもある。


 しかし実のところ阿呆である。

 これまた世に名高い『夢見の金子』については最早いうまでもない。


「はいはい。見世物ではありませんよ。散った散った!」


 只ならぬ雰囲気の二人に気づいた通行人が「何ごとだ」と立ち止まるのを、あたしは「しっしっ」と追い払った。


 実際のところ、龍神庵・沖野家と弁天楼・当麻家の間に確執などは一切ない。

 龍神庵と弁天楼は、大昔には同じ一つの店だった。

 それが分かれてから早二百と七十年余。

 その間、両家に目立った争いなどなかった。

 もちろん商売敵ではあるが、それは健全な競争の範疇である。

 両家の確執などというものは二人の脳内にしかないのである。


 何年も前からずっとこの調子なので、あたしも紫乃も、もう諦めて放っておくことにしている。


「で、数兄。あいつ、どこ行くか言っていかなかったの?」


「うむ。俺が学校より帰るより早く、紫乃は家を出ていた。親父殿から聞いたところによると、あいつは珍しく『採取に行く』と張り切っていたそうだ」


「あらあら。紫乃ちゃんも元気ねえ。どのくらい帰ってきていないの?」


 猿芝居を終えた数之進と金子姉さまは、立ち上がり裾についた土埃を払っている。


「学校から帰ってきたのが三時半。それからすぐ出かけたそうだ」


「あたし、学校から帰った紫乃と会った。あれからすぐだと、二時間くらい? そんなに慌てなくてもいいんじゃない?」


 空は赤味を帯び烏は鳴いているものの季節は初夏の五月。

 外はまだまだ明るい。


「俺もそう思う。だが、遅い遅いと親父殿が騒いでな。探してこいと言いつけられた」


「おじさま、心配性だしね」


「うむ。あいつの帰りが遅くなるのはままあることだし、龍神庵で油でも売ってるのではと思って来てみたのだが」


「あら残念、無駄足だったわね?」


「無駄なものか。こういうときでもないと会うことすらままならないのだから」


「……数さん」


「あの、帳簿机の前で上演されると迷惑なんですけど」

 やりさしになっていた伝票整理をしながら言ってはみるものの、やはりこの二人は聞く耳を持たない。


 それにしても、紫乃が採取とは珍しい。

 普段は薬の勉強も、薬種の採取も碌にしようとしないくせに。


「……あ」

 ふと、思い当たる節があった。


 あたしが『龍涎香も手に入れて、これで大黒審判はばっちり』などと言ったから、紫乃は対抗心を燃やし『じゃあわたくしも!』などと思い立って店を飛びだした。


 紫乃ならきっとそうする。

 あたしでもそうする。

 相手に負けないくらいの大金星をあげて……。


「っ!」

 勢いのまま立ち上がると、帳簿机が大きな音を立てて引っくり返った。ぶつかった膝がじんじんと熱を帯びる。


 だが、それどころではない。


「びっくりしたあ。銀ちゃん、どうしたの」


「……今日、金曜日だ」


「そうねえ。それがどうしたの?」


「数兄!」


「うん? ……っ! 夕星か!」

 首を捻っていた数兄の顔色が変わった。


 あたしは下駄に足を突っこみ、店から飛びだした。

 観光客でいっぱいの表参道をあたしはちょこまかと駆けぬける。


「どいたどいた!」


 龍神さまをお祀りする奥津宮龍宮の脇を抜け、石段を駆け下りる。

 からんころんと石畳に下駄が響く。


 途中、民家の隙間から裏参道に入る。

 表参道とは違い、裏参道には店も名所もない。

 こちらは島の住人だけが使う生活道路だ。

 上り下りの勾配は緩いし、道を塞ぐ人込みもない。

 路肩に停めてあるバイクと自転車が邪魔ではあるが、表参道に比べたらよほど走りやすい。


 道はよくても格好がよくない。

 浴衣は走りにくい。


 仕方がないので一旦立ち止まり、身支度を整えた。

 裾を捲り上げ、端っこを帯に挟み込む。前掛けから取り出したたすきで袖を捲くし上げにする。


 これでよし。

 軽快そのものだ。


 坂を下り、赤い欄干の橋をくぐり、瑞心門を抜けると、もうそこは弁財天仲見世通りである。

 ここがまた人が多い上に道が狭い。

「ちょいとごめんよ!」

 並みいる人をかき分けかき分け、仲見世通りの坂を駆け下りる。


 弁天楼の前には、スラックスに半纏をまとったおじさまが立っていた。

 このおじさまこそが、紫乃と数兄のお父さまにして弁天楼の現店主、当麻梅鶴だ。

 筋肉質の大きながたい、白髪交じりの角刈りにいかめしい顔つきと、威厳に満ち溢れている。


「おじさま!」


「む、銀子か!」

 おじさまはあたしの姿を見るや、どたどたと足を鳴らしてこちらに駆け寄ってきた。


「紫乃がどこに行ったか聞いておらんか?」


「聞いてない。でも多分、弁天沼!」


「弁天沼? 何だって、また」


「金曜の夕方だから! あいつの目当ては、蓮華の夕露よ!」


 おじさまの顔から血の気がひいた。


「えらいこっちゃ! おい、おまえら、店じまいだ! 沼へ行け! 弁天沼だ!」


 おじさまは慌てまくりの狼狽えまくり、近くにいた店員やらお客さまやらにああだこうだと喚き散らしている。

 威厳に満ち溢れているのは黙っているときだけなのだ。


「お邪魔するよ!」


「あ、おい! 銀子! 待たんか!」


 あたしは弁天楼の店内を突っきり、勝手口から裏へと飛びだした。

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